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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百十五話 美濃前夜、信長は飯線図をもう一度見る

 総合試験の結果をまとめるだけで、半日が過ぎた。


 高畑。

 川道。

 山裾。

 北尾根。


 四つの線を同じ日に小さく動かしただけだ。


 飯荷も大荷ではない。

 兵も大勢は出していない。

 山裾に本荷も入れていない。

 北尾根には踏み込んですらいない。


 それでも、帳面は膨れた。


 高畑では、朝の札声出しが形になり始めた。

 川道では、一本縄の待ち荷逃がしが使えそうだが、置く手つきまで見られると分かった。

 山裾では、村の目の場が進んだが、見る者が増えすぎれば見せ物になる危うさが残った。

 北尾根では、動かない日も記録しなければならないと分かった。


 成功だけを書けば、薄い。


 失敗だけを書けば、暗い。


 けれど、信長様へ上げるなら、どちらも必要だった。


「隠すと怒られるな」


 権六が文句腹帳を閉じながら言った。


「誰に?」


 太助が聞く。


「上様にも怒られるし、たぶん市松にも怒られる」


「市松さん、ここにいないのに存在感ありますね」


「文句の出所が遠くても、腹には残るんだよ」


 権六は妙にもっともらしい顔で言った。


 最近の権六は、文句を扱う時だけ妙に落ち着いている。


 飯を食う時と文句を読む時だけ、別人のようだ。


 伊三郎は飯線図の横に、総合試験の結果札を並べていた。


 高畑――戻し役、札声出し有効。面倒の文句あり。

 川道――喜助主導の一本縄へ修正必要。清洲手つき注意。

 山裾――村の目の場有効。見る人数は村が決める。

 北尾根――動かない日も記録。草履売り待ち。

 文句腹帳――繰り返す文句から線の痛みを先読み可能。


 そこまで書いて、伊三郎は筆を止めた。


「清吉様」


「はい」


「信長様には、どこまで申し上げますか」


「全部です」


「全部、ですね」


「はい。うまくいったところだけ言うと、美濃へ出た時に折れます」


 かやが一本縄を手にしたまま頷いた。


「川道の手つきの話も?」


「言います」


「市松さんの『清洲っぽい』も?」


「言います」


 太助が少し嫌そうな顔をした。


「俺の文句もですか」


「必要なら」


「必要じゃない方向でお願いします」


 権六が文句腹帳を軽く叩いた。


「太助の文句は、もう必要なほうに入ってるぞ」


「そんな……」


 太助は困った顔をした。


 その顔を見て、きぬが小さく笑う。


「山裾なら安心される顔ですね」


「それ、褒めてます?」


「はい」


 太助は納得できない顔のまま黙った。


 弥助殿が蔵へ来たのは、昼前だった。


 飯線図と帳面を見て、すぐに言った。


「上げるぞ」


「はい」


「飾るな」


「分かっています」


「失敗を小さく言うな。小さい失敗は、小さいまま言え。大きくも小さくもするな」


 それは難しい。


 高畑の札声出しの面倒。

 川道の手つき。

 山裾の見せ物化。

 北尾根の動きなし。


 一つ一つは小さい。


 だが、放っておけば大きくなる。


 だから、小さいまま正しく言わなければならない。


 清洲城の広間へ向かう時、飯線図は以前より少し重く感じた。


 紙と紐の重さではない。


 そこに人の名前と文句と顔が増えたからだ。


 高畑の井戸番。

 喜助。

 市松。

 とめ婆様。

 おきよ。

 茶屋の女将。

 太助。

 権六。


 全部が、この図のどこかに乗っている。


 広間に入ると、信長様はすでに待っていた。


 前よりも家臣が多い。


 五郎兵衛殿だけでなく、兵糧に関わる者、馬廻りの者、普請に関わる者もいる。


 飯線図がただの蔵の仕事ではなくなっていることが、その顔ぶれだけで分かった。


 信長様は、広げられた飯線図を見て、口元を少し上げた。


「また腹の絵か」


「はい」


 俺は頭を下げた。


「総合試験の結果をお持ちしました」


「言え」


 短い。


 だが、広間の空気はその一言で締まった。


