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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第十三話 飯炊き足軽、家中の面子にぶつかる

 清洲の兵糧蔵を直し始めて、三日が経った。


 三日。


 たった三日だ。


 だが、米俵の匂いは少し変わった。


 湿った俵は風の通る場所へ移した。

 下には木をかませ、床に直に置かないようにした。

 鼠の穴は、五郎兵衛殿が人足たちと塞いだ。

 味噌樽の蓋は締め直し、縄が緩いものには印を付けた。

 塩袋は湿気から遠ざけ、早く使うべきものを飯場へ回した。


 それだけで、蔵の中の空気は少しだけ軽くなった。


 完全に良くなったわけではない。


 まだ湿りはある。

 鼠の臭いも消えていない。

 帳面の不足も埋まっていない。

 善右衛門殿と伊庭屋宗兵衛の件も、すべてが片づいたわけではない。


 それでも、米は昨日より少し乾いた。


 味噌は昨日より少し安心して蓋を開けられるようになった。


 人足たちも、最初ほど俺を避けなくなった。


「清吉、こっちの米は飯場へ出すのか」


「その俵は洗えば使える分です。粥向き。白飯にはしないでください」


「じゃあ、丸二つだな」


「はい。丸二つ」


 人足の男が、伊三郎の帳面と同じ印を俵の縄に結ぶ。


 俺が決めたというより、皆で決めたやり方だった。


 ひとつ丸は、そのまま使える。

 二つ丸は、洗って粥にする。

 三つ丸は、要確認。

 ばつ印は、人には食わせない。


 字が読めない俺でも分かる。

 字が読めない人足でも分かる。

 荷を運ぶ者も、飯場の者も、ひと目で分かる。


 それが思ったより便利だった。


 伊三郎は最初、帳面に大きく丸を書くのを少し嫌そうにしていたが、今ではすっかり慣れた顔で筆を走らせている。


「清吉、今日の飯場行きは、使える米が十俵、洗い米が三俵、味噌は蓋直し済みの樽から半樽です」


「塩は?」


「湿りかけていた袋を先に回します。残りは乾いた場所へ移しました」


「ありがとうございます」


「礼は不要です。帳面が合うと、私も落ち着きます」


 伊三郎は真面目な顔で言う。


 こういうところが、少し面白い。


 かやは蔵の入口で荷車を見ていた。


 荷の積み方にうるさい。


「そこ、重い俵を片側に寄せすぎ。道で車が傾くよ」


「でも早く積まねえと」


「早く積んで途中で倒したら、もっと遅くなる」


「へいへい」


「返事は一回」


「へい」


 人足たちは、かやには口で文句を言うが、結局は従う。


 かやの言うことは実際に当たるからだ。


 荷車が傾けば米は濡れる。

 味噌樽の蓋が甘ければ道中でこぼれる。

 塩袋を下に置けば湿る。

 竹皮を濡らせば握り飯を包めない。


 飯を炊く前に、飯は何度も傷つく。


 そのことを、俺はこの数日で嫌というほど学んだ。


 そして、少しだけ良い知らせもあった。


 飯場から戻ってきた弥助殿が言ったのだ。


「腹を下す奴が減った」


 その一言で、蔵の中が少し静かになった。


「本当ですか」


「ああ。まだゼロじゃねえ。だが、桶狭間前よりは明らかに少ない。水を煮るのも続いてる。椀を湯にくぐらせるのもな。面倒くさいと文句は出てるが、腹を壊すよりましだと分かってきたらしい」


