第百十八話 山裾、本荷をまだ入れない勇気
川道で細飯荷が止まった翌日、清洲蔵では妙な空気が残っていた。
敗けた空気ではない。
むしろ、少しだけ背筋が伸びた空気だった。
雨の川で、喜助が黄札から赤札へ切り替えた。
清洲の細飯荷は渡らなかった。
若い人足は「少量なら」と言いかけ、喜助に止められた。
市松は「今日の清洲は待てた」と言った。
飯を届けなかったのに、信用は少し増えた。
それが皆の腹に残っていた。
「止められる線は強い」
伊三郎が帳面を閉じながら言った。
権六が味噌汁をすすり、頷く。
「通すより難しい時があるな」
「権六さんが言うと重いですね」
太助が言うと、権六は少し得意そうにした。
「俺は文句を通すのは得意だが、文句を止めるのは苦手だからな」
「自覚はあるんですね」
「ある」
蔵に笑いが起きた。
けれど、その笑いも長くは続かなかった。
山裾から、朝一番で札が届いたからだ。
届けたのは茶屋経由の連絡足だった。
布に包まれた小さな板写し。
村水火板の写しだ。
水桶。
火種。
薪。
井戸。
針。
空籠。
石入り籠。
目。
そして、目の横に新しく描かれた小さな線があった。
見る者は、村で決める。
おきよの絵は、前より少し柔らかくなっていた。
怖くない目にしたい、と言っていたそうだ。
とめ婆様は「少し怖くていい」と言ったらしいが、それでもおきよは、目の端を少し丸く描き直した。
怖いけれど、睨む目ではない。
見守る目。
そんな絵だった。
板写しの下に、とめ婆様の言葉が添えられていた。
測る場は落ち着いた。
針売りは来ていない。
女衆の不安も、前ほど騒いでいない。
だからこそ、今日はまだ飯を入れない。
最後の一文で、蔵の空気が止まった。
「今日はまだ飯を入れない……」
佐助が小さく読み上げた。
かやが眉を寄せる。
「条件だけなら、入れられそうなのに?」
伊三郎が板を見ながら言った。
「晴れの日、昼前、重し荷は通過可。匂い見本も受け入れられた。見る人数も村で決める。条件だけなら、小さな本荷投入の候補日です」
「なのに入れない」
権六が腕を組んだ。
「とめ婆様らしいな」
「どういう意味ですか」
太助が聞く。
「今ならいけるって時に、いかない。それが一番腹が据わってる」
その言葉に、俺は川道の赤札を思い出した。
小雨の日。
少量なら渡せそうに見えた川。
それでも喜助は止めた。
山裾も同じなのかもしれない。
飯を入れられそうに見える日こそ、止める。
ただ、山裾の場合は川の水位ではない。
村の腹だ。
とめ婆様は、そこを見ている。
弥助殿へ報告すると、彼は板写しをじっと見た。
「行け」
「本荷を持ってですか」
「違う。入れない理由を聞きに行け」
「はい」
「飯は持つな」
「承知しました」
「ただし、匂い見本も今日は持つな」
俺は少し驚いた。
「匂い見本もですか」
「飯を入れない日に、飯の匂いを持っていくな。話が濁る」
確かにそうだ。
今日は、入れるための確認ではない。
入れない理由を聞く日だ。
飯の匂いを持っていけば、それだけで村の腹を揺らす。
弥助殿は続けた。
「川道で止めることを覚えた。山裾でも止めることを覚えろ。だが、川道の止め方をそのまま持ち込むな」
「川と村は違うからですね」
「そうだ。川は喜助が止める。山裾は村が止める」
今日の山裾行きは、俺、きぬ、太助、小平。
作兵衛は高畑の人足確認で残る。
かやは川道の一本縄を喜助主導の形に直すため、道具を整えている。
権六は留守番だ。
「行きたいんだがな」
「山裾で権六さんが文句を聞きに行くと、村が身構えます」
きぬがやんわり言うと、権六は黙った。
「……それは分かる」
「文句腹帳は帰ってからお願いします」
「持って帰れよ。入れない文句は重い」
「はい」
太助は出発前に、自分の顔を軽く叩いた。
「怖い顔、なし」
「もう癖になってるな」
俺が言うと、太助は真面目に答えた。
「山裾では顔も荷ですから」
それを自分で言うようになった。
茶屋に寄ると、女将はすでに話を聞いていた。
「今日は入れないんだって?」
「はい。理由を聞きに行きます」
「いいね」
「いいんですか」
「入れられる時に入れないのは、強いよ。入れられないから入れないのとは違う」
女将は湯気の立つ茶を出した。
「村の腹が静かな時は、二つある。落ち着いた時と、黙った時だ」
「黙った時?」
「不安が消えたんじゃなくて、言っても仕方ないと思った時。そういう静けさは怖いよ」
とめ婆様が見ているのは、それかもしれない。
針売りが来ていない。
女衆が騒いでいない。
測る場も落ち着いた。