 俺は高畑の太い紐を指した。


「高畑正式飯線は、通常運用を行いました。戻し役と札声出しは有効です。飲み水よし、味噌よし、非常触るな、という短い声で定着し始めています」


 家臣の一人が、少し笑いかけた。


 だが、信長様がそちらを見た瞬間、笑いは消えた。


「続けろ」


「はい。ただし、戻し役を面倒と感じる文句が出ています。正式線は慣れで腐るため、毎朝戻す形は続ける必要があります」


 信長様は頷いた。


「面倒と言ったか」


「はい」


「よい。面倒と言ううちは、まだ腹が生きている。言わなくなって勝手に省くほうが悪い」


 権六が後ろで小さく頷いていた。


 信長様の目が、次に川道へ移る。


「川道」


「細飯荷一便を動かしました。一本縄の待ち荷逃がしは有効です。ただし、清洲側が縄を置くと、手つきが清洲っぽいと市松から文句が出ました」


 今度は、広間の別の家臣が眉をひそめた。


「手つきなど、文句にもならぬのでは」


 そう言いかけた者に、信長様が視線を向ける。


 静かだった。


 静かだが、怖かった。


「手つきで城を取られることもある」


 広間が凍った。


 信長様は俺に向き直る。


「それで」


「次回から、喜助殿が主導して一本縄を置きます。清洲は手伝う形にします。川道では、道具だけでなく動きも渡し場のものにする必要があります」


「よい。川道は清洲の橋ではない。渡し場だ」


「はい」


 次に、山裾。


「山裾村線では、村の目の場を実施しました。村側が前に立ち、清洲は後ろへ下がりました。おきよが荷を開け、とめ婆様たちが重さ、幅、匂いを確かめました」


「飯は」


「入れていません。重し荷のみです」


「よい」


「ただし、見る者が増えすぎると、測る場が本当に見せ物になる恐れがあります。次回から、見る人数は村が決める形にします」


 信長様は少し目を細めた。


「見せ物、か。敵がそう言ったな」


「はい。針売りがそう言いました」


「それにどう返した」


「とめ婆様は、見せ物ではなく村の目だ、と返しました。村水火板には、目の絵が加わっています」


 信長様は板の写しを見た。


 水桶、火種、薪、井戸、針、空籠、石入り籠、目。


 家臣たちの間に、小さなどよめきが起きる。


 信長様はその絵を見て、低く笑った。


「この目は、よい」


「はい」


「清洲を見る目だな」


「そうです。村が清洲を測る目です」


 そう言うと、広間の空気が少し変わった。


 清洲が村を見るのではない。


 村が清洲を見る。


 それは、家臣たちには少し奇妙に聞こえたかもしれない。


 だが、信長様は頷いた。


「村に見られぬ飯荷は、村を通らぬ。覚えておけ」


 家臣たちが一斉に頭を下げた。


 最後に、北尾根。


「北尾根観察線は、清洲から北へ入りませんでした。茶屋の観察のみです。鳥は飛ばず、草履売りも来ず。ただし、動かない日も記録する必要があると分かりました」


「動かぬ日を記録する」


「はい。こちらが動かなかった時、敵が何を出すか、または出さないかを見るためです」


「草履売りは」


「まだ捕まえていません。次に茶屋の自然な客が草履を買い、草履の裏と編みを確認します」


「清洲が買うな」


「はい」


「茶屋を茶屋のままにしておけ」


「はい」


 信長様はしばらく飯線図を見た。


 広間は静かだった。


 誰も口を挟まない。


 やがて、信長様は文句腹帳を指した。


「それは何だ」


 権六が少し背筋を伸ばした。


 俺が答えようとすると、信長様は言った。


「持っている者が答えろ」


 権六の顔が引きつった。


「お、俺でございますか」


「そうだ」


 権六は文句腹帳を抱え直した。


「文句腹帳でございます。市松、とめ婆様、太助、高畑の兵、茶屋のおかみさん……そういう者たちの文句を集めて、一度だけの文句と何度も出る文句に分けています」


 信長様は黙って聞いている。


 権六は少し声を整えた。


「何度も出る文句は、線の痛みでございます。市松は、渡し場を清洲の場所にするな、と何度も言っています。とめ婆様は、暮らしを踏むな、と何度も言っています。太助は、足元と人足の迷いをよく言います。高畑の兵は、慣れで面倒を嫌います」


