第十四話 飯の話を、人前でする
三日後に兵糧方の前で報告しろ。
坂井蔵人殿にそう言われてから、俺の腹はずっと重かった。
米の重さではない。
味噌樽の重さでもない。
人前で話す、という重さだ。
飯場で怒鳴るのは、まだいい。
水を煮ろ。
椀を湯にくぐらせろ。
味噌を分けろ。
握り飯を小さくしろ。
目の前に鍋があり、米があり、腹を空かせた兵がいるなら、俺でも声は出る。
だが、兵糧方の会議となると話が違う。
そこにいるのは、飯を待つ足軽ではない。
蔵を預かる者。
荷を差配する者。
商人と付き合う者。
家中の古い作法を知る者。
俺のような飯炊き足軽を、面白く思わない者。
そんな人たちの前で、俺は何を言えばいいのか。
考えただけで、粥も喉を通らなくなりそうだった。
「清吉、手が止まってる」
かやの声で我に返る。
俺は米を洗う桶の前にしゃがんでいた。洗えば使える米を粥用に回すため、朝から何度も水を替えている。
手は水の中にあるのに、頭だけ別のところへ行っていた。
「すまん」
「米に謝りなよ。人の手が止まると、水だけ濁る」
「米、ごめん」
「本当に言うんだ」
かやが呆れた顔をする。
俺は桶の中の米をかき混ぜた。
白い水が濁っている。
小さなくずや籾殻が浮かぶ。
これを丁寧に洗う。
沈める。
浮いたものを捨てる。
また水を替える。
手間はかかる。
だが、この米はまだ食える。
白飯には向かないが、粥ならいける。味噌を少し濃くして、干し菜を入れれば、腹に収まる。
そういう米を捨てずに済むことが、俺には嬉しかった。
だが、そんなことを会議で話して伝わるのだろうか。
「なあ、かや」
「何」
「人前で飯の話をする時、何から話せばいいと思う?」
かやは米俵に腰をかけようとして、俺に睨まれ、仕方なく立ったまま腕を組んだ。
「まず、何を運ぶかだね」
「運ぶ?」
「そう。あんたは全部いっぺんに話そうとするでしょ。米が湿ってた、味噌が抜かれてた、鼠がいた、塩が湿った、帳面が合わない、荷車が怪しい、人足が困ってる、飯場で腹を下した――って」
「駄目か」
「駄目。荷車に積みすぎると倒れる」
かやらしい言い方だった。
俺は手を止めたまま、彼女を見る。
「なら、どう積む?」
「軽いものを上。重いものを下。壊れやすいものは真ん中に入れない。聞く人が最初に受け取れるものから出す」
「受け取れるもの」
「まず数字じゃない?」
かやは蔵の奥を指した。
「帳面より米が九俵少なかった。味噌は三樽、抜かれてた。湿った米が十三。混ぜ物が七。これは誰でも分かる」
「俺も分かる」
「だから言うんだよ。そのあとに、どうして困るのかを言う。米が湿ると飯場で使えない。味噌が抜かれると粥が薄くなる。荷が乱れると道中でこぼれる」
「それなら話せるかもしれない」
「最後に、どう直すか」
「最後?」
「そう。最初から『こう変えます』って言うと、面子に刺さる。『おまえらが悪いから直す』って聞こえる」
俺は思わず唸った。
自分ではそんなつもりはなくても、そう聞こえるのか。
米が悪いから直す。
味噌が抜かれていたから止める。
それだけのつもりだった。
だが、人の耳には違って届く。
おまえのやり方は駄目だ。
俺のやり方に変えろ。
そう聞こえれば、反発される。
「難しいな」
「荷を運ぶのと同じだよ。中身が大事でも、積み方が悪いと届かない」
かやはそう言い、桶の中の米を見た。
「この米だって、雑に炊いたら臭くて食えない。でも洗って、粥にして、味噌を足せば食える。話も同じじゃない?」
かやの口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
いや、失礼だ。
かやはずっと荷を見てきた。
届くか届かないかを、俺より知っている。
「かや」
「何」
「ありがとう」
「飯でいい」
「分かった」
「濃いめの味噌で」
「注文が増えた」
「働いたからね」
かやはそう言って、少しだけ笑った。
米を洗い終えた頃、伊三郎が帳面を抱えてやってきた。
顔が真面目すぎる。
悪い知らせかと思ったが、そうではなかった。
「清吉。報告の下書きができました」
「下書き」
「はい。まず、兵糧蔵改めの結果。次に、米、味噌、塩の状態。さらに、荷の出入り。そして改善案です」
伊三郎はそう言って、帳面を開いた。
