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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百二十四話 進む飯と、戻る飯

 進む飯と、戻る飯。


 美濃前哨飯線帳の最初の頁に、その二つの言葉が並んでいる。


 同じ飯なのに、見ているだけで腹の向きが違った。


 進む飯は、前を見る。


 戻る飯は、背中を見る。


 進む飯は、兵の足を前へ出させる。

 戻る飯は、崩れかけた足を散らさずに戻す。


 どちらも必要だ。


 そう分かっていても、清洲蔵の空気は少し重かった。


「やっぱり、戻る飯って名前が悪い」


 権六が朝一番に言った。


 予想通りだった。


 権六は文句腹帳を開きながら、自分で自分の文句を書いている。


「戻る飯。縁起が悪い。腹に入る前に気が沈む。これは丸だ」


 太助が横から覗き込む。


「自分の文句に丸を付けるんですか」


「繰り返すからな。俺だけじゃない。たぶん兵も言う」


「それは分かります」


 太助は戻る飯の試作品を見た。


 小さく、柔らかめに握られた飯。


 進む飯より軽く見える。


 だが、軽いから弱いわけではない。


 佐助は朝からその二つを並べていた。


 進む飯。


 麦と米を少し固めにまとめ、塩を強め、腹持ちを重くしたもの。


 戻る飯。


 少し柔らかく、喉を通りやすく、冷えても崩れにくいように包んだもの。


 見た目だけなら、進む飯のほうが頼もしい。


 戻る飯は、どこか控えめだ。


 それが余計に、皆の腹をざわつかせた。


「戻る飯は、敗け飯ではありません」


 佐助が言った。


 その声は静かだったが、はっきりしていた。


「でも、そう見えやすいです。だから形から考えます」


「形?」


「はい。あまり弱々しく見えると、兵が嫌がります。けれど、進む飯のように固くすると、疲れて戻る者には重い」


 佐助は戻る飯を一つ割って見せた。


 中に、薄く味噌を伸ばした具が入っている。


「味は薄めです。濃すぎると水を欲しがります。戻る時に水を多く使わせる飯は危ない」


「水か」


 権六が唸る。


「戻る時って、水も足りなくなりそうだな」


「はい。だから戻る飯は、水を食う飯にしてはいけません」


 飯が水を食う。


 妙な言い方だが、分かる。


 味が濃ければ、喉が渇く。

 乾きすぎれば、水を求める。

 戻る者が水場に詰まれば、そこから崩れる。


 佐助は続けた。


「進む飯は、腹の火を長く保つ飯です。戻る飯は、腹を落ち着かせる飯です」


 伊三郎がすぐ書いた。


 進む飯――腹の火を保つ。

 戻る飯――腹を落ち着かせる。


 かやが二つの包みを手に取る。


「包み方も違うね」


「はい」


 佐助が頷く。


「進む飯は、背負い荷の中で崩れないよう強く包みます。戻る飯は、疲れた手でも開けやすいよう、結びを弱めにしています」


「弱めって危なくない?」


「弱すぎると崩れます。でも、固すぎると開けられません。負傷者や疲れた兵にも渡るかもしれないので」


 きぬがその結び目を見た。


「これは、見せ結びに近いですね」


「山裾の荷から考えました」


 佐助は少し照れたように言った。


「隠す結びではなく、開けられる結びです」


 山裾の村が、自分たちで荷をほどいた時のことを思い出す。


 見せ結び。


 清洲が隠さないための結びだった。


 それが、今度は戻る飯に使われる。


 疲れた者でも、開けられるように。


 道は違っても、腹はつながっている。


 弥助殿が蔵へ入ってきたのは、その時だった。


 戻る飯の試作を見るなり、権六の顔を見た。


「文句は出たか」


「出ました」


 権六は正直に答えた。


「戻る飯は縁起が悪い、と」


「よい」


「よいんですか」


「言わぬほうが悪い」


 弥助殿は戻る飯を一つ手に取り、重さを確かめた。


「戻れる飯があるから進める」


 蔵の空気が、静かに締まった。


 弥助殿は続ける。


「進むことしか考えぬ者は、戻る時に散る。戻る道を考えぬ者は、進む道も踏み外す。飯も同じだ」


 権六は黙った。


