第百十三話 美濃へ出す前の、最初の総合試験
総合試験、と聞いた瞬間、権六は嫌な顔をした。
「飯を出すのに、試験って言うなよ」
清洲蔵の朝は、まだ薄暗かった。
米を研ぐ音。
薪の爆ぜる音。
佐助が味噌片を包む音。
伊三郎が帳面を開く音。
かやが縄を畳む音。
太助が自分の草履を確かめる音。
全部が、いつもより少し硬い。
信長様から命が下った。
美濃へ出す前に、四線を同日に小さく動かせ。
高畑は正式飯線として通常運用。
川道は細飯荷一便。
山裾は村が測る重し荷。
北尾根は動かず観察のみ。
大荷ではない。
戦ではない。
けれど、清洲蔵にとっては、美濃攻略前の最初の総合試験だった。
「試験っていうと、落ちる気がするんだよ」
権六はまだぶつぶつ言っている。
伊三郎が顔を上げた。
「落ちないための試験です」
「それがもう試験っぽい」
太助が荷紐を結びながら言った。
「権六さん、文句腹帳では何て分類します?」
「今のは、言葉への文句だな」
「新しい分類ですか」
「増やすな」
少し笑いが起きた。
だが、皆すぐ手元へ戻った。
今日は笑っている余裕が少ない。
四線が同時に動く。
前にも四つの腹が同時に鳴った日があった。
あの時は、知らせに追われた。
今日は違う。
こちらから、あえて同時に動かす。
問題が起きるかもしれないと分かっていて動かす。
それが試験だ。
弥助殿は、蔵の中央に立っていた。
床には飯線図が広げられている。
太い高畑線。
渡し場で結ばれた川道。
村水火板の前で止まる山裾。
結び止めたままの北尾根。
その横に、線帳と腹帳が並ぶ。
飯腹帳。
水腹帳。
火腹帳。
銭腹帳。
文句腹帳。
村腹帳。
連絡腹帳。
人足腹帳。
昔なら、帳面が増えすぎて倒れていた。
今は、増えた帳面をどう使うかの段階に入っている。
「役を確認する」
弥助殿の声で、蔵の中が静まった。
「高畑」
佐助が前へ出る。
「私が飯を見ます。確認足は仁吉。戻し役の札声出しも聞きます」
「川道」
かやが頷く。
「私と太助。細飯荷二包み。一本縄の待ち荷逃がしは、黄札時のみ。市松さんと喜助さんの文句を持ち帰ります」
「山裾」
きぬが静かに頭を下げる。
「私と作兵衛さん。重し荷のみ。飯ではありません。村の目の場として、とめ婆様たちに測ってもらいます」
「北尾根」
俺が答える。
「清洲からは入らず、茶屋へ確認だけ。女将から鳥、草履売り、白い枝、三つ石の変化を聞きます。動かない判断も含めて記録します」
「蔵」
伊三郎が筆を持った。
「全線の札を受け、線帳と腹帳へ分けます」
権六が文句腹帳を抱えた。
「文句の丸と点を見る。繰り返しなら根っこを探す」
弥助殿は頷いた。
「よい。今日は勝つ日ではない。崩れ方を見る日だ」
その言葉に、皆の顔が少し引き締まった。
崩れ方を見る。
それは嫌な言葉だ。
でも、正しい。
美濃へ本当に飯を出してから崩れるより、今、小さく崩れてくれたほうがいい。
最初に動いたのは高畑便だった。
正式線の飯は、いつも通り出す。
ただし、今日は「いつも通り」と言わない。
佐助が砦飯の包みを確かめる。
「砦十人包み、よし。見張り前飯、よし。常備飯補充、よし」
仁吉が続ける。
「水札写し、よし。戻し役確認札、よし」
太助が小さく笑った。
「よしが多いですね」
佐助が真面目に答える。
「よしと言わないと、よしではなくなります」
もう誰も笑わなかった。
その通りだからだ。
高畑便が出る。
次に川道組。
かやは一本縄を腰に巻き、空け札を布に包んだ。
太助は細飯荷を背負う。
「荷は軽いのに、今日は重い」
太助が言う。
「見られる重さ?」
俺が聞くと、太助は首を振った。
「今日は比べられる重さです。高畑も山裾も北尾根も動いてると思うと、自分の荷だけ失敗できない」
権六が文句腹帳へ手を伸ばす。
太助は諦めたように言った。
「書いてください」
権六は嬉しそうに書いた。
比べられる重さ。
山裾組も出る。
作兵衛が重し荷を背負い、きぬが村水火板の写しを持つ。
きぬは出る前に、俺へ小さく言った。
「今日は、清洲が試しているように見えないよう気をつけます」
「どういうことですか」
「山裾では、村が測る日です。清洲の総合試験だと思われると、村が試されているように見えてしまいます」