当然だが、字が並んでいる。
俺は一行目で負けた。
「……読めない」
「分かっています。ですから、声に出して読みます」
「助かる」
伊三郎は少し咳払いをして、読み始めた。
「一、米俵。帳面二百四十八俵に対し、実数二百三十九俵。九俵不足。うち湿りあり十三俵、混ぜ物あり七俵――」
「待って」
俺は手を上げた。
「何でしょう」
「それ、俺が言うのか?」
「はい」
「無理だ」
「まだ始まったばかりですが」
「数字が続くと、俺が先に崩れる」
伊三郎は真顔で固まった。
かやが横で笑いをこらえている。
「清吉、正直すぎ」
「だって、無理なものは無理だ。二百四十八と二百三十九だけで、もう足元が怪しい」
伊三郎は少し考えた。
それから帳面の端に印をつけ始める。
「では、こうしましょう。大きな数は私が読み上げます。清吉は、その数字が飯場で何を意味するかを話してください」
「飯場で何を意味するか」
「はい。九俵足りない、という数字だけでは、武士たちは帳面の不足として聞きます。けれど、あなたが『九俵あれば粥が何日分作れる』と話せば、腹で分かります」
俺は目を瞬いた。
帳面の数字を、腹に直す。
それなら、少し分かる。
「九俵で、どれくらい炊ける?」
「そこは計算しましょう」
伊三郎の目が少し輝いた。
この人は数字になると元気になる。
俺は苦手だが、伊三郎が楽しそうなので任せることにした。
「ざっくりでいいです。飯場で使う感覚で」
「ざっくり……」
伊三郎は少し嫌そうな顔をした。
かやが言う。
「伊三郎、そこは我慢。あんまり細かいと、聞いてる人が寝る」
「会議中に寝る方は少ないと思いますが」
「寝なくても腹の中では寝る」
妙な言い方だが、何となく分かった。
伊三郎は諦めたように頷いた。
「では、大まかな椀数で出します」
「椀数なら分かる」
「清吉は、数字を椀に変えると分かるのですね」
「たぶん」
伊三郎は小さく笑った。
「面白い」
「面白いか?」
「はい。帳面では米俵ですが、飯場では椀になる。私はこれまで、そこをあまり考えていませんでした」
伊三郎は筆を走らせた。
「米九俵不足。粥ならば、およそ何百椀――正確には後で計算しますが、それだけの腹が空く、と」
「それなら分かる」
「味噌三樽不足も、味噌汁何杯分、握り飯の中身何個分、と言えば伝わるかもしれません」
「中身のない握り飯は悲しい」
「それも言いますか」
「言ったら怒られるか?」
「言い方次第です」
かやが横から言う。
「『中身のない握り飯』は分かりやすいよ。武士だって飯は食う」
「でも、子供っぽくないか」
「偉そうな言葉で分からないよりまし」
伊三郎も頷いた。
「清吉の言葉で話すほうがよいと思います。無理に役人の言葉にすると、かえって弱くなります」
「俺の言葉」
それが一番怖い。
俺の言葉など、飯場でしか通じないと思っていた。
だが、信長様も坂井蔵人殿も、飯の話をしろと言った。
なら、俺は飯の言葉で話すしかないのかもしれない。
昼過ぎになると、五郎兵衛殿に連れ出された。
蔵の裏手だ。
浅く掘った溝の横に立たされる。
「ここで話せ」
「ここで?」
「蔵の中だと人目が多い。まず俺に向かって話せ」
「五郎兵衛殿に?」
「ああ。俺を家中の怖い爺どもだと思え」
「それは、少し本当に怖いです」
「よし。ちょうどいい」
五郎兵衛殿は腕を組み、わざと渋い顔をした。
「さあ、申してみろ。飯炊き足軽」
その呼び方だけで、胃が縮む。
だが、逃げられない。
俺は伊三郎が作ってくれた板を持った。
字は少ない。
丸印と、短い言葉。
米。
味噌。
塩。
荷。
飯場。
これなら俺でも追える。
「ええと……清洲兵糧蔵を改めたところ、米が……」
「声が小さい」
「米が」
「腹から出せ」
五郎兵衛殿がぴしゃりと言う。
俺は腹に力を入れた。
「米が、帳面より九俵足りませんでした」
「それで?」
「九俵あれば、粥なら多くの兵に行き渡ります」
「多くとは何人だ」
「ええと」
「詰まるな。分からなければ、分からぬと言え」
「分かりません。ですが、少なくとも飯場の鍋を何度も満たせる量です」
「悪くない。続けろ」
俺は息を吸った。
「味噌樽は三つ、中身を抜かれていました。上だけ味噌を残し、下には藁と布が詰められていました」
言いながら、あの樽を思い出す。
腹の奥が熱くなる。
