第百十六話 高畑、朝の声が戻る
高畑へ向かう朝の空は、薄く白んでいた。
夜の湿りがまだ草の先に残っていて、歩くたびに草履の縁が少し濡れる。
北尾根の乾いた空気とも、川道の湿った匂いとも違う。
高畑は、高畑の朝を持っている。
砦へ向かう道に、もう緊張で足が止まるような新しさはない。
だからこそ、怖い。
高畑正式飯線。
その言葉は、便利だ。
正式。
毎日動く。
仕組みがある。
担当がいる。
札がある。
飯がある。
そう言うと、まるで線が固まったように聞こえる。
だが実際には、正式線ほど毎朝戻さなければならない。
水札も、飯箱も、声も、人の腹も。
戻さなければ、少しずつずれる。
ずれたものは、いつの間にか「いつも通り」の顔をして居座る。
俺たちは、その「いつも通り」が怖いことを知ったばかりだった。
今日の高畑行きは、確認を兼ねていた。
俺、佐助、伊三郎、太助。
作兵衛は清洲蔵に残り、人足腹帳の整理をしている。
権六は文句腹帳を抱えて留守番だ。
「本当は行きたいんだがな」
出発前、権六はそう言った。
「高畑の文句も聞きたい」
「今日は、文句を掘る日じゃなくて、声が戻るかを見る日です」
伊三郎が言うと、権六は不満そうに鼻を鳴らした。
「声だって文句になるぞ」
「なります。だから戻ったら報告します」
「絶対だぞ。『面倒』って言った奴がいたら、その面倒の匂いまで持って帰れ」
「匂いは無理です」
太助が苦笑する。
権六は真顔で返した。
「文句には匂いがある」
「もう権六さん、だいぶ危ない領域に入ってません?」
「文句役だからな」
本人は少し誇らしげだった。
高畑砦に着くと、朝の支度は始まっていた。
兵たちの声。
槍を立てかける音。
飯を受け取る者の足音。
井戸の桶が軋む音。
高畑は動いている。
動いているからこそ、音がある。
その音の中に、今日聞きたい声が混じっていた。
「飲み水よし」
「よし」
「味噌よし」
「よし」
「非常触るな」
「触らず」
井戸場のほうから、短い声が返ってきた。
俺たちは足を止めた。
太助が小さく言う。
「言ってますね」
「言ってるな」
まだぎこちない。
声も少し照れている。
だが、言っている。
井戸場へ行くと、井戸番が二人と、飯配り役の若い兵が一人立っていた。
三人で戻し役をしている。
水札板はまっすぐだった。
飲み水札。
味噌片用水札。
非常用水札。
非常用水札には、前回入れた赤い筋が表からも裏からも分かるようになっている。
裏返っても気づける。
小さな工夫だが、安心感が違った。
井戸番の一人が俺たちに気づいて、少し顔を固くした。
「清吉さん」
「続けてください。見ています」
「はい」
井戸番は一度咳払いした。
それから、また声を出す。
「飲み水よし」
「よし」
「味噌よし」
「よし」
「非常触るな」
「触らず」
今度はさっきより少し声が揃った。
太助が妙に真剣な顔で聞いている。
「どうした?」
俺が小声で聞くと、太助は井戸場を見たまま言った。
「なんか、聞くと安心しますね」
「昨日までは、面倒そうだって言ってなかったか」
「言うのは面倒そうです。でも、聞く側は安心します」
なるほど。
札声出しは、言う者のためだけではない。
聞く者のためでもある。
飯を取りに来た兵。
井戸の横を通る者。
見張りに出る者。
その耳に、朝の確認が入る。
飲み水よし。
味噌よし。
非常触るな。
それだけで、水場が少し落ち着いて見える。
佐助が水札板の横を確認した。
「板の縄、締め直されていますね」
井戸番が頷く。
「昨日の夕方に直しました。朝にも触ってみることにしています」
「触る?」
「揺れないかどうか」
井戸番は少し恥ずかしそうに言った。
「前は見てるだけでした。でも、見てるだけだと傾きに気づかなかったので」
見るだけでは足りない。
触って確かめる。
高畑の水場も変わり始めている。
その時、横から若い兵の声がした。
「飲み水よし、味噌よし、非常触るなって、呪文みたいだな」