 俺は息を吐いた。


 膝から力が抜けそうになった。


 飯場で腹を壊す者が減った。


 それは、派手な武功ではない。


 首を取ったわけでもない。


 城を落としたわけでもない。


 けれど俺には、桶狭間の勝鬨よりも胸に響いた。


「よかった」


 それしか言えなかった。


 かやが横で笑う。


「顔がゆるんでる」


「ゆるむよ」


「まあ、ゆるんでもいいか。今日は」


 その時だった。


 蔵の入口で、低い咳払いが聞こえた。


 振り返ると、武士が三人立っていた。


 先頭の男は、四十を少し越えたくらいだろうか。


 背は高くないが、胸板が厚い。髭をきちんと整え、着物も甲冑も古びてはいるが質がいい。若い頃から織田家に仕えてきた男なのだと、一目で分かった。


 その後ろには、同じく武士らしき男が二人。


 人足たちの空気が一気に固くなる。


 弥助殿も顔を変えた。


 五郎兵衛殿が小さく呟く。


「来たか」


「知っている方ですか」


「坂井蔵人。古くから兵糧方に口を出してきた家の者だ」


 坂井蔵人。


 名前だけで、腹が重くなった。


 蔵人は蔵の中を見回した。


 積み直された俵。

 印のついた縄。

 入口近くで確認される荷車。

 帳面を開く伊三郎。

 その中心にいる、飯炊き足軽の俺。


 蔵人の目が、俺で止まった。


「おまえが清吉か」


 声は低く、硬かった。


「はい」


 俺は頭を下げた。


「清吉にございます」


「上様に拾われた飯炊き足軽と聞く」


「……はい」


「ずいぶん蔵をいじっているようだな」


 いじっている。


 その言葉には、明らかに棘があった。


 俺は慎重に答えた。


「湿った米俵を上げ、味噌樽の蓋を締め直し、飯場へ出すものを分けております」


「誰の許しで」


 胸が詰まった。


 上様の命だ。


 そう答えることはできる。


 だが、それをいきなり盾にしていいのか分からなかった。


 弥助殿が口を開こうとする。


 しかし、それより先に蔵人が続けた。


「善右衛門が不心得をしたことは聞いている。だが、一人が悪さをしたからといって、長年の蔵の作法まで足軽が勝手に変えてよい道理はない」


 蔵の中が静まった。


 人足たちは目を伏せる。


 伊三郎は帳面を抱えたまま固まっている。


 かやは黙って蔵人を見ていた。


 俺は、何と答えればいいか分からなかった。


 長年の作法。


 それを否定するつもりはなかった。


 ただ、米が湿っていた。


 味噌が抜かれていた。


 鼠がいた。


 それを直したかっただけだ。


「恐れながら」


 俺は言った。


「作法を壊したいわけではございません」


「では何だ」


「米を食える形で飯場へ出したいのです」


「それが出しゃばりだと言っている」


 言葉が胸に刺さった。


 出しゃばり。


 その通りかもしれない。


 俺は足軽だ。


 飯場で鍋を見ているならまだしも、清洲の兵糧蔵で米の出し入れを決めている。


 古参の武士から見れば、面白いはずがない。


 蔵人はさらに言った。


「飯炊きが飯の心配をするのはよい。だが、蔵には蔵の面子がある。米の出し方、商人との付き合い、人足の使い方、帳面の立て方。何も知らぬ者が鼻先だけで引っかき回せば、かえって乱れる」