 文句を言い返さない。


 ただ、文句腹帳へ弥助殿の言葉を書いている。


 戻れる飯があるから進める。


 太助が戻る飯を見つめながら言った。


「川道みたいですね」


「川道?」


「赤札があるから、青札で渡れる。止まれるから、通せる」


 かやが頷く。


「山裾も同じだよ。入れない日を作れたから、次に入れる話ができる」


 俺も、あの二つの場面を思い出していた。


 小雨の川。

 喜助が赤札を上げ、細飯荷は止まった。


 山裾の糸干し場。

 とめ婆様が、入れられそうだから今日は入れないと言った。


 どちらも、前へ進まなかった。


 けれど、その止まり方が信用になった。


 戻る飯も、たぶん同じだ。


 敗けるための飯ではない。


 崩れないための飯だ。


「名前を変えるか?」


 弥助殿が言った。


 権六が顔を上げる。


「戻る飯、以外にですか」


「縁起が悪いと文句が出るなら、名を考えるのも仕事だ」


 伊三郎が筆を止めた。


「退き飯、ではもっと悪いですね」


「悪いな」


 権六が即答する。


「帰り飯?」


 太助が言うと、かやが首を傾げた。


「家に帰るみたいで、戦の途中には合わないかも」


「戻し飯は?」


 佐助が言う。


 俺は少し考えた。


 高畑には毎朝戻しがある。


 川道には止まり戻り飯がある。


 戻す、という言葉は、敗けるよりも整える感じがある。


「戻し飯は、悪くないかもしれません」


 俺が言うと、権六も腕を組んだ。


「戻る飯より、腹に入るな。戻されるんじゃなくて、整えて戻す感じがする」


 弥助殿は頷いた。


「帳面では戻る飯。現場では戻し飯でもよい」


 伊三郎が書き分けた。


 正式分類――戻る飯。

 現場呼称候補――戻し飯。


 言葉の形が少し変わるだけで、腹の受け取り方が変わる。


 青札や黄札、空籠や村の目の時と同じだった。


 その後、実際に試食することになった。


 まず進む飯。


 固めで、噛むほど塩気と麦の甘みが出る。


 腹に落ちると、少し重い。


 歩く前なら頼もしい。


 だが、疲れきった後ならきついかもしれない。


 太助が噛みながら言った。


「これは前に行く味ですね」


「どういう意味だ」


 権六が聞く。


「食べたら、歩かなきゃいけない気がします。座ってると飯に怒られる感じ」


「飯に怒られるのか」


「はい」


 佐助は真面目に頷いた。


「方向は合っています」


「合ってるんですか」


 太助が少し驚く。


 次に戻る飯。


 柔らかい。


 塩は弱い。


 味噌も薄い。


 進む飯と比べると、確かに頼もしさは少ない。


 だが、喉を通りやすい。


 腹に落ちた時、重く沈まない。


 権六が目を閉じて噛んだ。


「どうですか」


 佐助が聞く。


 権六はしばらく黙ってから答えた。


「悔しい時に食えそうだ」


 蔵が静かになった。


「進む飯は、悔しい時には強すぎる。こっちは、悔しさを邪魔しない」


 前にも似たことを言っていた。


 だが、今日はよりはっきりしている。


 戻る飯は、勝ち誇る飯ではない。


 慰めすぎる飯でもない。


 悔しさを抱えたまま、次に崩れないための飯だ。


 きぬが小さく頷いた。


「負傷者にも近いですね。ただ、負傷者にはもう少し柔らかくしないと」


「はい」


 佐助はすぐ答えた。


「これは戻る者用です。負傷者飯は別に考えます」


 かやが包みを開けたり閉じたりしている。


「戻し飯は、片手でも開けられるほうがいいかも」


「片手?」


「片手に槍や荷を持っているかもしれないし、片手を怪我しているかもしれない。完全な負傷者じゃなくても、手が自由とは限らない」


 太助が自分の手を見た。


「戻る時って、手も疲れてそうですね」


「だから、開ける時に苛立つ包みは駄目です」


 佐助が言った。


「苛立つ包み」


 権六がすぐ書いた。


「それ、文句腹帳にもいるな。腹が減ってる時の固い結びは、敵だ」


 伊三郎が美濃前哨飯線帳にも書く。


 戻る飯――片手開封検討。固い結びは苛立ちを増やす。


 弥助殿は黙って見ていたが、やがて言った。