笑い混じりの声だった。
場の空気が、少しだけ緩みかける。
若い兵は悪気があるわけではなさそうだった。
ただ、茶化した。
朝の決まりを、少し面白がった。
その瞬間、井戸番の年長の兵が低い声で言った。
「笑うな」
若い兵の顔から笑みが消えた。
「え、いや、別に馬鹿にしたわけじゃ」
「水を間違えたら、飯が崩れる。飯が崩れたら、見張りが崩れる。見張りが崩れたら、おまえの背中を誰が見る」
若い兵は黙った。
井戸番は続けた。
「呪文でも何でもいい。声に出して間違えないなら、それでいい。笑うなら、井戸番を一日やってから笑え」
きつい言い方だった。
だが、怒鳴ってはいない。
腹から出た声だった。
若い兵は、しばらくして頭を下げた。
「すみません」
「次、飯を取りに来た時に一緒に言え」
「はい」
俺は横で黙って見ていた。
口を出す必要はなかった。
清洲が叱るより、井戸番が叱るほうがいい。
この声は、高畑の中から出なければならない。
太助が小さく呟く。
「腹が乗ってますね」
「何に?」
「声に」
その通りだった。
形式だけなら、すぐ腐る。
だが、今の井戸番の声には腹が乗っていた。
水を守る腹。
飯を守る腹。
見張りを守る腹。
それがあるうちは、札声出しは形骸化しない。
伊三郎は静かに小帳面へ書いた。
声に腹が乗っているうちは、形式ではない。
次に、常備飯箱を確認した。
前回、開封札の紐が湿っていた場所だ。
今日は箱の下に小さな木片が挟まれている。
地面から少し浮いている。
佐助がしゃがみ込み、紐を触る。
「乾いています」
常備飯係の兵が得意そうに言った。
「昨日、下を少し上げました」
「誰の案ですか」
「飯配りの者です。地面につけるから湿るんだ、と」
佐助は頷いた。
「良いです。ただ、上げすぎると箱が傾きます」
「そこまではしていません」
「では、木片の位置も戻し役で確認しましょう」
兵は少し苦笑した。
「また確認が増えますね」
「増えます」
佐助は真面目に答えた。
「食べない飯ほど、見ないと腐りますから」
兵は一瞬きょとんとして、それから頷いた。
「……それ、分かりやすいです」
佐助の言葉が、現場に落ちた。
飯係として、佐助も確実に変わっている。
見張り前飯の置き場も見た。
前回、雨避けのため半歩内へ寄せたことで、兵が腰をひねる形になっていた。
今日は、置き場に小さな足印がついている。
その上に飯箱。
上には、仮の小さな庇。
板一枚を斜めに掛けただけだが、雨は直接かからない。
道は曲がっていない。
見張りに出る兵が、槍を持ったまま飯を取る。
腰をひねらず、流れるように取れる。
「前よりいいですね」
太助が言うと、見張り前飯係が少し嬉しそうにした。
「半歩戻しました」
「半歩って、大事ですね」
「ええ。前は気にしていませんでした」
その兵は、自分で槍を持って動きを確かめたらしい。
「槍を持ってやると、分かります。手ぶらだと平気でも、槍があると危ない」
これも大事だ。
清洲蔵で決めたことを、そのまま置くだけでは足りない。
現場で槍を持ち、飯を取り、実際の動きを確かめる。
形式が腹へ落ちている証拠だった。
午前の確認が終わる頃には、高畑の朝の声は何度か繰り返されていた。
最初は少し照れがあった。
だが、三度目になると、声が自然になってくる。
若い兵も、飯を取りに来た時に小さく参加した。
「飲み水よし」
「よし」
「味噌よし」
「よし」
「非常触るな」
「触らず」
声が終わると、若い兵は少しばつが悪そうに笑った。
「……言うと、確かに分かりますね」
井戸番が鼻を鳴らす。
「分かればいい」
「でも、毎朝は面倒ですね」
正直だ。
井戸番が眉を上げたが、俺はそこで口を挟んだ。
「面倒と言ってください」
若い兵が驚いた顔をした。
「え?」
「面倒なら、面倒と言ってください。ただし、省かないでください。面倒をどう軽くするかは考えます。でも、面倒だから黙って省くのが一番危ない」
若い兵は、少し考えて頷いた。
