第百二十五話 馬は米を食わぬが、飯線を食う
馬は米を食わない。
当たり前のことだった。
だが、その当たり前を、清洲蔵の誰も本当の意味では分かっていなかったのだと思う。
米を食わないなら、飯線の外だ。
そう思いたくなる。
だが、弥助殿は言った。
馬は米を食わぬが、飯線を食う。
その意味は、翌朝すぐに分かった。
清洲蔵の外庭に、馬が三頭連れてこられたからだ。
馬廻りの者が二人。
荷駄役が一人。
それから、馬の世話に慣れた年配の男が一人。
馬は、蔵の前に立つだけで場所を取った。
人が通る道が変わる。
荷を置く場所がずれる。
水桶の位置が気になる。
太助が少し離れて歩く。
まだ何も運んでいない。
ただ馬がいるだけで、飯線がゆがみ始めていた。
「でかいな」
権六が腕を組んで言った。
年配の馬係が笑う。
「馬だからな」
「米は食わないんだよな」
「食わん。食わせたら腹を壊す」
「なのに飯線を食うらしい」
馬係は少し首を傾げ、それから弥助殿を見た。
弥助殿は何も言わない。
ただ、俺たちへ目を向けた。
「見ろ」
それだけだった。
まず、水だった。
馬は水を飲む。
当然だ。
だが、その量が人とは違う。
馬係が水桶を二つ用意すると、佐助がすぐ顔をしかめた。
「その水は、どこから?」
「井戸だ」
馬係が答える。
「人の飲み水と同じ井戸ですか」
「井戸は井戸だろう」
その一言で、高畑の井戸番の声が頭に戻った。
飲み水よし。
味噌よし。
非常触るな。
高畑では人の水だけでも札が必要だった。
そこへ馬が来る。
人水。
味噌水。
非常水。
そして、馬水。
分けなければ揉める。
いや、分けても揉める。
権六がすぐ文句腹帳を開いた。
「これは絶対文句が出る」
「どんな?」
太助が聞く。
「人より馬が先か、馬より人が先か」
その瞬間、馬廻りの若い者が言った。
「馬が倒れたら荷が動きません。水は馬が先でしょう」
別の人足が、少しむっとした顔で返す。
「人が倒れても荷は動きませんよ」
出た。
早い。
馬が水を飲む前に、もう文句が出た。
弥助殿は止めなかった。
むしろ、出るのを待っていたようだった。
俺は二人を見て言った。
「どちらが先かではなく、札を分けます」
佐助が頷く。
「高畑の水札を応用しましょう。人水、馬水、味噌水、非常水」
伊三郎がすぐ書いた。
水札案。
人水。
馬水。
味噌水。
非常水。
権六が腕を組む。
「非常水は、人用か馬用か」
佐助が止まった。
そこだった。
非常水。
高畑では、人の非常用水だった。
だが、馬がいると話が変わる。
馬が倒れそうな時の水は非常か。
負傷者の水と馬の水がぶつかったらどうするか。
味噌片をほどく水と馬の水が同じ桶に近づいたら、誰が止めるか。
馬は米を食わない。
だが、水札を増やす。
水札が増えれば、声も増える。
声が増えれば、現場が詰まる。
太助が困った顔で言った。
「飲み水よし、味噌よし、非常触るな、に馬水よしを足すんですか?」
権六がすぐ返す。
「長いな」
「長いですね」
高畑の声は短いから効いた。
馬水を足せば、長くなる。
長くなれば、省かれる。
省かれれば、腐る。
馬係の年配男が、水桶を指した。
「馬の水は、人の飲み水の横に置くな」
「なぜですか」
佐助が聞く。
「跳ねる。泥が入る。馬の口が触れる。人が嫌がる」
「では、離します」
「離しすぎても駄目だ。汲む者が往復で疲れる」
出た。
離しても駄目。
近くても駄目。
川道の待ち荷逃がしと同じだ。
場所を取れば揉める。
遠慮しすぎれば遅れる。
馬水も、同じ腹を持っている。
かやが庭に小枝を置いて、水場を分け始めた。
「人水は井戸に近い。味噌水はその横。でも馬水は少し離す。非常水は、人水の後ろ」
「馬水が離れすぎる」
