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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百二十三話 美濃前哨飯線、最初の帳面

 新しい帳面の表紙には、まだ墨の匂いが残っていた。


 美濃前哨飯線帳。


 伊三郎がそう書いた瞬間、清洲蔵の中にいた者たちは、誰もすぐには口を開かなかった。


 ただの帳面だ。


 紙を綴じ、表に名を書いただけのものだ。


 だが、その名の中には、高畑の朝声も、川道の赤札も、山裾の空包みも、北尾根の草履の泥も、全部が入っているように見えた。


 伊三郎は筆を置き、少しだけ息を吐いた。


「……できました」


 権六が帳面を覗き込む。


「できたって顔じゃないな」


「できたのは表紙だけです」


「正直だな」


「中身を考えると、少し倒れそうです」


 太助が自分の草履を見ながら言った。


「伊三郎さんが倒れたら、帳面じゃなくて人足腹帳に書かれますよ」


「できれば避けたいです」


「じゃあ倒れない方向で」


 軽い会話だった。


 だが、皆の目は新しい帳面から離れなかった。


 美濃前哨飯線帳。


 そこへ何を書くか。


 それが今日の仕事だった。


 弥助殿が持ってきた想定板には、昨日よりさらに細かい項目が増えていた。


 先行兵。

 本隊。

 槍持ち。

 弓。

 馬廻り。

 荷駄。

 連絡足。

 見張り。

 負傷者。

 雨天時。

 待機時。

 戻り。

 撤退。


 これを見た佐助は、朝から何度も味噌片の包みを並べ替えていた。


「兵の数だけで考えると、すぐに足りなくなります」


「飯の量が?」


「量もです。でも、それ以上に、飯の形が足りません」


 佐助は高畑用の砦飯を指した。


「これは、決まった場所で食べる飯です。腹持ちはいい。ですが、歩きながら食べにくい」


 次に、川道用の厚味噌片を指す。


「これは、湯があればほどけやすい。でも、雨天や急な戻りでは湯を用意できないかもしれません」


 山裾用の火なし飯。


「これは匂いを抑えていて、村の台所を取らない。でも兵の腹には小さい」


 北尾根用の歩き飯。


「これは歩けます。でも、乾きすぎる。喉を取ります」


 権六が腕を組む。


「全部使えそうで、全部足りないわけか」


「はい」


 佐助は静かに頷いた。


「今までの飯は、道ごとの飯でした。美濃前哨では、役ごとの飯が必要になります」


 役ごとの飯。


 その言葉を、伊三郎がすぐに書いた。


 だが、そこから筆が止まった。


「役ごとに分けると、項目が多すぎます」


 伊三郎は新しい帳面の最初の頁を見た。


「兵種、道、天候、進退、負傷、馬、水、火、文句……このまま全部を列にすると、帳面が倒れます」


「帳面が倒れるって、どういう状態ですか」


 太助が聞くと、伊三郎は真面目に答えた。


「書く者が読めず、読む者が使えず、使う者が怒る状態です」


「分かりやすい」


 権六が頷いた。


「それは倒れてるな」


 かやは床に小札を並べていた。


 高畑、川道、山裾、北尾根。


 その横に、美濃前哨の札。


「今までの四線を、そのまま大きくしたら駄目だと思う」


「なぜ」


 俺が聞くと、かやは高畑の太い紐を持ち上げた。


「高畑を大きくすると、太すぎる。川道を大きくすると、川道じゃなくなる。山裾を大きくすると、村が潰れる。北尾根は、そもそも飯を流してない」


 その通りだった。


 四線を足せば美濃飯線になる、という単純な話ではない。


 高畑の太さ。

 川道の細さ。

 山裾の待つ力。

 北尾根の見る力。


 それぞれの腹を、そのまま量に変えれば壊れる。


「じゃあ、何を写す?」


 権六が言った。


「形じゃなくて、崩れ方?」


 きぬが静かに言った。


 皆がそちらを見る。


 きぬは少し戸惑ったが、続けた。


「高畑は、慣れで崩れる。川道は、止まれないと崩れる。山裾は、暮らしを踏むと崩れる。北尾根は、見すぎると崩れる。美濃前哨飯線にも、それぞれ似た崩れ方があるのではないでしょうか」