「分かりました。面倒だけど、言います」
「それでいいです」
太助が横で小さく笑った。
「権六さんが聞いたら喜びますね」
「文句が生きてるからな」
面倒という文句が出るうちは、まだ直せる。
黙って省かれたら、もう腐り始めている。
高畑の確認を終え、俺たちは砦の端で簡単に飯を食べた。
高畑の砦飯。
いつもの味だ。
しっかりしていて、腹に残る。
だが今日は、少しだけ声の味がした。
飲み水よし。
味噌よし。
非常触るな。
その声が、飯の横にある。
それだけで、同じ飯が少し違って感じる。
佐助も同じことを思ったらしい。
「飯を食べる前に水の声があると、落ち着きますね」
「水の声?」
「はい。飲み水がある。味噌に使う水がある。非常用には触らない。それが分かると、飯の不安が減ります」
伊三郎が書く。
水の声が飯の不安を減らす。
太助が見て笑う。
「今日も増えますね」
「増えます」
伊三郎は当然のように言った。
帰る前、井戸番が俺たちを呼んだ。
「清吉さん」
「はい」
「明日からも続けます」
「お願いします」
「ただ、一つ」
「何でしょう」
「声を出す者が毎日同じだと、また慣れると思います。戻し役の中で、声を出す順を変えます」
俺は少し驚いた。
こちらが言う前に、井戸番が考えていた。
「良いと思います」
「誰か一人の声になると、またその者任せになりますから」
まさに、その通りだった。
水札も、声も、一人に背負わせてはいけない。
井戸番はそれを分かり始めている。
高畑線は、少し安定した。
いや、安定というより、戻り方を覚え始めた。
清洲蔵へ戻ると、権六が待ち構えていた。
「文句は?」
「ありました」
太助が答える。
「毎朝は面倒」
「よし」
権六は嬉しそうに文句腹帳を開いた。
「よし、なのか」
「よしだ。面倒と言ったうえで続けるなら、生きた文句だ」
伊三郎が報告を読み上げる。
高畑、朝の声定着の兆し。
若兵、声出しを茶化す。井戸番が叱る。
声に腹が乗っているうちは形式ではない。
常備飯箱、木片で湿り避け。上げすぎ注意。
見張り前飯、半歩戻し。庇仮設。槍持ち動作確認。
面倒の文句あり。ただし省かず継続意思。
声出し役は日替わり、順も変える案。
水の声が飯の不安を減らす。
権六は満足そうに頷いた。
「高畑の文句、良い方向だな」
「文句に良い方向があるんですね」
太助が言うと、権六は真面目に答えた。
「ある。省くための文句は危ない。続けるための文句は使える」
蔵が少し静かになった。
権六の言葉は、また一つ階段を上がっていた。
伊三郎がすぐ書く。
省くための文句は危ない。続けるための文句は使える。
権六はもう止めなかった。
むしろ、少しだけ得意そうにしていた。
弥助殿への報告では、高畑の朝声が中心になった。
弥助殿は静かに聞き、頷いた。
「声が戻ったか」
「はい。まだぎこちないですが、腹は乗っています」
「よい。声に腹が乗っているうちは、形骸ではない」
「ただ、茶化す若い兵もいました」
「いるだろうな」
「井戸番が叱りました」
「清洲が叱るよりよい」
「はい」
「高畑は、このまま朝声を続けろ。だが、月に一度は声の意味を言わせろ」
「意味を?」
「飲み水よしとは何か。味噌よしとは何か。非常触るなとは何か。言葉だけになる前に、腹へ戻せ」
また「戻す」だ。
高畑正式飯線は、毎朝戻す線。
札だけでなく、声の意味も戻す必要がある。
夜、清洲蔵では高畑の砦飯が出た。
いつもの飯。
だが、皆が食べる前に、太助がふざけ半分で言った。
「飲み水よし」
権六が乗った。
「味噌よし」
佐助が少し笑って言う。
「非常触るな」
皆が一瞬黙り、それから笑った。
でも、笑いの中に馬鹿にする感じはなかった。
声が、飯の前に戻ってきただけだ。
俺は飯を口に運んだ。
高畑の味がした。
太い腹の味。
正式線の味。
そして、毎朝戻される声の味。
高畑は完成したわけではない。
ただ、腐る前に戻る方法を覚え始めた。
それだけで、正式線は少し強くなった。