だからこそ、今の静けさが本当に安心なのか、ただの沈黙なのかを見ている。
茶屋を出る頃、太助がぽつりと言った。
「静かなのも怖いんですね」
「文句がないのは、納得か諦めか分からないからな」
「権六さんが聞いたら喜びそうです」
「文句役としてはな」
山裾の村へ着くと、糸干し場の横には人が少なかった。
前回より明らかに少ない。
とめ婆様。
おきよ。
女衆が二人。
惣右衛門は少し離れている。
子どもたちはいない。
測る場を見せ物にしないために、見る人数を村で決めたのだろう。
それだけで、前回の文句が生きているのが分かった。
とめ婆様は俺たちを見るなり言った。
「飯は持ってきてないね」
「はい。今日は理由を聞きに来ました」
「よし」
それだけで少し試されていたのだと分かった。
もし匂い見本でも持ってきていたら、とめ婆様は怒っただろう。
村水火板の前へ案内される。
目の絵が、やはり少し変わっていた。
前より丸い。
でも、ちゃんと見ている。
おきよが少し照れた顔で言った。
「怖すぎると、子どもが嫌がるので」
とめ婆様が横から言う。
「私は怖くていいって言ったんだけどね」
「でも、見張る目じゃなくて、見る目にしたかったんです」
その言葉はよかった。
見張る目ではなく、見る目。
山裾村線は、監視ではない。
村が自分の暮らしを確かめる目だ。
「今日、飯を入れない理由を聞かせてください」
俺が言うと、とめ婆様は少しだけ空を見た。
「入れられそうだからだよ」
太助が思わず聞き返す。
「入れられそうだから、入れないんですか?」
「そうだよ」
とめ婆様は当然のように答えた。
「入れられなさそうな時に入れないのは、誰でもできる。入れられそうな時に入れないのは、決めた者にしかできない」
川道の喜助と同じだ。
雨の川で「少量なら」と思う腹を止める。
山裾では「今日は大丈夫そうだ」と思う腹を止める。
おきよが続けた。
「針売りが来なくなって、皆、少し安心しています。でも……」
「でも?」
「本当に安心したのか、針売りの話をするのが面倒になったのか、まだ分かりません」
とめ婆様が頷いた。
「そういうことだよ」
女衆の一人が言った。
「前は、水桶のことも火種のことも、みんな口にしてました。今は言わなくなりました。でも、言わないから平気とは限らない」
きぬが静かに聞いた。
「では、どうすれば平気か分かりますか」
女衆は少し考えた。
「何もない日に、普通に水桶を使って、火種を分けて、それでも誰も清洲の荷を気にしなくなったら……でしょうか」
とめ婆様が言う。
「その前に飯を入れたら、また全部清洲の話になる」
なるほど。
今、村の暮らしは少しずつ普通に戻ろうとしている。
そこへ本荷を入れれば、また村の中心に清洲の飯が来てしまう。
水桶を見るたびに清洲を思い出す。
火種を扱うたびに清洲を思い出す。
針売りが来ていなくても、清洲が不安の中心になる。
だから、まだ入れない。
おきよが小さく言った。
「待てる清洲なら、少し信用できます」
その言葉に、俺は息を止めた。
待てる清洲。
川道では、止まれる細飯荷が信用になった。
山裾では、待てる清洲が信用になる。
「待てない清洲は?」
太助が聞くと、おきよは少し困った顔をした。
「怖いです」
「ですよね」
太助は深く頷いた。
自分のことのように受け止めている。
とめ婆様は村水火板を指した。
「今日は、ここに書き足す」
「何をですか」
「入れられる時も、村が待てと言えば待つ」
強い。
だが、大事な一文だ。
惣右衛門が近づいてきて、少し渋い顔をした。
「そこまで書くのか」
とめ婆様は即答する。
「書くよ」
「清洲が嫌がるかもしれん」
「嫌がるなら、飯は入れない」
惣右衛門は俺を見た。
俺は頭を下げた。
「書いてください。清洲は従います」
惣右衛門は少し驚いた顔をした。
とめ婆様は満足そうに頷く。
「ほらね」
何が「ほらね」なのかは分からないが、たぶん試されていた。
おきよが筆を取り、少し迷った。
「字は、惣右衛門さんにお願いします」
「絵は?」
「待つ絵って、難しいです」
とめ婆様が笑った。
「空籠の横に、手を止める絵でも描けばいい」
おきよは少し考え、空籠の横に小さな手の絵を描いた。
掌を前へ向けた手。
止まれ。
でも、拒絶ではない。
少し待って、という形に見える。
その横に、惣右衛門が字を書いた。
村が待てと言えば、清洲も待つ。
字は前より少しまっすぐだった。
とめ婆様はそれを見て、何も言わなかった。
たぶん合格なのだろう。
きぬが板を見ながら言った。
「この手の絵、良いですね」
おきよが照れる。
「怖くない止まれにしたくて」
