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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百十七話 細飯荷、雨の川で止まる

 雨は、朝から強くはなかった。


 ぽつり、ぽつりと屋根を叩き、しばらく黙り、また思い出したように落ちてくる。


 川道にとって、一番嫌な雨だった。


 大雨なら、最初から止められる。

 赤札を出せばいい。

 誰もが納得しやすい。


 だが、小雨は違う。


 空を見れば、いけそうに見える。

 足元を見ても、まだひどくはない。

 荷も濡れないように包めば、どうにかなりそうに思える。


 そういう時が、一番危ない。


 清洲蔵では、川道用の細飯荷が二包みだけ用意されていた。


 厚味噌片。

 小さな握り飯。

 乾燥菜。

 濡れ戻り用の空包み。

 それから、一本縄と空け札。


 かやは荷を見て、眉を寄せた。


「今日、川は嫌な顔してると思う」


 太助が草履の紐を締めながら言った。


「まだ見てないのに分かるんですか」


「雨がこういう降り方の時は、川道が一番揉める。行けそうに見えるから」


「行けそうに見えるなら、余計揉めますね」


「うん。『少量なら』って言いたくなる」


 その言葉が、蔵の中に落ちた。


 少量なら。


 細飯荷にとって、一番危ない言葉かもしれない。


 細いから通せる。

 二包みだけだから渡せる。

 少し待てばいける。


 そう考えた瞬間、細飯荷は太い顔を始める。


 佐助は包みの上から竹皮を撫でた。


「濡れには強くしています。でも、渡すかどうかは別です」


「飯の側は?」


「短い雨なら耐えます。ただ、舟底が濡れて、岸で待たされて、戻りでさらに湿ると分かりません」


「つまり、飯は耐えても、川道が耐えないかもしれない」


「はい」


 佐助ははっきり言った。


 飯だけ見れば、行けそうに見える。


 でも、川道は飯だけの道ではない。


 舟。

 岸。

 客。

 喜助。

 市松。

 水位。

 待ち荷逃がし。

 草の濡れ。

 戻り包み。


 全部で川道だ。


 弥助殿が蔵へ来て、荷を一瞥した。


「今日は、止まる日かもしれんな」


「はい」


「止まるなら、止まったことを持ち帰れ。渡せなかったではない。止められた、だ」


「承知しました」


「若い人足に焦らせるな。『少量なら』と言ったら、喜助に聞け」


 太助が少し身構えた。


 弥助殿は太助を見た。


「太助」


「はい」


「おまえは言いそうな顔をしている」


「まだ何も言ってません」


「言う前に言った」


 蔵に小さな笑いが起きた。


 けれど、太助は笑いながらも真面目に頷いた。


「気をつけます」


 川道へ向かうのは、俺、かや、太助、小平。


 護衛二人。


 作兵衛は高畑確認のため清洲に残った。


 権六は文句腹帳を抱え、また留守番だった。


「今日みたいな日は行きたいんだがな」


「なぜですか」


 太助が聞くと、権六は真顔で答えた。


「止まる文句は、通す文句より重い」


「それ、今日持っていきます」


「頼む。濡らすなよ」


 文句も濡れるらしい。


 茶屋に着く頃、小雨は少し強くなっていた。


 地面はまだ泥ではない。


 だが、草は濡れ、草履の裏に湿りがつく。


 女将は軒下で火鉢を見ていた。


「川へ行くのかい」


「はい。細飯荷です」


「今日は喜助が嫌な顔をするよ」


「やっぱり」


「小雨は、渡したい者の腹をくすぐるからね。大雨なら諦める。小雨は諦めが悪い」


 まさにそれだった。


 太助が少し気まずそうにする。


 女将はそれを見て笑った。


「太助、少量ならって言うんじゃないよ」


「みんな俺を何だと思ってるんですか」


「言いそうな人」


「否定できない……」


 女将は茶を出しながら、川の方を見た。


「今日は、渡せたら勝ちじゃない。止められたら勝ちの日かもしれないね」


 川道へ着くと、喜助はすでに舟を岸へ寄せず、少し離した位置にいた。


 その時点で、答えは半分出ていた。


 舟を近づけない。


 つまり、すぐ乗せる気がない。


 市松もいた。


 布包みは持っていない。


 雨の日に大事な布を出すほど愚かではない、という顔だった。


 魚籠の男もいるが、籠は空に近い。


 若い人足が一人、清洲側に付いていた。


 前に川道を一度だけ手伝った者だ。


 今日は勉強のため同行させている。


 その顔が、雨を見て少し焦っていた。


「喜助殿」


 俺が声をかけると、喜助は川から目を離さずに言った。


「黄」


 札を掲げる。


 黄札。


 待て。


 まだ赤ではない。


 だが、青でもない。


「水が動いていますか」


「上で降った。こっちは小雨でも、上は分からん」


 喜助は川面を指した。


 泡が増えている。