馬廻りが言う。
「近すぎると人が嫌がります」
佐助が返す。
「馬も人も両方を見ないといけないので、少し斜めはどうでしょう」
きぬが言った。
「横に並べると順番に見えます。斜めに置くと、別の場所だと分かりやすいかもしれません」
かやが目を細めた。
「なるほど。列にしない」
人水、味噌水、非常水を一つの水場としてまとめる。
馬水は、少し斜め後ろ。
同じ井戸から汲むが、桶を分ける。
馬係が歩いて確認した。
「これなら、馬も来られる。人の桶へ鼻を突っ込まない」
太助が馬の横に立って、荷を持って動いてみる。
すぐに顔をしかめた。
「馬の横、怖いですね」
「蹴るぞ」
馬係があっさり言う。
「さらっと怖いこと言わないでください」
「蹴るものは蹴る」
馬は悪気なく尾を振った。
それだけで、太助が半歩下がる。
半歩。
高畑で見張り前飯がずれた、あの半歩だ。
「今、下がったな」
作兵衛が言った。
「下がりますよ。馬の尻が近いんです」
「人の流れが乱れる」
作兵衛は庭の線を見た。
「馬の後ろを人足の通り道にするな」
「当たり前では?」
太助が言う。
「当たり前が、戦場では崩れる」
弥助殿が短く言った。
誰も反論しなかった。
人が増える。
荷が増える。
雨が降る。
馬が動く。
声が飛ぶ。
その中で「当たり前」はすぐ崩れる。
かやが人の流れを示す小札を動かした。
馬の前も危ない。
後ろも危ない。
横は荷が当たる。
結局、馬のいる場所を中心に、人の流れが大きく曲がる。
「馬は、そこにいるだけで道を食いますね」
太助が言った。
伊三郎が書く。
馬は、そこにいるだけで道を食う。
権六が頷いた。
「今日の題が見えたな」
「もう題はあります」
「馬は米を食わぬが、飯線を食う、だろ。今ので腹に落ちた」
次は、飼葉だった。
馬は米を食わない。
だが、飼葉は要る。
馬係が持ってきた飼葉束を置くと、佐助がまた顔をしかめた。
「飯荷の近くに置かないでください」
「なぜ」
馬係が聞く。
「匂いと虫です。飯包みに混じると困ります」
「馬のものを汚いと言うのか」
馬廻りの若い者が少しむっとする。
佐助は慌てずに答えた。
「汚いのではなく、混ぜられません。飯は人の腹へ入ります。飼葉は馬の腹へ入ります。どちらも大事ですが、同じ包み場には置けません」
年配の馬係が頷いた。
「その言い方なら分かる」
若い馬廻りも少し黙った。
言い方が大事だ。
馬を軽んじると、馬廻りが怒る。
飯を軽んじると、佐助が怒る。
どちらも腹の仕事だ。
かやが飼葉置き場を別に作る案を出した。
ただし、ここでも同じ問題が出る。
離しすぎると馬係が疲れる。
近すぎると飯包みが嫌がる。
風下に置くと匂いが流れる。
雨に当たると飼葉が傷む。
川道の魚籠に似ている。
魚籠は風下。
布と近づけない。
でも遠すぎると渡しが遅れる。
馬の飼葉も、荷の一つとして見なければならない。
「飼葉も飯線帳に入るのか」
権六が嫌そうに言う。
弥助殿が答えた。
「入る」
「馬の飯までですか」
「馬が動かねば荷が動かぬ。荷が動かねば兵の飯も動かぬ」
権六は文句腹帳に書いた。
馬の飯まで見るのか、という文句。繰り返し予想。
自分で書いて、苦笑する。
「美濃前哨、腹が多すぎるな」
「多いです」
伊三郎が答える。
「でも、分ければ見えます」
午後には、実際に馬を動かして試した。
馬一頭に、軽い荷を付ける。
その横に、太助が人足荷を背負って歩く。
馬廻りが前に立つ。
後ろに飯荷を持った若い人足。
庭の中を、仮の道として歩く。
すぐ詰まった。
馬が止まる。
太助が止まる。
後ろの若い人足が飯荷を揺らす。
飯荷が少し傾く。
馬廻りが振り返って声を出す。
「止まるな!」
太助が怒る。
