第百十四話 飯線は、戦の前に人を変える
総合試験の翌朝、清洲蔵は妙に静かだった。
疲れ切っていた、というわけではない。
むしろ、皆よく眠った顔をしていた。
高畑、川道、山裾、北尾根。
四つの腹を同じ日に小さく動かして、清洲蔵は倒れなかった。
もちろん、何も問題が出なかったわけではない。
高畑では、戻し役の声出しにまだ面倒の文句が残った。
川道では、一本縄を置く手つきが清洲っぽいと市松に噛まれた。
山裾では、見る者が増えすぎると測る場が見せ物になると分かった。
北尾根では、動かない日も記録しなければならないと確認した。
どれも小さな問題だ。
けれど、今なら分かる。
小さな問題が見えるうちは、まだ線は生きている。
見えなくなった時が怖い。
飯は、腐る前に匂う。
水は、濁る前に揺れる。
人の腹も同じだ。
不満が文句として出ているうちは、まだ直せる。
文句が消えた時は、納得した時か、諦めた時だ。
その違いを見逃せば、飯線は静かに切れる。
「清吉」
佐助の声で、俺は我に返った。
佐助は、四種類の味噌片を並べていた。
高畑用。
川道用。
山裾用。
北尾根用。
見た目だけなら、どれも小さな味噌片だ。
だが、もう同じものには見えなかった。
「味を、少し変えようと思います」
「どれを?」
「全部です」
佐助は真面目な顔で言った。
「前は、どうすれば日持ちするか、どうすれば腹に入るか、そればかり考えていました。でも今は、道ごとの顔が少し分かってきました」
「道ごとの顔?」
「はい。高畑は、毎日戻る味。川道は、渡し場に残らない味。山裾は、台所を取らない味。北尾根は、喉を奪いすぎない味」
俺は少し驚いて、佐助を見た。
最初の頃の佐助なら、飯の量と保存のことをまず考えただろう。
それが悪いわけではない。
飯係として当然だ。
でも今の佐助は、道の腹を見ている。
飯が、どこを通り、誰に見られ、どんな文句を生み、どんな匂いを残すか。
そこまで考えて味噌片を作ろうとしていた。
「川道用は、後味を少し引かないようにします。渡し場に匂いが残ると、市松さんに言われます」
「言いそうだな」
「山裾用は、飯の匂いではあるけれど、村の台所の匂いと喧嘩しないようにします」
「難しいな」
「難しいです。でも、やります」
佐助はそう言って、少しだけ笑った。
自信の笑いではない。
難しさを受け入れた笑いだった。
その向こうでは、かやが一本縄を畳み直していた。
昨日の総合試験で、市松に言われた。
縄を置く手つきが清洲っぽい。
その文句を、かやは妙に気にしていた。
朝から何度も、縄を置いては拾い、置いては拾っている。
「かや」
「うん?」
「まだ市松さんの文句、気にしてるのか」
「気にするよ。あれ、悔しいけど正しいから」
かやは低い姿勢で縄を地面に置いた。
張るのではなく、置く。
でも、置き方が早すぎると場所を取るように見える。
遅すぎると、清洲がもたついているように見える。
「道具って、形だけじゃ駄目なんだね」
かやは言った。
「使う手つきまで、道具の一部になる」
「市松さん、そこまで見てたのか」
「見てた。嫌になるくらい」
かやは笑った。
「前は、便利なものを作ればいいと思ってた。小台も、縄も、札も。でも今は違う。目立たず効く形にしないと駄目。使った後に、ちゃんと消える形」
「川道っぽいな」
「うん。山裾なら、消えればいいってわけでもない。村の板みたいに、残るほうがいいものもある。だから、場所ごとに違う」
かやも変わった。
ただ器用なだけではなくなった。
道具の見え方、人の腹に残る形まで考えている。
清洲蔵の片隅では、伊三郎が帳面を前に座っていた。
以前の伊三郎なら、ひとりで黙々と書き続けていただろう。
顔色が悪くなっても、筆を止めず、全部を抱え込んでいたはずだ。
だが、今は違う。
彼の周りには、札が分けて置かれている。
飯腹帳に入れるもの。
水腹帳に入れるもの。
村腹帳へ回すもの。
文句腹帳へ渡すもの。
人足腹帳へ写すもの。
そして、権六が横で文句腹帳を開いていた。
「これは丸だな」
権六が言う。
「どれですか」
「高畑の『朝の声出しが面倒』だ。たぶん繰り返す」
「慣れ腐りですね」
「そうだ。これは一度の文句じゃない」
伊三郎は頷き、印を付ける。
「では、丸」
「市松の『手つきが清洲っぽい』も丸だ」
「根は、渡し場を清洲の場所にするな」
「分かってきたじゃないか」
「権六殿に鍛えられています」