 伊三郎の目が変わった。


「崩れ方で分ける……」


 弥助殿が、黙って頷いた。


 きぬの言葉は、帳面の骨になりそうだった。


 俺は飯線図を見た。


 高畑。

 川道。

 山裾。

 北尾根。


 四つの線は、それぞれ別の場所を通っている。


 だが、美濃前哨飯線では、場所より先に役を考える必要がある。


 飯は、軍が進む時だけ要るのではない。


 止まる時にも要る。

 戻る時にも要る。

 見張る時にも要る。

 倒れた者を運ぶ時にも要る。


 俺は、床の札を四つに分けた。


「進む飯」


 佐助が顔を上げる。


「止まる飯」


 かやが一本縄を持ったまま、動きを止める。


「戻る飯」


 権六が少し嫌な顔をする。


「見張る飯」


 作兵衛が目を細めた。


 伊三郎が、ゆっくりと復唱した。


「進む飯、止まる飯、戻る飯、見張る飯」


「兵種で分ける前に、まず役で分けたほうがいいと思います」


 俺は言った。


「進む飯は、歩く兵の腹を支える。止まる飯は、待機や足止めで崩れないようにする。戻る飯は、撤退や戻りの者を散らさない。見張る飯は、北尾根や見張り場のように、少ない量で目を生かす」


