第百十九話 草履一足、北の泥を運ぶ
山裾から持ち帰った空包みは、清洲蔵の棚の上に置かれていた。
中には何も入っていない。
けれど、誰もそれをただの空とは思わなかった。
飯を入れない日。
村が待てと言えば、清洲も待つ。
入れられる時に入れない勇気。
空包みは、その証だった。
川道では、雨の川で細飯荷が止まった。
山裾では、本荷を入れられそうな日に入れなかった。
高畑では、朝の声が戻り始めている。
そして、北尾根はまだ動かない。
動かないのに、清洲蔵の棚には北尾根用の札が増えていた。
一羽の鳥。
白い枝。
三つ石。
草履売り。
飯を流していない線ほど、妙に物が増える。
伊三郎は北尾根観察線帳を開きながら言った。
「今日は、草履です」
権六が味噌汁をすすりかけて止まった。
「朝から草履の話か」
「はい」
「飯線の話をしてるのに、草履ばかり見てるのは変な感じだな」
太助が自分の足元を見た。
「でも、足がなかったら飯は運べませんからね」
「おまえが言うと説得力がある」
「泥に足を取られた経験が生きています」
「いい文句だ」
「文句じゃなくて経験です」
そんなやり取りの最中、茶屋からの連絡足が来た。
札は短かった。
草履売り、来る見込み。
足痛の客、待機。
買わせるなら今日。
茶屋の女将らしい、無駄のない文だった。
俺はすぐ弥助殿へ報告した。
弥助殿は札を読み、ひとつ頷いた。
「清洲は買うな」
「はい」
「追うな」
「はい」
「茶屋の客が自然に買う。買った草履だけを見る。草履売りの口は無理に開けるな」
「承知しました」
「草履は、道を知っていることがある」
弥助殿はそう言った。
草履は、道を知っている。
人の口は嘘をつける。
だが、草履の裏は、歩いた道を少しだけ連れてくる。
もちろん、それも確かな証とは限らない。
泥は移る。
草履は誰かが試し履きする。
売り物に古い泥がつくこともある。
だから、決めつけない。
だが、見る。
北尾根観察線は、そういう線だった。
茶屋へ向かうのは、俺、作兵衛、きぬ、小平。
太助は行きたがったが、今回は留守番になった。
「俺、足元の文句なら役に立つと思うんですけど」
「おまえが行くと、草履売りが喜んで草履を売りに来る」
権六が言うと、太助は少し考えて頷いた。
「たしかに文句言いそうですね」
「しかも買いそうだ」
「買いませんよ」
「履いてみるくらいはするだろ」
「……するかもしれません」
作兵衛がきっぱり言った。
「だから留守番だ」
茶屋へ着くと、女将はいつも通りだった。
火鉢の前で茶を温め、客へ声をかけ、誰が来ても同じように茶碗を出す。
その普通さが、今は何よりありがたい。
茶屋が茶屋のままでいる。
北尾根観察線の一番難しい約束だ。
「足痛の客は?」
俺が小声で聞くと、女将は目だけで奥を示した。
年配の男が一人、軒下に座って足を揉んでいる。
旅人というより、近くの村から歩いてきた男に見えた。
草履の鼻緒が片方、かなり擦れている。
「あの人は?」
「本当に足が痛い客だよ」
「仕込みではなく?」
女将は少しむっとした顔をした。
「茶屋で客を仕込むほど暇じゃないよ」
「すみません」
「でも、草履を買う理由は十分にある」
たしかに。
自然だった。
あの客が草履を買っても、不自然ではない。
むしろ、買わないほうが不自然かもしれない。
しばらくすると、草履売りが現れた。
前と同じ男だった。
肩に草履束。
腰に小さな銭袋。
顔には軽い笑み。
彼は茶屋の前へ来ると、まず客の足元を見た。
それは草履売りとして自然な動きだった。
ただ、その後で一瞬、北を見た。
短い。
前より短い。
だが、見た。
白い枝の方向か、三つ石の方向か。
そこまでは分からない。
女将がいつもの調子で声をかける。
「草履屋さん、今日は売れるかもしれないよ」
草履売りは笑った。
「茶屋のおかみがそう言うなら、今日は足の神様が味方だ」
「神様より、あそこの客の鼻緒だね」
年配の男が自分の草履を見て苦笑した。
「こりゃ、もう駄目か」
草履売りはすぐに近づき、膝をついて草履を見た。
「駄目ってほどじゃないが、もう泣いてるね。鼻緒も足裏も疲れてる」
「俺の足と同じだな」
「足が先か、草履が先か。どっちが泣いても道は遠くなる」