 鼻先。


 米の匂いを嗅いでいる俺への皮肉だろう。


 顔が熱くなった。


 恥ずかしさと、悔しさで。


 言い返したい。


 でも、蔵人の言うことにも一理ある。


 俺は本当に何も知らない。


 商人との付き合いも、織田家中の面子も、蔵の古い決まりも。


 俺が見ているのは、米と味噌と腹だけだ。


 それで足りるのか。


 急に自信がなくなった。


「坂井殿」


 弥助殿が一歩前に出た。


「この件は上様の命にございます」


「知っている」


 蔵人は弥助殿を見た。


「だからこそ言っている。上様は才ある者を拾われる。だが、拾われた者が自分の立ち位置を間違えれば、家中が乱れる」


 弥助殿の顔が険しくなる。


 その時、かやが口を開いた。


「米が腐るのと、家中が乱れるのと、どっちが先に困るんですか」


 蔵の空気が凍った。


 俺は思わず振り返る。


「かや」


「何」


「今のは」


「言いすぎた?」


「かなり」


 蔵人の後ろにいた武士の一人が顔を赤くした。


「娘風情が!」


 だが、蔵人は手で制した。


 そして、かやを見た。


「川筋の娘か」


「荷運びです」


「口が立つな」


「荷を落とされるよりましです」


 俺は胃が痛くなった。


 かやは強い。


 強いが、時々強すぎる。


 蔵人はしばらくかやを見ていたが、やがて俺へ視線を戻した。


「清吉。おまえが米を守ろうとしていることは分かった」


「はい」


「だが、米を守るということは、人の利を動かすということだ。昨日まで米を運んでいた者。商っていた者。数えていた者。口を利いていた者。皆、それぞれの顔と腹がある」


 顔と腹。


 俺は黙って聞いた。


「それを足軽一人が正しさだけで断てば、敵を増やす。敵が増えれば、やがて米も動かなくなる」


 五郎兵衛殿が昨日言っていたことと似ていた。


 飯を守れば、誰かの懐が痛む。


 蔵人はそれを、もっと家中の言葉で言っているのだ。


「では、どうすればよいのでしょうか」


 俺は思わず聞いた。


 蔵人の眉がわずかに動いた。


 たぶん、俺が言い返すと思っていたのだろう。


「教えを請うのか」


「はい」


 俺は頭を下げた。


「俺は蔵の作法を知りません。商人の扱いも知りません。面子も、正直よく分かりません。ですが、米が湿っていたら悪くなることは分かります。味噌が抜かれていたら飯場で困ることも分かります」