 草も流れている。


 川の色も、昨日より少し濃い。


 俺たちには「少し悪い」程度に見える。


 だが、喜助の顔は厳しかった。


 市松が腕を組んで言った。


「今日は細飯荷も待てだな」


「はい」


 俺はすぐ答えた。


 太助も黙って頷く。


 だが、若い人足が小さく言った。


「二包みだけなら、いけるのでは……」


 空気が止まった。


 言った本人も、言ってからしまったという顔をした。


 喜助がゆっくり振り返る。


 怒鳴りはしなかった。


 ただ、目が怖かった。


「二包みなら、川は浅くなるのか」


 若い人足は黙った。


「二包みなら、舟底は濡れないのか」


「……いえ」


「二包みなら、客が足を滑らせても助かるのか」


「いえ」


「二包みなら、俺の目は要らなくなるのか」


「いえ」


 喜助は黄札を下ろさなかった。


「少量だから待つんだ。大荷なら最初から赤だ」


 その言葉に、市松が小さく頷いた。


 俺は、腹の奥で何かが落ちるのを感じた。


 少量だから待つ。


 細いから止められる。


 太ければ止めるだけで大騒ぎになる。


 細飯荷の強みは、通せることではない。


 止められることだ。


 かやが一本縄を取り出しかけたが、喜助が首を振った。


「まだ置くな」


「黄札ですが」


「黄が長くなりそうだ。待ち荷逃がしを作ると、荷が座る。今日は座らせたくない」


 待つ場所を作ることさえ、今日は危ない。


 荷を置けば、待つ気になる。

 待つ気になれば、渡したくなる。

 渡したくなれば、川を甘く見る。


 喜助はそれを嫌がっている。


 市松が言った。


「今日は、荷を座らせるなってことか」


「そうだ」


「客もか」


「客もだ。軒下で茶を飲んでるならいい。岸で待つな」


 魚籠の男が肩をすくめた。


「なら俺は茶屋に戻る」


「それがいい」


 魚籠の男は、素直に引いた。


 若い商人も、今日は荷が少なかったため、渡し場の端へ下がる。


 細飯荷は、太助の背にある。


 置かない。


 背負ったまま待つ。


 だが、それも長くはよくない。


 太助が小さく言った。


「背負ったまま待つのも、じわじわ来ますね」


 喜助が聞きつけた。


「なら下ろせ。ただし、岸ではなく清洲側の後ろだ。渡し場の荷にするな」


 かやがすぐ動く。


 細飯荷を渡し場から少し離した場所へ下ろす。


 空け札よりさらに後ろ。


 黄札の待ち荷逃がしにも入れない。


 渡す気を見せない位置だ。


 市松がそれを見て、少し笑った。


「今日の清洲は、前へ出ないな」


「出たら噛みますか」


「噛む前に喜助が噛む」


 喜助は川を見たまま、返事をしなかった。


 雨は少し強くなった。


 細い雨粒が川面を叩く。


 水が跳ねるほどではないが、川の表情は変わっている。


 喜助はしばらく黙っていた。


 それから、黄札を下ろし、赤札を掲げた。


「赤」


 短い声だった。


 赤は川の戸締まり。


 誰も渡らない。


 清洲も、客も、魚籠も、布も、薬も。


 全部止まる。


 若い人足が息を呑んだ。


 太助が彼の横で小声で言った。


「言わないほうがいいですよ」


「何を」


「少量ならって」


 若い人足は、苦い顔で頷いた。


 市松が赤札を見上げて言った。


「赤なら帰るか」


「待たないんですか」


 若い商人が聞くと、市松は鼻で笑った。


「赤で待つのは、川に喧嘩を売るようなものだ。茶屋へ行く」


 喜助が頷く。


「赤は岸の戸締まりでもある。ここに残るな」


 その言葉で、渡し場にいた者たちは少しずつ動いた。


 茶屋へ戻る者。

 別道を探す者。

 荷を抱え直す者。


 清洲の細飯荷も、今日は渡らない。


 かやが俺を見る。


 俺は頷いた。


「戻します」


 喜助がこちらを見た。


「清洲、怒らないのか」


「怒りません」


「飯を戻すのは面倒だぞ」


「面倒です。でも、赤です」


 喜助は少しだけ口元を動かした。


「ならいい」


 市松が横から言った。


「今日の清洲は待てたな」


「褒めていますか」


「半分」


「半分ですか」


「残り半分は、次も待てるか見る」


 市松らしい。


 だが、その声は前より柔らかかった。


 川道で止まる。


 それは負けではなかった。


 むしろ、川道が川道として生きている証だった。


 赤札が出たのに清洲荷が無理をしない。


 客もそれを見る。


 商人も見る。


 喜助が止められることを、清洲が認める。


 その事実が、川道の信用になる。


 茶屋へ戻ると、女将は俺たちの荷を見てすぐに分かったようだった。


「止まったね」


「はい。赤札です」


「いい日だ」


 若い人足が驚いた顔をした。


「渡れなかったのに、いい日なんですか」


 女将は茶を注ぎながら言った。


