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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百二十話 文句腹帳、信長の前に出る

 文句腹帳を信長様の前へ出す。


 そう決まった時、清洲蔵で一番嫌そうな顔をしたのは、権六だった。


「いや、待て。飯線図なら分かる。水札も分かる。川道の一本縄も、山裾の板写しも、北尾根の草履も、まあ分かる」


 権六は文句腹帳を両手で押さえた。


「でも、文句腹帳は違うだろ」


「違わない」


 弥助殿が短く言った。


 その一言で、権六の肩が少し落ちる。


「違わない……ですか」


「上様が見ると言われた」


「上様が?」


「そうだ」


 権六は、今度こそ本気で固まった。


 太助が横から小声で言う。


「権六さん、顔が高畑の非常用水札みたいになってます」


「どういう顔だ」


「触るなって顔です」


「うまいこと言うな。いや、言うな」


 蔵に笑いが起きた。


 だが、権六は笑えないらしい。


 文句腹帳。


 最初は、ただの文句の溜まり場だった。


 市松が噛みついた言葉。

 とめ婆様が釘を刺した言葉。

 太助が荷を背負いながら漏らした言葉。

 高畑の兵が「面倒」と言った言葉。

 茶屋の女将が何気なく刺した言葉。

 権六自身の荒っぽい言葉。


 それらを、伊三郎が書き、権六が分類した。


 一度だけの文句。

 繰り返す文句。

 場の痛み。

 線の痛み。

 省くための文句。

 続けるための文句。


 その分類が、四つの線を横に見る時に役立つようになっていた。


 けれど、信長様の前へ出すとなると話は別だ。


 権六は文句腹帳を開き、苦い顔で中を見た。


「これ、俺の字も混じってるんだぞ」


「だからいいんだ」


 弥助殿が言う。


「綺麗な報告だけでは、腹の痛みは見えん」


「俺の字、汚いですよ」


「戦場の泥よりは読める」


「それは褒めてますか」


「必要だと言っている」


 権六は、もう逃げられないと悟った顔をした。


 伊三郎は文句腹帳の横に、小札を並べていた。


 市松――渡し場を清洲の場所にするな。

 とめ婆様――暮らしを踏むな。

 太助――人足の体と迷い。

 高畑兵――慣れ腐り。

 茶屋の女将――場を変えるな。

 おきよ――見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い。

 喜助――川が決める。

 若い人足――少量なら、は危ない。


 権六はそれを見て、眉をひそめた。


「並べると、重いな」


「重いです」


 伊三郎は頷く。


「文句は軽く出ますが、並べると重さが分かります」


「それも書くなよ」


「もう書きました」


「早いな!」


 かやが一本縄を畳みながら笑った。


「権六さん、もう文句を言うたびに帳面が育ってるね」


「俺は帳面の肥料じゃない」


「でも、よく育ってる」


「やめろ」


 きぬは、文句腹帳の端をそっと見ていた。


「けれど、これを上様が見るのは大きいですね」


「怖いですよね」


 太助が言う。


 きぬは静かに頷いた。


「はい。でも、見ないほうがもっと怖いです」


 山裾のおきよの言葉。


 それが、もう清洲蔵の中で自然に使われるようになっていた。


 見るのは怖い。

 見ないほうがもっと怖い。