 声が少し震えた。


 でも、続けた。


「だから、分からないことは教えてください。けれど、米が腐ることまで作法だと言われたら、それは聞けません」


 蔵の中が静まり返った。


 言いすぎただろうか。


 俺は恐る恐る顔を上げた。


 蔵人は怒っているようにも見えた。


 だが、それだけではなかった。


 何かを測っている顔だった。


「……なるほど」


 蔵人は低く言った。


「飯炊きにしては、腹が据わっている」


「据わっていません。今も怖いです」


 つい正直に言ってしまった。


 かやが横で小さく噴き出す。


 弥助殿も一瞬だけ口元を緩めた。


 蔵人は、初めて少しだけ目を細めた。


「怖いならよい」


「よいのですか」


「怖さを知らぬ小者ほど、蔵を壊す」


 その言葉に、俺は返せなかった。


 蔵人は蔵の中へ入ってきた。


 米俵の印を見る。


 帳面を見る。


 味噌樽の蓋を見る。


 かやが積ませた荷車を見る。


 ひと通り見てから、伊三郎の前で止まった。


「帳面を見せよ」


「はい」


 伊三郎が緊張しながら帳面を差し出す。


 蔵人は黙ってページをめくった。


 丸印。


 湿った米。


 洗えば使える米。


 味噌不足。


 数不足。


 普通の帳面とは違うのだろう。


 蔵人の眉が少し寄る。


「見苦しい」


 伊三郎の顔が青くなる。


 俺も胸が痛んだ。


 だが、蔵人は続けた。


「だが、分かる」


 伊三郎が顔を上げる。


「分かる帳面は、見苦しくても役に立つ」


 その一言で、伊三郎の肩から力が抜けた。


 蔵人は帳面を閉じ、俺を見た。


「清吉。おまえのやり方は荒い」


「はい」


「蔵の者の顔を潰す」


「……はい」


「商人も敵に回す」


「はい」


「だが、米は前より見えている」


 それは、褒められたのだろうか。


 分からなかった。


 蔵人は弥助殿へ向いた。


「弥助。この飯炊きを一人で走らせるな。家中の面子を知らぬまま走れば、いずれ誰かに足を払われる」


「承知しております」


「五郎兵衛」


「おう」


「見てやれ」


「そのつもりだ」


「娘」


 蔵人の目がかやへ向く。


「はい?」


「口を少し慎め」


「できる限り」


「できる限りでは足りぬ」


「では、少しだけ多めに」


 俺は頭を抱えたくなった。


 だが蔵人は怒鳴らなかった。


 ただ、重いため息をついた。


「……まあよい。荷の目は確かなようだ」


 かやは少しだけ目を丸くした。


 褒められるとは思っていなかったのだろう。


 蔵人は最後に俺へ言った。


「三日後、家中の兵糧方が集まる場がある。そこで、この蔵の改めを報告せよ」


「俺が、ですか」


「そうだ」


 まただ。


 また、俺が、ですか、と言ってしまった。


 蔵人は冷たい目で俺を見る。


「上様に拾われたなら、人前で飯の話をするくらいはできよう」


「飯の話なら……」


「蔵の話だ」


「……はい」


「そこで認められねば、おまえの改革は蔵の中だけで終わる。蔵の外に米を動かすには、家中にも通さねばならぬ」


 面子。


 家中。


 通す。


 難しい言葉ばかりだ。


 だが、意味は何となく分かった。


 俺が蔵でいくら米を分けても、それを受け取る飯場や隊、武将たちが納得しなければ続かない。


 誰かの顔を無視すれば、どこかで止まる。


 飯は米だけでは動かない。


 人の間を通って動く。


 それを知らなければならないのだ。


「分かりました」


 俺は頭を下げた。


「報告します」


「震えずに言え」


「それは……努力します」


「正直すぎる」


 蔵人はそう言い残し、武士たちを連れて去っていった。


 蔵の中に、しばらく誰も声を出さなかった。


 やがて、かやがぽつりと言う。


「怖かった」


「かやでも?」


「だから、あたしを何だと思ってるの」


「強そうにしてる人」


「よろしい」


 かやは胸を張った。


 弥助殿が俺の肩を軽く叩いた。


「次は人前で報告か」


「胃が痛いです」


「腹ばかり見てるからだ」


「胃も腹です」


「そう返す余裕があるなら大丈夫だ」


 五郎兵衛殿が笑う。


「清吉。次は飯を炊くより難しいぞ」


「分かっています」


「いや、分かってない顔だな」


「分かってないです」


「正直でよろしい」


 俺は蔵の中を見回した。


 米俵は積まれている。


 味噌樽も並んでいる。


 帳面もある。


 人もいる。


 そして、その外にはもっと多くの人がいる。


 古参の武士。

 商人。

 足軽。

 飯場。

 村。

 城下。

 信長様。


 飯は、そこを通っていく。


 俺は今まで、腹に届く飯だけを見ていた。


 だが、飯が腹に届くまでには、人の面子も、懐も、恐れも、誇りも通る。


 それを知らないままでは、米は動かない。


 俺は痛む手を握った。


 三日後、人前で報告する。


 考えただけで逃げたくなる。


 けれど、逃げれば蔵はまた元に戻るかもしれない。


 湿った俵も、抜かれた味噌も、小石混じりの米も、また誰かの腹に届くかもしれない。


 それだけは嫌だった。


「伊三郎」


「はい」


「俺でも読める報告を作れますか」


「作れます」


「かや」


「何」


「荷の話、教えてくれ」


「高いよ」


「飯で」


「なら教える」


「五郎兵衛殿」


「何だ」


「人前で震えない方法はありますか」


「ない」


「ないんですか」


「震えたまま話せ」


 五郎兵衛殿は笑った。


「腹に力を入れろ。声は震えても、腹が抜けなきゃ言葉は届く」


 俺は頷いた。


 腹に力を入れる。


 何度も言われたことだ。


 槍は下手だ。


 身分も低い。


 字もろくに読めない。


 人前で話すのも怖い。


 だが、腹に力を入れることなら、できるかもしれない。


 飯を食わせる時も。


 米を守る時も。


 人前に立つ時も。


 まず、腹からだ。


 蔵の外では、夕方の風が吹いていた。


 湿った匂いの中に、少しだけ乾いた米の匂いが混じっている。


 俺はそれを吸い込み、三日後のことを考えた。


 飯を守るには、米だけでは足りない。


 人の前で、飯の話をしなければならない。


 俺にとって、それは桶狭間の雨の中へ走るより、ずっと怖い戦に思えた。

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