 蔵の中が静かになる。


 それから、佐助が小さく頷いた。


「作れます」


「本当に?」


「まだ形は分かりません。でも、考える筋は見えます」


 佐助は味噌片を四つに分け始めた。


「進む飯は、腹持ちと持ち運び。止まる飯は、待つ間に腐らず、文句を増やさない。戻る飯は、喉を通りやすく、配りやすい。見張る飯は、眠くならず、匂いを抑える」


 権六が眉を寄せた。


「戻る飯って、やっぱり嫌な名前だな」


 弥助殿が即座に言った。


「嫌だから考える」


 権六は黙った。


「戻る飯を嫌がって考えぬ軍は、戻る時に腹から崩れる」


「……分かっています」


 権六は珍しく素直に答えた。


 文句腹帳を開く。


「戻る飯への文句。縁起が悪い。重い。考えたくない。これ、最初から丸だな」


「繰り返しそうですか」


 伊三郎が聞く。


「絶対繰り返す」


 権六は苦い顔で言った。


「人は進む話はしたがるが、戻る話は嫌がる。俺も嫌だ」


 伊三郎が書く。


 戻る飯――考えたくない文句が出る。繰り返し予想。根:戻ることへの嫌悪。だが必要。


 太助は「止まる飯」の札を見ていた。


「止まる飯は、川道っぽいですね」


「そうだな」


「でも、川道だけじゃないですよね。雨で止まる、命令待ちで止まる、馬が止まる、橋が詰まって止まる」


「止まる理由が多いな」


「はい。止まる理由が違うと、文句も違います」


 太助は自分でも驚いたように口を閉じた。


 権六がにやりとする。


「太助、今のは文句役の発想だぞ」


「違います。人足の発想です」


「同じ親戚だ」


 かやが「止まる飯」の横に一本縄を置いた。


「止まる飯には、置き場が要る。でも、置き場を作りすぎると道が詰まる。川道の待ち荷逃がしを大きくするんじゃなくて、考え方だけ持ってくる」


「考え方?」


「使う時だけ出して、終わったら消える。止まっている間だけ腹を支える。でも、そこに居座らない」


 きぬが頷く。


「山裾の空包みも、止まる飯に入るかもしれません」


「飯がないのに?」


 太助が聞く。


「飯を入れないことで待つ腹を守るなら、それも止まる飯の考え方です」


 佐助が少し驚いた顔をした。


「飯を出さない飯も、帳面に入れるのですか」


 弥助殿が答えた。


「入れろ。出さぬ飯を考えぬ者は、出しすぎる」


 伊三郎の筆が走る。


 出さぬ飯を考えぬ者は、出しすぎる。


 権六が小さく言った。


「弥助殿の言葉も、文句腹帳に入れたいくらい重いな」


「文句ではありませんが、根に関わります」


 伊三郎は真面目に答えた。


 新しい帳面の最初の頁が、ようやく決まった。


 美濃前哨飯線帳。

 第一分類。


 一、進む飯。

 二、止まる飯。

 三、戻る飯。

 四、見張る飯。


 その下に、それぞれの元になる線を書く。


 進む飯――高畑の腹持ち、連絡足の歩き飯。

 止まる飯――川道の赤札、山裾の空包み。

 戻る飯――川道の止まり戻り飯、高畑の毎朝戻し。

 見張る飯――北尾根の歩き飯、高畑見張り前飯。


 これなら、四線をそのまま大きくするのではなく、腹を写せる。


 伊三郎は少しだけ顔色を取り戻した。


「帳面、倒れずに立ちそうです」


「まだ表紙と最初の頁だけだぞ」


 権六が言う。


「それでも、立つ向きが決まりました」


 その言い方に、皆が少し笑った。


 午後は、さらに細かく分けた。


 進む飯には、歩兵用、槍持ち用、連絡足用、馬付き用の候補。


 止まる飯には、雨待ち、命令待ち、橋詰まり、夜待機。


 戻る飯には、撤退、負傷者戻り、荷戻り、迷い戻り。


 見張る飯には、前哨見張り、夜見張り、茶屋連絡、北尾根観察。


 項目は増えた。


 やはり多い。


 だが、最初のように全部が床へ散らばる感じではない。


 四つの柱がある。


 進む。

 止まる。

 戻る。

 見張る。


 それだけで、考える道筋ができた。


 夕方近く、信長様へ上げるための簡単な報告板を作った。


 弥助殿はそれを読んだ。


「よい」


「上様へ、この分類で上げますか」


「上げる」


「戻る飯も?」


「当然だ」


 弥助殿は俺を見た。


「戻る飯を隠すな。隠すと縁起の話になる。最初から役として置け」


「はい」


「戻る飯は敗け飯ではない。崩れぬ飯だ」


 権六が顔をしかめながらも頷いた。


「その言い方なら、まだ腹に入ります」


「腹に入らぬ言葉は、戦では使えん」


 弥助殿は短く言った。


 夜、清洲蔵では、佐助が四つの小さな試し飯を出した。


 まだ形は粗い。


 進む飯。

 腹持ちを重くした小さな握り。


 止まる飯。

 乾きにくく、少しずつ食べられる薄い味噌片。


 戻る飯。

 湯がなくても口でほどけやすい柔らかめの飯。


 見張る飯。

 小さく、匂いが少なく、噛むと目が覚めるように塩を少し効かせたもの。


 権六は戻る飯を見て、まだ嫌そうだった。


「これか」


「はい」


 佐助は少し緊張している。


「食べてください」


「戻る飯からか?」


「文句を聞きたいので」


 権六は観念して口に入れた。


 しばらく噛む。


 そして、少し意外そうな顔をした。


「……思ったより悪くない」


「どう悪くないですか」


「敗けた味じゃない」


 蔵が静かになる。


 権六は続けた。


「疲れて戻ってきた時、これなら腹が受けるかもしれん。重すぎない。悔しさを邪魔しない」


 悔しさを邪魔しない飯。


 佐助の目が少し見開かれた。


「それ、使えます」


 伊三郎も書く。


 戻る飯、敗けた味ではない。悔しさを邪魔しない。


 太助も食べた。


「俺は、歩いた後ならこれが一番ありがたいかもしれません」


「戻る飯が?」


「はい。進む飯は強い。でも疲れた時には強すぎる」


 きぬが静かに言った。


「負傷者飯にも近いかもしれませんね」


 佐助が頷く。


「分ける必要はありますが、考え方は近いです」


 かやは止まる飯を見て言った。


「止まる飯は、食べる間を作りすぎると駄目だね」


「どういうこと?」


「兵が止まっていると、文句が増える。飯で間を持たせるのは大事だけど、飯場を作りすぎると動きにくくなる」


 川道の待ち荷逃がしと同じだ。


 止まるための形は必要。


 でも、止まりすぎる形は危ない。


 見張る飯を食べた太助は、顔をしかめた。


「しょっぱい」


 佐助が不安そうにする。


「強すぎますか」


「でも、眠くはならないです」


「なら方向は合っています」


 権六が笑った。


「見張る飯は文句が出そうだな」


「文句は必要です」


 佐助が答えた。


 強くなった。


 佐助も、文句を怖がらなくなっている。


 飯を直すために、文句を聞く。


 それが当たり前になりつつあった。


 夜の終わり、伊三郎は新しい帳面の最初の頁をもう一度読み上げた。


 美濃前哨飯線帳。

 飯は量ではなく、役で分ける。

 進む飯。

 止まる飯。

 戻る飯。

 見張る飯。


 権六が文句腹帳を閉じながら言った。


「今日の飯は、始まりの味だな」


「まだ始まったばかりです」


 伊三郎が言う。


「だからだよ。始まりの飯は、腹が落ち着かない」


 太助が戻る飯の残りを見て言った。


「でも、戻る飯があるなら、少し進みやすい気もします」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 それが、この日の答えだったのかもしれない。


 進むために、戻る飯を考える。


 美濃前哨飯線は、最初の帳面を開いた。


 まだ白い頁は多い。


 だが、もう倒れてはいない。

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