権六は少し照れたように鼻を鳴らした。
「俺は文句を言ってるだけだ」
「それが役に立っています」
「……そう真正面から言うな」
権六は困ったような顔をした。
少し前まで、権六の文句は皆に流されていた。
うるさい。
声が大きい。
また何か言っている。
それで終わりだった。
でも今は、文句腹帳がある。
権六は文句を集め、分け、根を探す。
それはもう、ただの愚痴ではなかった。
飯線の耳だった。
太助も、変わった。
以前の太助は、ただ荷を背負って、文句を言って、困った顔をしていた。
今も文句は言う。
困った顔もする。
だが、その文句の質が変わっている。
太助は自分の草履を見ながら言った。
「北尾根の草履売りの話、気になるんですよね」
「足元の話か」
「はい。山裾でも、川道でも、足元って結構出てきました。泥で足が抜ける。草が道になる。荷の間で迷う。北尾根は草履売り。全部、足の文句なんですよ」
太助は少し考え込んだ。
「飯線って、腹の話なのに、足元から崩れるんですね」
俺は思わず笑った。
「いいな、それ」
「書きます?」
「書く」
「もう自分から聞くようになってしまった……」
太助は頭を抱えたが、本気で嫌がってはいない。
作兵衛が横で頷いた。
「荷は背で運ぶが、道は足で決まる。太助の文句は、そこを見るようになった」
「作兵衛さんまで……」
「褒めてる」
「ありがとうございます」
太助は困った顔で礼を言った。
その困った顔は、山裾では怖くない顔として認められている。
本人は納得していないが、それもまた役目になりつつあった。
きぬは、針箱を開いていた。
山裾の村水火板の写しが横に置かれている。
水桶。
火種。
薪。
井戸。
針。
空籠。
石入り籠。
目。
おきよの絵は、最初よりずっと力がある。
きぬはその絵を見ながら言った。
「針売りが持ち込んだ針が、村の目印になりましたね」
「きぬさんが最初に針を見てくれたからです」
「いいえ。私は針を見ただけです。村の言葉にしたのは、とめ婆様とおきよさんです」
きぬは針を布へ通した。
「でも、針って面白いですね。小さいのに、布をつなぐことも、噂を縫い込むこともできる」
「今は、村をつなぐほうか」
「そうだといいですね」
きぬも変わった。
清洲蔵の中だけでなく、山裾の女衆の声をつなぐ役になった。
きぬがいるから、おきよが話せる。
きぬが聞くから、とめ婆様の言葉が清洲へ柔らかく届く。
それは、米俵より軽く見えて、ずっと重い役目だった。
昼前、茶屋から札が届いた。
北尾根の草履売りは、まだ来ない。
だが、女将の札にはこうあった。
足の痛い客、昨日の草履を気にしている。
次に草履売りが来たら、自然に買わせられる。
茶屋は茶屋のまま。
俺はその一文を見て、少し笑った。
茶屋は茶屋のまま。
最初は、ただ茶を飲ませる場所だった。
それが今では、北尾根観察線の目になっている。
でも、見張り場ではない。
茶屋は茶屋のままでいなければならない。
女将もまた、変わった。
いや、もしかすると最初からあの人はそうだったのかもしれない。
清洲がようやく、その目の使い方を学んだだけだ。
川道からは、喜助の短い札が来た。
一本縄、喜助主導で設置。
清洲は手伝い。
市松、「少しは渡し場の手つきになった」と発言。
ただし、まだ噛む余地あり。
市松らしい。
喜助も変わった。
最初は、川を見る渡し守だった。
今は、清洲の細飯荷をただ運ぶのではなく、川道の約束を守る者になっている。
青は清洲の青ではない。
黄は川の待て。
赤は川の戸締まり。
その言葉は、喜助の声で渡し場に落ちたからこそ意味を持った。
市松も、ただ噛みつく商人ではなくなった。
いや、噛みつくのは変わらない。
だが、その噛みつきは川道を守る杭になっている。
市松が噛むから、清洲荷は太い顔をできない。
山裾からも札が届いた。
とめ婆様の言葉だ。
次の測り場は、見る人数を村で決める。
清洲は増やすな。
おきよ、目の絵を少し直した。
怖くない目にしたいと言う。
私は少し怖くていいと言った。
蔵に笑いが起きた。
とめ婆様らしい。
おきよも変わった。
最初は、針を買ったことを責められると思っていた娘だった。
今は、村水火板へ絵を描き、空籠を描き、目を描いている。
見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い。