 文句腹帳も、まさにそうだった。


 信長様の前へ出すのは怖い。


 だが、出さずに美濃へ向かうほうが、もっと怖い。


 清洲城の広間には、前よりさらに家臣が増えていた。


 飯線図だけでなく、文句腹帳も見ると聞いて、何人かは怪訝そうな顔をしている。


 無理もない。


 文句の帳面。


 その言葉だけ聞けば、軍議に出すものとは思えない。


 米の数でもない。

 馬の数でもない。

 槍の数でもない。

 銭の帳でもない。


 文句。


 兵や商人や村人や人足が漏らした言葉の帳面。


 軽く見る者がいても当然だった。


 信長様は、広間の上座で待っていた。


 俺たちが飯線図と文句腹帳を広げると、信長様はまず飯線図を見た。


 高畑。

 川道。

 山裾。

 北尾根。


 それから、文句腹帳へ目を移した。


「それか」


「はい」


 俺が答える前に、信長様は権六を見た。


「おまえが見る帳面だな」


 権六の喉が、ごくりと鳴った。


「は、はい。文句腹帳にございます」


「説明しろ」


 広間の空気が、少しざわついた。


 権六が説明する。


 それ自体が、家臣たちには意外だったのだろう。


 権六は一度、俺を見た。


 俺は小さく頷いた。


 権六は腹を決めたように、文句腹帳を開いた。


「文句腹帳は、ただの愚痴を集めた帳面ではございません」


 声が少し硬い。


 でも、ちゃんと通っている。


「飯線を動かす中で出た文句を、線ごとではなく、痛みごとに分けたものです」


 信長様は黙って聞いている。


 権六は続けた。


「一度だけ出た文句は、その場の痛みかもしれません。何度も出る文句は、線の痛みです」


 広間の端で、誰かが小さく鼻で笑った。


 文句で線の痛みが分かるのか。


 そう言いたげな笑いだった。


 権六の耳にも届いたはずだ。


 だが、権六は止まらなかった。


「たとえば、川道の市松は何度も噛みつきます」


 その言い方に、少し笑いが起きた。


 権六は構わず続けた。


「渡し場を買うな。客をどかすな。清洲荷を前へ出すな。待ち荷場を清洲の場所にするな。一本縄の置き方が清洲っぽい。文句は毎回違いますが、根は同じです」


「何だ」


 信長様が聞いた。


「渡し場を清洲のものにするな、でございます」


 信長様は頷いた。


「続けろ」


「とめ婆様は、水桶に触るな、火種を借りるな、男衆だけで決めるな、怖い顔で来るな、測る場を見せ物にするな、と言います。根は、村の暮らしを踏むな、です」


 家臣たちの顔が、少し変わった。


 文句が、整理されていく。


 単なる不満ではなく、線の痛みとして見えてくる。


「太助の文句は、人足の体と迷いです」


 太助が後ろで少し身を縮める。


「泥で足が抜ける。空荷なのに気を使う。見られる重さがある。顔も荷になる。遠慮が邪魔になる。少量ならと言いたくなる。これらは、人足の背と足と腹に出る痛みです」


 太助は完全に下を向いた。


 だが、信長様は笑わなかった。


「高畑の兵は」


「慣れ腐りでございます。札声出しが面倒。戻し役が面倒。『いつも通り』で済ませたい。これは敵がいなくても正式線が腐る痛みです」


 信長様の目が細くなった。


「北尾根は」


「茶屋の女将の言葉が多くございます。茶屋を潰すな。見すぎるな。自然すぎるのも怖い。草履売りは北を見すぎる。これは、場を変えるな、という痛みです。茶屋が茶屋でなくなると、北尾根観察線は死にます」