「戻し飯は、敗けを隠す飯にするな」


「敗けを隠す?」


 俺が聞く。


「退いた者に、勝ち飯の顔をした飯を食わせるなということだ。腹が嘘を見抜く」


 その言葉は重かった。


 勝っていない時に、勝ったような飯を出す。


 それは、かえって腹を荒らすのかもしれない。


 戻る時には、戻る時の飯がある。


 悔しさを邪魔せず、体を散らさず、次に備える飯。


「戻し飯は、正直な飯でなければいけませんね」


 佐助が言った。


 弥助殿は頷いた。


「そうだ」


 午後には、進む飯と戻し飯を実際の動きに合わせて試した。


 太助と若い人足二人が、清洲蔵の庭を歩く。


 まず進む飯を持って歩く。


 腰に結んでも崩れない。


 ただし、少し重い。


 走ると揺れる。


 槍を持つと、取り出しにくい。


 次に戻し飯。


 包みは軽い。


 片手でも開けられるように結びを変える。


 だが、弱くしすぎると歩いている間に少し緩む。


 かやが結びを直す。


「開けやすいけど、勝手に開かない。難しいな」


「山裾の見せ結びに、川道の濡れ結びを少し足す?」


 きぬが言う。


 かやの目が光る。


「それ、いいかも」


 道具がまた道を越えてつながった。


 山裾の見せ結び。

 川道の濡れに強い結び。

 美濃の戻し飯の片手開封。


 今までの経験が、ただの過去ではなく、次の道具になる。


 太助は戻し飯を腰から取り、片手で開けようとして苦戦した。


「開かない?」


 かやが聞く。


「開きます。でも焦ってると、たぶん引く場所を間違えます」


「印がいるね」


 きぬが布の端に小さな折りを作った。


「ここを引く、という印です。色を付けなくても、指で分かる形にすれば暗くても使えます」


 佐助が頷く。


「指で分かる印。良いです」


 伊三郎が書く。


 戻し飯包み――指で分かる開け口。暗所・疲労時対応。


 権六は進む飯と戻し飯を交互に食べて、顔をしかめていた。


「食べ比べると、ますます別物だな」


「どちらがいいですか」


 佐助が聞く。


「進む前なら進む飯。戻る時なら戻し飯」


「そのままですね」


「そのままが大事だろ。場に合わない飯は、どれだけうまくても文句になる」


 佐助は深く頷いた。


「はい」


 夕方、弥助殿が報告板をまとめた。


 進む飯――腹持ち、携行性、歩行前提。槍持ちは取り出しに難あり。

 戻る飯/戻し飯――喉通り、水を食わない味、片手開封、悔しさを邪魔しない。

 戻し飯は敗け飯ではなく、軍を崩さない飯。

 包みは山裾見せ結び+川道濡れ結びを応用。

 現場呼称は戻し飯がよい可能性。

 文句予想――縁起が悪い、弱い飯に見える、考えたくない。


 弥助殿はそれを読み、最後に言った。


「次は、馬だ」


「馬ですか」


「美濃へ出れば、馬が飯線を食う」


 権六が眉をひそめた。


「馬は米を食いませんよ」


 弥助殿は権六を見る。


「だから次に分かる」


 その言い方に、蔵の中が少し静かになった。


 馬は米を食わない。


 だが、飯線を食う。


 どういう意味か、すぐには分かるようで分からない。


 水。

 飼葉。

 場所。

 馬付きの兵の飯。

 人の流れ。


 おそらく、その全部だ。


 夜、清洲蔵では、進む飯と戻し飯の残りを皆で食べた。


 権六が戻し飯を口に入れ、今度は嫌な顔をしなかった。


「慣れました?」


 太助が聞く。


「慣れたわけじゃない。でも、必要なのは分かった」


「文句は?」


「ある」


「あるんですね」


「戻し飯は、名前を間違えると兵が嫌がる。弱い飯に見せるな。だが、強がる飯にもするな」


 伊三郎が書く。


 戻し飯――弱く見せない。強がらせない。


 佐助がそれを見て、静かに言った。


「難しいですが、目指すところは分かりました」


 俺は戻し飯を食べた。


 進む飯より軽い。


 でも、頼りないわけではない。


 腹の底を、静かに支える味がした。


 戻れる飯があるから進める。


 弥助殿の言葉が、ようやく腹に入った気がした。

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