口がうまい。
前と同じだ。
草履売りは数足の草履を並べた。
平地用。
ぬかるみ用。
石道用に見えるもの。
編みが少し厚いもの。
作兵衛の目が静かに動いた。
きぬも、茶を飲むふりをしながら見ている。
草履売りは年配の男の足を見て、少し厚めの草履を差し出した。
「北へ行くなら、こっちだ」
また北。
年配の男は笑った。
「北へは行かんよ。今日は東だ」
「東ならこっちでもいい。でも、その足だと石を踏むたびに文句を言う」
「足が文句を言うのか」
「一番正直に言う」
茶屋の中で、俺は権六を思い出した。
足の文句。
草履売りは、それを商いの言葉として使っている。
年配の男は結局、厚めの草履を買った。
銭が渡る。
草履売りは自然に笑い、古い草履を受け取ろうとした。
その時、女将が言った。
「古いのは置いていきな。帰りに焚き付けにでもするよ」
年配の男は頷いた。
「そうするか」
草履売りは一瞬だけ動きを止めた。
ほんの一瞬。
だが、作兵衛の目が細くなった。
古い草履ではない。
買った新しい草履のほうを見たい。
けれど、草履売りの手元から離れるのは、買われた草履だ。
その裏を見る機会は、年配の男が履く前しかない。
女将は、さりげなく言った。
「ちょいと待ちな。新しい草履、鼻緒の具合を見てやるよ。足に合わないと、茶屋の前で転ばれて困る」
草履売りは笑った。
「おかみさん、草履まで見るのかい」
「客が転ぶと茶がこぼれるんだよ」
「そりゃ大事だ」
女将は草履を受け取り、俺たちの座る側へ少し寄せた。
自然な動きだった。
作兵衛が茶碗を置くふりをして、草履の裏を見た。
俺も横目で見る。
裏には泥がついていた。
売り物なのに、完全には乾いていない。
色は少し灰色がかった土。
粒が細かい。
小さな白い砂のようなものも混じっている。
作兵衛がほんのわずかに眉を動かした。
北尾根の谷手前の土に似ているのか。
まだ決めない。
女将は鼻緒を確かめるふりをしながら、きぬへ目を向けた。
きぬは袖から小さな布を出し、落ちた泥粒を拾う。
ほんの少し。
草履売りには見えない角度だった。
草履は年配の男へ戻された。
「大丈夫だね。少し硬いが、足に馴染むよ」
女将が言うと、草履売りが笑う。
「おかみさんに言われると、俺の商いみたいだ」
「客が足を痛めて戻ってきたら、あんたのせいにするよ」
「それは困る」
やり取りは自然だった。
草履売りは、その後も何人かに声をかけた。
だが、売れたのは一足だけ。
そして、茶を飲んでいる間に、また北を見た。
今度は、かなり短い。
だが、見た。
作兵衛が低く言った。
「数えてるな」
「何をですか」
「時刻か、人の動きか、茶屋から北が見える角度か」
草履売りは、しばらくして立ち上がった。
「今日は一足売れた。足の神様に礼を言わないとな」
女将が返す。
「足の神様より、客の鼻緒に礼を言いな」
「違いない」
草履売りは笑い、西へ歩き出した。
追わない。
今日も追わない。
小平が無言で視線だけ送る。
作兵衛は首を振った。
追えば、こちらが見ていると知らせる。
今は、草履を見ればいい。
草履売りが見えなくなってから、女将は表情を変えた。
「取れたかい」
きぬが小さな布包みを出す。
「泥は少しだけです」
作兵衛が受け取り、指で潰さないように見る。
「北の谷手前の土に似てる」
「似ている、ですね」
俺が言うと、作兵衛は頷いた。
「似ている。断定はしない」
草履の編み方も見た。
作兵衛の説明では、あれは平地用というより、石の多い細道を歩く者向けに少し厚く編まれていた。
ぬかるみ用ではない。
長い街道用でもない。
石を踏む道で足裏を守る草履。
「北へ行くなら、こっちだと言ったな」
「はい」
「なのに、客は東へ行くと言った。それでも売った」
「売るための口かもしれません」
「そうだ。だが、売り物が北向きなのは気になる」
女将が言った。
「草履売りは、北へは行かないと言ってたね」
「はい」
「でも草履は、北を知ってるようだ」
草履は、道を知っている。
弥助殿の言葉が戻ってくる。
もちろん、草履売り本人が北へ入ったとは限らない。
誰かに渡すための草履かもしれない。
北を歩く者から仕入れた草履かもしれない。
売り物を試すために別の者が履いたのかもしれない。