「怖くない止まれ」
太助が呟いた。
「それ、山裾っぽいですね」
とめ婆様が言った。
「怖くない止まれでも、止まれは止まれだよ」
「はい」
山裾の止まれは、赤札とは違う。
川道の赤札は川の戸締まり。
山裾の止まれは、村の腹を待つ手だ。
同じ止まるでも、形が違う。
その後、村の中を少し歩いた。
飯荷は持っていない。
だから、村の人たちも前ほど身構えない。
女衆が水桶を運んでいる。
火種を分ける家もある。
子どもが糸干し場の近くを走り、とめ婆様に叱られている。
普通の村の動きだ。
とめ婆様はそれを見ながら言った。
「この普通が戻るまで、飯はまだだよ」
「普通が戻るまで」
「そう。清洲が来ても、皆がいちいち水桶を見るうちは早い。清洲が来ても、女衆が火種を気にしすぎるうちは早い。清洲が来ても、子どもが飯の匂いを探して集まるうちは早い」
普通は、静かに戻る。
急いで取り戻そうとすると、それはもう普通ではない。
「分かりました」
俺は頭を下げた。
「清洲は待ちます」
とめ婆様は、少しだけ笑った。
「待てるかい?」
「川道で少し覚えました」
「川と村は違うよ」
「はい。でも、止まることが信用になるのは、同じかもしれません」
とめ婆様は俺をじっと見た。
それから、頷いた。
「少しは分かってきたね」
帰り際、おきよが小さな包みを渡してきた。
「これは?」
「何も入っていません。空の包みです」
「空?」
「清洲が今日は何も入れなかった証に、持って帰ってください」
空の包み。
空籠に続いて、空包み。
おきよらしい返事だった。
「ありがとうございます」
「次に来る時も、空でも怒らないでください」
「怒りません」
「空で来られると、少し安心します」
その言葉は、今日の山裾そのものだった。
飯を持ってくることだけが信用ではない。
飯を持ってこないことも、信用になる日がある。
茶屋へ戻ると、女将は空包みを見て笑った。
「山裾らしい返事だね」
「今日は、本荷を入れられそうなのに入れませんでした」
「いい。待てる清洲なら、少し信用できるか」
「おきよさんがそう言いました」
「良い言葉だ」
女将は茶を出しながら言った。
「信じるって、相手が何かしてくれることだけじゃない。相手がしないでいてくれることもあるからね」
しないでいてくれること。
これも、飯線には必要なのだろう。
清洲蔵へ戻ると、権六が真っ先に聞いた。
「文句は?」
「入れられそうだから、入れない」
太助が答えた。
権六は目を丸くした。
「文句じゃなくて、胆力だな」
伊三郎が報告を聞きながら、村腹帳へ書いた。
山裾、本荷投入見送り。
理由、村の静けさが安心か沈黙か未判断。
針売り不在直後、表の不安が消えただけの可能性。
村の普通が戻るまで待つ。
村水火板へ「村が待てと言えば、清洲も待つ」追記。
おきよ、怖くない止まれの手絵を追加。
空包みを清洲へ返答として渡す。
「待てる清洲なら、少し信用できます」おきよ発言。
本荷投入、さらに保留。
弥助殿は報告を聞き、深く頷いた。
「よい」
「入れませんでした」
「入れなかったのだろう」
川道の時と似た言い方だった。
「はい」
「なら、山裾の勝ちだ」
その言葉に、太助が少し笑った。
「川道と同じですね」
弥助殿は首を横に振る。
「違う。川道は川が止めた。山裾は村が止めた。だが、止まれたことは同じだ」
「はい」
「飯線は、通す勇気だけでは足りん。入れられる時に入れない勇気もいる」
伊三郎がそのまま書いた。
入れられる時に入れない勇気。
夜、清洲蔵では山裾用の火なし飯は出なかった。
代わりに、普通の麦飯と味噌汁だった。
佐助が言った。
「今日は山裾飯を出さないほうがいいと思いました」
「なぜ?」
権六が聞く。
「山裾が飯を入れなかった日なので」
皆が少し黙った。
そして、納得した。
飯を出さない飯線の日。
それもある。
権六が味噌汁をすすって言った。
「今日の飯は、空包みの味だな」
「また難しい味ですね」
太助が笑う。
「でも、分かる」
きぬが静かに言った。
「何も入れないことで、伝わることもありますね」
かやも頷いた。
「道具もそうだよ。置かないほうが効く時がある」
伊三郎は帳面を閉じながら言った。
「空白も記録ですね」
俺は、おきよからもらった空包みを見た。
何も入っていない。
だが、ただの空ではない。
今日は飯を入れない。
清洲は待つ。
村の普通が戻るまで待つ。
その意味が詰まっている。
山裾村線は、また一歩進んだ。
本荷は入れていない。
けれど、止まれた。
待てた。
それは、飯を通すことと同じくらい大事な前進だった。