 広間が静かになった。


 さっきまで軽く見ていた家臣たちも、もう笑っていない。


 権六は最後に言った。


「文句を潰すと、痛みが見えなくなります。拾えば、敵がそこを突く前に塞げます」


 言い終えた権六は、息を吐いた。


 広間は、しばらく静まり返った。


 信長様が、ゆっくりと口を開いた。


「文句は、腹の声だな」


「はい」


 権六が答える。


「全部を聞けばよいわけではない。だが、同じ文句が何度も出るなら、そこに刃が入る」


「はい」


「笑うな」


 信長様の声は低かった。


 誰に向けたものかは明らかだった。


 先ほど鼻で笑った家臣の顔が、さっと強張る。


「兵が面倒と言う。商人が噛みつく。村の婆が怒る。人足が困る。茶屋の女が嫌なことを言う。そこを笑う者は、敵より先に味方の腹を斬る」


 広間の空気が、一段冷えた。


 信長様は文句腹帳へ手を伸ばし、数枚の札を見た。


「これは残せ」


「はい」


「今後、飯線の報告には、文句腹帳を添えろ」


 権六の目が見開かれた。


「そ、添えるのでございますか」


「そうだ」


「毎回……?」


「毎回だ」


 権六は、嬉しいのか恐ろしいのか分からない顔をした。


 信長様はさらに言った。


「文句役を置く」


 広間がまたざわついた。


 権六が固まる。


「文句役、でございますか」


「もうおまえがやっている」


「い、いや、あれは自然にというか、流れでというか」


「役だ」


 逃げ道はなかった。


 信長様は、家臣たちを見回した。


「文句役とは、文句を増やす役ではない。文句を潰さぬ役だ。何度も出る文句を拾い、根を探し、線の痛みを見る」


 権六は、少しずつ背筋を伸ばした。


 最初は震えていた。


 けれど、最後にはちゃんと前を向いていた。


「承知しました」


 その声は、意外なほどしっかりしていた。


 信長様は満足そうに頷いた。


「よい」


 次に、信長様は俺を見た。


「清吉」


「はい」


「この文句腹帳を、飯線図と同じ重さで扱え」


「はい」


「米の数は嘘をつかぬように見える。だが、米の数だけでは腹の痛みは見えん。文句は嘘も混じる。誇張もある。だが、繰り返す文句は本物に近づく」


「承知しました」


「美濃へ出れば、もっと文句が出る」


 信長様の目が、飯線図へ戻る。


「兵が増える。馬が増える。雨が降る。橋が詰まる。村が嫌がる。商人が怒る。茶屋が怖がる。敵はそこを突く。だから、文句を潰すな。拾え」


 広間にいた全員が、頭を下げた。


 その時、文句腹帳は、清洲蔵の内輪の帳面ではなくなった。


 正式な軍務の一部になった。


 権六は、広間を出るまで一言も喋らなかった。


 清洲蔵へ戻る道中、太助が心配そうに横を歩く。


「権六さん、大丈夫ですか」


「……俺、文句役になった」


「はい」


「上様に言われた」


「はい」


「文句を潰すなって」


「はい」


 権六は空を見上げた。


「今まで文句言って怒られることはあったが、文句を拾えって言われる日が来るとはな」


 きぬが静かに言った。


「権六さんの文句は、もう役目です」


「重いな」


 かやが笑う。


「でも、向いてるよ」


「向いてると言われても喜びにくい」


「でも向いてる」


 権六は少し照れた顔をした。


「……まあ、やるしかないな」


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎が文句腹帳を棚へ戻そうとした。


 だが、権六が止めた。


「待て」


「どうしました」


「棚の奥じゃなくて、飯線図の横に置け」


 伊三郎が少し驚く。


「よいのですか」


「上様が飯線図と同じ重さで扱えと言った。なら、横だ」


 伊三郎は、静かに頷いた。


 文句腹帳は、飯線図の横に置かれた。


 それだけで、蔵の景色が少し変わった。


 夜、清洲蔵では普通の飯が出た。


 麦飯。

 味噌汁。

 漬物。

 そして、少しだけ高畑用の味噌片。


 権六はしばらく黙って食べていた。


 珍しい。


 太助が気になって声をかける。


「文句、ないんですか」


 権六は椀を置いた。


「ある」


「あるんですね」


「今日の飯は、責任の味がする」


 皆が少し黙った。


 権六は続けた。


「文句ってのは、軽く言えるから文句なんだと思ってた。でも、拾うとなると重い。誰かの腹の痛みを、勝手に軽く扱えない」


 きぬが頷いた。


「はい」


 佐助が言った。


「飯も同じです。誰かの腹へ入るものだから、軽くは作れません」


 かやも一本縄を見ながら言う。


「道具も、軽く置けないね。縄一本でも、場所を取るから」


 太助は少し考え、ぼそっと言った。


「文句を言う側も、少し責任ありますね」


「そうだな」


 権六は頷いた。


「でも、言え。言わないと見えない」


 太助は笑った。


「はい」


 俺は飯線図の横に置かれた文句腹帳を見た。


 文句を潰すな。

 拾え。


 信長様の言葉が、蔵の中に残っている。


 これから美濃へ近づけば、もっと多くの文句が出るだろう。


 面倒だ。

 怖い。

 重い。

 遅い。

 狭い。

 濡れる。

 待てない。

 戻りたくない。

 足が痛い。

 飯が足りない。


 それらを、ただうるさいものとして潰せば、腹の痛みを見落とす。


 拾えば、敵より早く痛みを知れる。


 文句腹帳は、清洲蔵の耳になった。


 そして権六は、その耳を持つ役になった。


 飯線はまた一つ、戦の仕事に近づいた。

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