まだ分からない。
だが、北尾根の谷手前に似た泥。
石道向けの編み。
北を見すぎる目。
「北へ行くなら」という口癖。
一つ一つは弱い。
並べると、見逃しにくい。
「次はどうしますか」
きぬが聞いた。
作兵衛は茶屋の外を見た。
「まだ捕まえない。草履売りが誰に道の話を渡すかを見る」
「誰に?」
「客か、別の売り手か、北の誰かか。草履売りが集めているだけなら、どこかへ渡すはずだ」
女将も頷いた。
「茶屋に来るなら、また口が滑るよ。商人は喋るのが仕事だからね」
茶屋での記録を終え、泥を包んで清洲へ戻った。
帰り道、太助がいたら絶対に草履の話で文句を言っただろうと思った。
足元から情報を取る。
それは、単に道の話ではない。
誰がどこへ行くか。
どの道が痛いか。
どこで足を止めるか。
どの程度の荷を背負っているか。
どの草履が減っているか。
足は、思った以上に多くを話す。
清洲蔵へ戻ると、太助が真っ先に寄ってきた。
「草履、どうでした?」
「北を知っているかもしれない草履だった」
「何ですか、その言い方」
権六が文句腹帳を開く。
「詳しく言え」
俺たちは報告した。
年配の客が自然に草履を購入。
草履売り、北へ行くなら厚い草履と勧める。
客は東へ行くと言う。
女将、鼻緒確認の名目で新草履を確認。
裏に灰色がかった泥、白い砂粒混じり。北谷手前に似るが断定せず。
編み、石道向け。
草履売り、茶屋滞在中に北を複数回見る。
草履売り本人は北へ行かないと言う。
追わず。
次は、草履売りが誰へ道の話を渡すかを見る。
伊三郎は北尾根観察線帳へ丁寧に書いた。
太助は、自分の草履を脱いで裏を見ていた。
「俺の草履も、結構いろいろ話してるんですかね」
作兵衛が見る。
「おまえのは、泥と迷いが多い」
「迷いまで草履に出ます?」
「出る。立ち止まる者の草履は、減り方が違う」
太助は少し嫌そうに草履を履き直した。
「足元、怖いですね」
「だから草履売りがいる」
権六が頷いた。
「今日の文句腹帳に入れるなら、足は道を喋る、だな」
伊三郎が書いた。
足は道を喋る。
弥助殿への報告では、草履の泥と編みが中心になった。
弥助殿は泥包みを見ても、すぐには触らなかった。
「北谷手前に似る、か」
「はい。断定はできません」
「断定するな。断定は敵に使われる」
「はい」
「だが、似ているなら見る価値はある」
弥助殿は作兵衛へ目を向けた。
「編みは」
「石道向けに近いです。ぬかるみより、足裏の石を殺す編みです」
「北を歩く者向けか」
「その可能性があります」
「よい。草履売りはまだ捕まえるな。次は、誰と話すかを見る。茶屋だけでなく、草履を買った客が誰へ道の話をするかも見ろ」
「買った客もですか」
「草履は客の足に移った。そこから話が動くかもしれん」
なるほど。
草履売りだけではない。
買った客もまた、草履を履いて道を歩く。
その客が、北の話を誰かにするか。
草履売りが意図した相手ではないかもしれない。
だが、情報は足とともに移る。
「北尾根は、足も見る」
弥助殿が言った。
「はい」
「鳥、枝、石、草履。敵は小さいものを使っている。小さいものほど、見落とすな」
「承知しました」
夜、清洲蔵では北尾根用の歩き飯と、茶屋の干し梅が出た。
今日は、太助が自分の草履を横に置いて食べていた。
「食事の横に草履を置くな」
佐助が少し嫌そうに言う。
「すみません。でも、気になって」
権六が歩き飯を噛みながら言った。
「今日の飯は、草履の裏の味だな」
「またまずそうなことを」
太助が顔をしかめる。
「いや、泥臭いって意味じゃない。歩いた道がくっついてる味だ」
きぬが頷いた。
「草履も、飯も、運ばれる間に道の気配を持ちますね」
佐助は少し考え込んだ。
「飯荷の包みも、道を語るかもしれません。濡れ、匂い、擦れ、泥。もっと見たほうがいいですね」
かやが笑った。
「草履から飯包みに戻ってきた」
俺は歩き飯を噛んだ。
乾いた味。
北尾根の味。
草履売りは、まだ敵とは決まっていない。
だが、草履一足が北の泥を運んできた。
それだけで、北尾根の腹は少し鳴った。
次は、草履売りの口ではなく、草履が運ぶ話の行き先を見る。
北尾根観察線は、また一段細くなった。