「渡れる日に渡るのは当たり前。渡れそうに見える日に止まれるほうが、よほど大事だよ」


 市松も茶屋に入り、濡れた肩を払いながら言った。


「清洲の若いの、聞いたか。今日、渡してたら俺が一生言ったぞ」


「何をですか」


「細飯荷じゃなくて、無理飯荷だってな」


 太助が吹き出した。


「無理飯荷は嫌ですね」


「嫌なら止まれ」


 若い人足は、今度はしっかり頷いた。


「はい」


 茶屋で少し休みながら、俺たちは今日の記録を取った。


 黄札。

 待ち荷逃がし出さず。

 荷を渡し場に座らせない。

 細飯荷は後ろへ下げる。

 赤札へ切り替え。

 全員停止。

 細飯荷持ち帰り。

 市松評価、今日の清洲は待てた。

 若い人足、「少量なら」と発言。喜助が止める。


 女将がそれを覗き込み、言った。


「最後のは残したほうがいいね」


「少量なら、ですか」


「そう。小雨の日は、みんなそう言う。誰か一人が言った言葉じゃない。腹が言う言葉だ」


 腹が言う言葉。


 文句腹帳に入れるべきだ。


 清洲蔵へ戻る道で、細飯荷は少し重く感じた。


 濡れてはいない。


 包みも無事だ。


 だが、渡れなかった荷には、別の重さがある。


 太助がそれを背負いながら言った。


「戻る飯って、変な重さがありますね」


「悔しいか」


「少し。でも、渡さなくてよかったとも思います」


「その両方が大事かもしれないな」


「悔しくなくなったら、飯を雑に戻しそうです。でも、悔しさだけだと無理に渡しそうです」


 太助の言葉は、今日も鋭かった。


 かやが頷く。


「戻り飯にも、置き場が要るね。清洲蔵に戻った時、普通の飯と混ぜないようにしないと」


「濡れ戻り棚とは別か」


「今日は濡れてないけど、渡れなかった飯。理由付きで戻す棚が要る」


 新しい棚がまた増える。


 渡れなかった飯。


 止められた飯。


 それをどう扱うか。


 清洲蔵へ戻ると、佐助がまず荷を確認した。


「濡れていません」


「食べられるか」


「食べられます。ただ、川道へ出た飯として、戻し扱いにしたほうがいいです」


「通常飯には戻さない?」


「戻しません。匂いと湿りは問題ありませんが、外へ出た飯です。今日中に蔵内で使うか、試食へ回します」


 佐助の判断は早かった。


 川道が止まった時の飯の扱い。


 これも、今後必要になる。


 伊三郎はすぐに新しい欄を作った。


 止まり戻り飯。


 権六がそれを見て言った。


「また名前が増えた」


「必要です」


 佐助が言う。


「濡れ戻りとは別です。渡れず戻った飯です」


 権六は頷いた。


「今日の文句は何だ」


 太助が答えた。


「少量なら、は危ない」


 若い人足も、少し恥ずかしそうに付け加えた。


「俺が言いました」


 権六はその若い人足を見た。


「よく言った」


「え?」


「言ったから残せる。黙って思ってたら、次に誰かが言う」


 若い人足は少し救われたような顔をした。


 伊三郎が書く。


 小雨時、「少量なら」は腹が言う危険文句。言った者を責めず、仕組みで止める。


 弥助殿への報告では、赤札への切り替えが中心になった。


 弥助殿は静かに聞き、最後に頷いた。


「よい」


「渡せませんでした」


「止められたのだろう」


「はい」


「なら、川道の勝ちだ」


 その言葉に、若い人足が驚いた顔をした。


 弥助殿は彼を見る。


「おまえが少量ならと言ったそうだな」


「はい。申し訳ありません」


「謝るのは一度でいい。次に誰かが言ったら、おまえが止めろ」


 若い人足の顔が変わった。


「はい」


「今日、喜助に止められた者が、次は止める側になる。それでよい」


 若い人足は深く頭を下げた。


 夜、清洲蔵では、止まり戻り飯を皆で食べた。


 川道へ行き、渡らず戻った飯。


 佐助が温め直し、味噌片を湯でほどいた。


 権六が一口食べて、しばらく黙った。


「どうですか」


 佐助が聞く。


 権六は真面目な顔で答えた。


「今日の飯は、止まれた味だ」


「美味しいですか」


「悔しい。でも、悪くない」


 太助が頷いた。


「分かります」


 かやも椀を持って言った。


「通す飯だけじゃなくて、戻る飯も大事なんだね」


 伊三郎が帳面を見ながら言った。


「止めた記録がある線は、強いです」


 きぬが静かに続ける。


「無理に通さなかったことも、信用になるんですね」


 俺は赤札を思い出した。


 雨の川。

 黄から赤へ変わる札。

 喜助の目。

 市松の「今日の清洲は待てた」という言葉。

 若い人足の「少量なら」。


 細飯荷は、雨の川で止まった。


 それは失敗ではなかった。


 細いから止まれた。


 止まれたから、川道は少し強くなった。

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