「馬が止まったんです!」
「馬の横へ寄るな!」
「寄ってません!」
たった庭の中で、これだ。
実際の道では、もっとひどい。
作兵衛が手を上げて止めた。
「馬と人足を同じ細道に入れるな」
馬廻りが言う。
「でも、道が一つなら」
「一つなら、先に決める。馬が先か、人足が先か。道の中で決めるな」
道の中で決めるな。
それも大事だった。
水場もそうだ。
飯場もそうだ。
渡し場もそうだった。
現場に入ってから誰が先かを決めると揉める。
入る前に決める。
そのための札と声がいる。
佐助が提案した。
「高畑の札声出しを応用できませんか」
「どういう声だ」
弥助殿が聞く。
「人水よし。馬水よし。非常触るな。……いえ、長いですね」
太助が言う。
「馬場先、人道あと、とか?」
「それだと馬が必ず先になります」
きぬが指摘する。
「日によって違うなら、声に先後を入れる必要がありますね」
かやが小札を二つ出した。
人先。
馬先。
「水場や細道の前に、どちらが先かを出す札。毎回声にするより、札で見せる」
「札が増える」
権六がうめく。
「でも声だけだと聞き落とす」
太助が言う。
「馬の音もありますし」
実際、馬が鼻を鳴らすだけで声が少し聞こえにくい。
人と馬が一緒にいる場では、高畑の井戸場より音が多い。
声だけでは足りない。
札だけでも足りない。
声と札を合わせる必要がある。
伊三郎がまとめた。
馬水場・細道用。
人先札。馬先札。
声出し併用。
道中で先後を決めない。入口で決める。
馬係がそれを見て言った。
「馬は、人が迷うと迷う」
「馬も迷うんですか」
太助が聞く。
「迷う。人が腹で迷うと、手綱に出る。手綱に出ると、馬も足を迷う」
馬係の言葉は、妙に腹に落ちた。
人の迷いが馬へ移る。
だから、馬場では人が迷わない仕組みが要る。
美濃前哨飯線では、飯だけでなく、手綱の迷いまで見ることになるのか。
夜になる頃には、皆かなり疲れていた。
馬が三頭来ただけで、清洲蔵の庭はぐちゃぐちゃにされたような気分だった。
実際には、庭はそれほど荒れていない。
だが、人の流れと考えることが荒れた。
佐助は馬水と人水の札案を整理している。
かやは馬の横を通る道具をどう減らすか考えている。
伊三郎は美濃前哨飯線帳の新しい頁を作った。
馬腹。
その文字を見て、権六が笑った。
「ついに馬の腹まで帳面になったか」
「必要です」
伊三郎は真顔で答える。
馬腹帳の最初には、こう書かれた。
馬は米を食わぬ。
だが、水、飼葉、場所、人の流れ、馬付きの兵の飯を食う。
馬を飯線の外に置くな。
弥助殿はそれを読んで頷いた。
「よい」
「次は槍持ちですか」
俺が聞くと、弥助殿は頷いた。
「馬で道を食われることは見た。次は、槍で手を食われる」
「手を?」
「槍持ちは、飯を取りにくい」
また、一見当たり前のようで、考えると厄介な問題だった。
夜の飯は、少し遅れた。
佐助が馬係たちにも飯を出したためだ。
馬係の年配男は、飯を食べながら言った。
「馬は米を食わんが、馬の世話をする者は米を食う」
権六が箸を止めた。
「それ、今日一番分かりやすいな」
太助が頷く。
「馬付きの兵の飯も必要ですもんね」
佐助は疲れた顔で笑った。
「はい。馬付きの飯も、馬の動きに合わせてずれます」
権六が飯を口に入れ、しみじみと言った。
「今日の飯は、馬に食われた味がする」
「米は食われてませんよ」
太助が言う。
「線が食われたんだよ」
俺は笑えなかった。
その通りだったからだ。
馬は米を食わない。
だが、飯線を食う。
水を食い、場所を食い、声を食い、人の流れを食い、馬付きの兵の飯を食う。
美濃前哨飯線は、人の腹だけでは足りない。
馬の腹も見なければならない。