 広間の家臣の何人かが、今度は笑わなかった。


 権六の言葉が、思ったより筋を通していたからだ。


 信長様は、少しだけ口元を上げた。


「文句は、敵より早く痛みを教えるか」


「はい」


 権六は、まっすぐ答えた。


「潰すと見えなくなります。拾うと、先に塞げます」


 その瞬間、信長様の目が鋭くなった。


「よい」


 権六の肩が、ほんの少し震えた。


 信長様は広間の家臣たちを見回した。


「文句を潰すな。拾え」


 誰も声を出さない。


「兵の文句、商人の文句、村の文句、茶屋の文句。全部を聞けと言っているのではない。だが、何度も出る文句を笑うな。そこに敵が刃を入れる」


 信長様の声は、広間の奥まで届いた。


「飯線は、米を運ぶだけではない。水、火、銭、渡し、村、足、鳥、札、文句。敵は腹を狙う。腹が痛む前に、文句が出る。なら拾え」


 権六は、完全に固まっていた。


 たぶん、人生で初めて、自分の文句がこれほど大きな場所に置かれたのだろう。


 信長様は再び飯線図へ目を落とした。


「線はできた」


 その一言で、胸の奥が鳴った。


「だが、完成ではない」


 すぐに続く言葉で、背筋が伸びる。


「美濃へ出れば、敵は腹を狙う。太い高畑は腐りを狙われる。細い川道は信用を狙われる。山裾は村の目を狙われる。北尾根は、こちらの見方を狙われる」


「はい」


「最終確認を続けろ。飯を増やすな。まず、崩れ方を増やせ」


 崩れ方を増やせ。


 家臣たちが少しざわついた。


 信長様は構わず続けた。


「崩れ方を知らぬ線は、本番で折れる。崩れ方を知る線は、折れる前に戻せる」


 高畑の戻し役。

 川道の一本縄。

 山裾の村の目。

 北尾根の動かない記録。


 全部、崩れ方を見たからできたものだ。


 信長様は、最後にこう言った。


「美濃前夜だ。腹を先に動かせ」


 広間での報告が終わり、清洲蔵へ戻る道中、誰もすぐには喋らなかった。


 権六だけが、文句腹帳を抱えている。


 まるで重い米俵でも持っているような顔だった。


 太助が小声で言った。


「権六さん、大丈夫ですか」


「……文句役、上様に認められた」


「はい」


「嬉しいより、怖い」


 権六は正直だった。


 きぬが静かに言った。


「でも、必要な役です」


「そう真正面から言うな。照れる」


 かやが笑った。


「文句言いにくくなった?」


「いや、言う。言わないと役目を果たせない」


 権六はそこで少し止まり、自分で言った言葉に驚いた顔をした。


「……俺、今、すごい真面目なこと言ったな」


「書きますか?」


 伊三郎が聞くと、権六は慌てた。


「それは書くな!」


 皆が笑った。


 清洲蔵へ戻ると、飯線図を元の場所へ広げた。


 だが、朝とは違って見えた。


 信長様が「線はできた」と言った。


 完成ではない。


 けれど、線はできた。


 それだけで、ここまでの苦労が一度、形になったような気がした。


 夜の飯は、質素だった。


 麦飯。

 味噌汁。

 漬物。

 それから、四線の味噌片を少しずつ。


 権六が飯を食べながら、しみじみと言った。


「今日の飯は、文句が正式になった味だな」


「美味しいんですか、それ」


 太助が聞く。


「重い」


「味じゃなくて重さですね」


「でも、悪くない」


 佐助が笑った。


「文句味噌片、作りますか」


「やめろ。売れない」


 かやが茶碗を置いて言った。


「でも、今日で清洲蔵の仕事、また重くなったね」


 伊三郎が頷いた。


「はい。飯線は軍務として扱われます。帳面の間違いも、文句の見落としも、前より重くなります」


「怖いですね」


 きぬが言った。


「でも、見ないほうがもっと怖いです」


 おきよの言葉だ。


 皆が自然に頷いた。


 見るのは怖い。

 見ないほうがもっと怖い。


 それは、山裾だけの言葉ではなくなっていた。


 美濃へ向かう前夜。


 まだ戦は始まっていない。


 だが、腹はもう動いている。


 高畑の朝の声。

 川道の一本縄。

 山裾の目の絵。

 北尾根の茶屋。

 文句腹帳。


 それら全部が、戦より先に動く。


 信長様はそう見ている。


 なら、清洲蔵はもう後戻りできない。


 飯炊きの仕事は、戦の腹へつながった。

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