その言葉は、山裾だけではなく、清洲蔵にも残った。
午後、弥助殿が蔵へ来た。
いつものように静かに入ってきて、飯線図の前に座る。
「今日はどうだ」
「大きな動きはありません」
俺は答えた。
「高畑は戻し役継続。川道は喜助主導の一本縄へ修正。山裾は見る人数を村が決める形に。北尾根は草履売り待ちです」
「よい」
弥助殿は飯線図を見た。
「清吉」
「はい」
「おまえには、何が見える」
急な問いだった。
俺は少し考えた。
飯線図を見る。
高畑の太い紐。
川道の細い紐。
山裾の村水火板。
北尾根の結び止めた紐。
最初にこれを見た時、俺は線ばかり見ていた。
どう通すか。
どこを曲げるか。
どこで止めるか。
でも、今は違うものが見える。
「人が見えます」
俺は答えた。
弥助殿は黙って続きを待った。
「佐助は、飯を道ごとに変えるようになりました。かやは、道具を目立たず効く形にしようとしています。伊三郎は、一人で帳面を抱えなくなりました。権六は文句を聞き分けています。太助は、文句を観察に変えています。きぬさんは、針と村の声をつないでいます」
そこで一度、言葉を切った。
「喜助殿、市松さん、とめ婆様、おきよさん、茶屋の女将も、飯線の一部になっています。清洲が線を作ったというより、線を作る間に、人が変わりました」
弥助殿はしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり頷いた。
「それでよい」
「よい、ですか」
「飯線は、米俵で作るものではない。人が変わらねば、線は残らん」
弥助殿は高畑の紐を指した。
「高畑は、正式線になって兵が慣れた。慣れは腐る。だが戻し役を作れたなら、兵も変わる」
次に川道を指す。
「川道は、喜助と市松が変わらねば細飯荷は通らん」
次に山裾。
「山裾は、村が目を持たねば通らん」
最後に北尾根。
「北尾根は、茶屋が茶屋のまま見ねばならん」
弥助殿は俺を見た。
「戦は、始まる前に人を変える。変わらぬ者は、戦が始まってから折れる」
重い言葉だった。
美濃攻略は、まだ始まっていない。
だが、もう戦は動いている。
飯線を作るという形で、人が変わっている。
それは、戦の前の戦だった。
その夜、清洲蔵では、久しぶりに少しだけまともな膳が出た。
といっても豪華ではない。
麦飯。
味噌汁。
漬物。
小さな焼き魚。
そして、四線の味噌片をほんの少しずつ。
権六が膳を見て言った。
「今日は、普通の飯だな」
「不満か?」
「いや。普通の飯がうまい」
太助が頷いた。
「試験の飯とか、測られる飯とか、縄の味の飯とか続きましたからね」
「縄の味は権六さんが言ったんでしょう」
かやが笑う。
「今日は普通でいい」
佐助が少し照れたように言った。
「普通の飯も、作るのは難しいです」
「そうだな」
俺は椀を持った。
普通の飯。
それが一番大事なのかもしれない。
飯線は、戦のために作っている。
でも、飯そのものは、人が明日も動くためにある。
腹が満ちる。
水を飲む。
火を囲む。
文句を言う。
笑う。
また歩く。
その繰り返しが、戦の前に人を支える。
きぬが静かに言った。
「清吉さん」
「はい」
「この飯線作り、最初は米を運ぶ話でしたよね」
「そうでした」
「今は、人をつないでいるみたいです」
その言葉に、皆が少し黙った。
権六が照れ隠しのように味噌汁をすすった。
「大げさだな」
だが、否定はしなかった。
伊三郎が帳面を閉じた。
「でも、帳面にも人の名前が増えました。最初は米や水の数ばかりでしたが、今は文句を言った人、見た人、測った人、止めた人の名前が残っています」
かやが言った。
「線って、人の名前でできてるんだね」
佐助が頷く。
「飯の味も、人の顔で変わります」
太助が困った顔で言った。
「俺の顔も荷なんですよね」
「山裾では」
皆が笑った。
その笑いを聞きながら、俺は飯線図を見た。
美濃へ出す前の総合試験は終わった。
四線は、まだ完全ではない。
だが、もうただの試し線でもない。
高畑は、毎朝戻る正式線。
川道は、消える場所を持つ細飯荷。
山裾は、村の目で測る村線。
北尾根は、動かず見続ける観察線。
そして、それぞれの線に人がいる。
飯線は、戦の前に人を変える。
その変化がなければ、美濃へ飯は届かない。
逆に言えば、この人たちがいるなら、まだ進める。
俺は麦飯を一口食べた。
普通の飯だった。
でも、今までで一番、腹に残る味がした。