「それが飯場へ届けば、最初は味噌があるように見えます。ですが途中で足りなくなり、汁は薄くなります。握り飯の中身も減ります。兵は腹がもたず、走れなくなります」
「そこで怒りすぎるな」
五郎兵衛殿が言った。
「顔が怖い」
「すみません」
「怒るなとは言っていない。怒りで言葉を焦がすな」
言葉を焦がす。
飯と同じか。
火が強すぎれば、粥は焦げる。
怒りが強すぎれば、言葉も焦げる。
俺は深く息を吸った。
「もう一度やります」
「やれ」
何度も繰り返した。
米の不足。
湿った俵。
混ぜ物。
味噌の抜き取り。
塩袋の湿り。
荷の確認。
帳面の印。
飯場へ届くまでの流れ。
一度話すたびに、五郎兵衛殿が止める。
「そこは長い」
「そこは逃げてる」
「そこは腹が抜けた」
「そこはよい」
「今の言葉を覚えろ」
褒められることは少なかったが、たまに「今のは届く」と言われると、少しだけ腹が据わった。
夕方近くには、喉が枯れた。
鍋の前で怒鳴るより疲れた。
「人前で話すのは、飯を炊くより疲れます」
俺が言うと、五郎兵衛殿は笑った。
「だから皆、他人にやらせたがる」
「俺も誰かにやってほしいです」
「駄目だ。おまえが見たものは、おまえが言え」
「伊三郎のほうが上手く話せます」
「伊三郎は数字を話せる。かやは荷を話せる。俺は人の顔を話せる。だが、飯場で腹を壊した兵の顔を見たのはおまえだ」
五郎兵衛殿の声が静かになる。
「雨の中、握り飯を渡したのもおまえだ。薄い粥を敵味方に飲ませたのもおまえだ。中身のない味噌樽を見て、本気で腹を立てたのもおまえだ」
俺は黙った。
「なら、おまえが話せ」
「……はい」
「震えてもいい。詰まってもいい。飾るな。飯を飾りすぎると、かえってまずくなる」
俺は思わず笑った。
「五郎兵衛殿も、飯で言うんですね」
「おまえに合わせてやってる」
「ありがとうございます」
「礼は飯でいい」
「今日は濃いめの味噌粥にします」
「分かってきたな」
日が暮れる前、蔵の外で小さな鍋をかけた。
洗い米の粥。
味噌は少し濃いめ。
干し菜を刻む。
働いた者たちに配る分だ。
かやは椀を受け取り、一口すすって頷いた。
「今日のはいい」
「味噌が濃いから?」
「それもあるけど、話の練習をした後の味がする」
「何だそれ」
「腹を使った味」
よく分からないが、悪口ではなさそうだった。
伊三郎も粥をすすりながら、帳面を見直している。
「清吉。明日は私が数字を読み上げるところから練習しましょう。清吉が腹の話へつなぐ形で」
「お願いします」
「かや殿には荷の跡を説明していただきます」
「殿はいらない」
かやが即座に言う。
「では、かや」
「よろしい」
伊三郎は少し困ったように笑った。
佐助は蔵の隅で粥を食べていた。
まだ遠慮がちだが、昨日より顔色はいい。
「佐助」
「はい」
「明日、味噌樽の蓋の締め方をもう一度教えてくれ。どこが緩みやすいか」
「俺でよければ」
「佐助が知ってることが要る」
佐助は椀を両手で持ったまま、しばらく黙った。
それから、小さく頷いた。
「はい」
蔵の中に夜が落ちていく。
米俵の影が濃くなる。
今日も一日、飯のために動いた。
だが、明日は飯を炊くだけでは足りない。
話す準備をしなければならない。
飯の話を、人前でする。
怖い。
正直、桶狭間の雨のほうがまだましだったのではないかと思う。
雨は冷たいが、余計なことは言わない。
米俵も、味噌樽も、こちらを笑わない。
だが、人は違う。
笑う。
怒る。
遮る。
試す。
面子を気にする。
腹の中で何を考えているか、分からない。
それでも、話さなければ飯は守れない。
かやが言ったように、荷は積み方を間違えれば届かない。
伊三郎が言ったように、数字を腹に直さなければ伝わらない。
五郎兵衛殿が言ったように、俺が見たものは俺が言わなければならない。
俺は空になった椀を置き、蔵の奥の米俵を見た。
明日もあれを守る。
明後日も守る。
そして三日後には、あれを守るための言葉を、人前に運ぶ。
俺は腹に手を当てた。
少し鳴った。
かやが耳ざとく笑う。
「腹、返事したね」
「した」
「何て?」
「逃げるな、だと思う」
「いい腹だ」
俺は苦笑した。
怖い。
だが、腹は逃げるなと言っている。
なら、もう少しだけ踏ん張るしかない。