はっとした。
こちらにとっては総合試験。
だが、山裾にとっては、自分たちの暮らしを守る場だ。
清洲の都合を押しつけてはいけない。
「お願いします」
「はい」
最後に俺は茶屋へ向かう準備をした。
北尾根へは入らない。
それでも、草履の裏を見るための小布、泥を包む紙、茶屋への返事札を持つ。
飯ではない。
けれど、これも飯線の荷だった。
四つの組が出て、清洲蔵は一度静かになった。
だが、その静けさは長く続かない。
午前の早い時刻、高畑から最初の札が戻った。
佐助の字だ。
高畑、朝戻し実施。
札声出し、三人同時では詰まるため、一人声、二人返しへ変更。
飲み水よし――よし。
味噌よし――よし。
非常触るな――触らず。
兵一名、「言いやすい」と発言。
常備飯紐、乾き確認。
見張り前飯庇、仮設。半歩ずれなし。
伊三郎が読み終えると、権六が文句腹帳を開いた。
「高畑は、今日のところ戻ってるな」
「はい」
伊三郎が水腹帳へ印を入れる。
高畑、水札声出し、運用可。慣れ腐り対策、一歩有効。
次に川道から札が来た。
かやの字は少し急いでいる。
川道、青札後、黄札発生。
理由、上流草多し。
細飯荷二包み。一本縄使用。
客荷、箱一、布二、魚籠一。
清洲荷、客荷より前に出ず。
人の通り道、変化少。
市松文句、「今日は噛むほどではないが、縄を置く手つきが清洲っぽい」
喜助、「黄が長引く前に赤へ近づける判断、要練習」
太助、「縄にも手つきがある」
権六が最後の一文を見て吹き出した。
「太助、完全にこっち側に来たな」
「こっち側とは?」
伊三郎が聞く。
「文句を見つける側だ」
だが、笑っている場合ではない。
縄を置く手つきが清洲っぽい。
市松の文句は細かい。
しかし、これも根っこは「渡し場を清洲の場所にするな」だ。
権六が文句腹帳に丸を付けた。
「繰り返しだな」
伊三郎が頷く。
「一本縄そのものではなく、置く者の手つき。川道では、道具だけでなく動きも見られています」
次は山裾だった。
きぬからの札。
山裾、重し荷測り実施。
清洲は後ろ。村側が前。
おきよ、見せ結びを自分で開ける。
とめ婆様、「今日は村が測る日。清洲の試験ではない」と発言。
子ども遠見。目の絵の横に小さな線追加。
女衆一名、「見に来る者が増えると本当に見せ物になる」と文句。
とめ婆様、次回から見る人数を村で決めると判断。
匂い見本、前回と同程度。
本荷許可はまだ出ず。
蔵に残っていた皆が、同時に息を吐いた。
よかった。
だが、問題も出た。
見に来る者が増えると、本当に見せ物になる。
まさに針売りの言葉が狙ったところだ。
村の目の場を守るには、見る人数も村が決める必要がある。
伊三郎は村腹帳へ書く。
村の目の場、人数制限必要。見る者が増えすぎると見せ物化。村が見る人数を決める。
権六が丸を付けた。
「根は、暮らしを踏むな、だな」
「はい」
きぬの札には、最後に短い追記があった。
おきよ発言、「見るのは怖いけど、今日は前より怖くない」
それだけで、山裾は前へ進んでいると分かった。
最後に北尾根。
茶屋からの札は、昼前に届いた。
女将の字は相変わらず短い。
鳥、一羽。今日は飛ばず。
白い枝、変化なし。
三つ石、位置変わらず。
草履売り、来ず。
足の痛い客一名、古草履を茶屋で直す。
北の話、自然に出る。
清洲が来ない日も、北を見る者はいる。
茶屋は茶屋のまま。
何も起きなかった。
だが、何も起きないことも記録だ。
北尾根は、清洲が動かなかった日にどうなるかを見る線でもある。
作兵衛がいれば、こう言っただろう。
動かない跡も見る。
俺はそのまま伊三郎へ伝えた。
「動かない跡も見る、ですね」
伊三郎は書いた。
北尾根、清洲不動日。鳥飛ばず。草履売り来ず。茶屋自然会話のみ。動かない跡も見る。
昼過ぎ、四線の第一報がそろった。
大きな破綻はない。
ただし、小さな問題は出た。
高畑――札声出しの形は有効。
川道――一本縄は有効だが、置く手つきが清洲っぽい。
山裾――見る人数が増えると見せ物化する。
北尾根――何も起きない日の記録が必要。
清洲蔵は、それを腹帳に分けた。
飯。
水。
待ち場。
村。
文句。
観察。
人足。
伊三郎は、途中で筆を置いて言った。
「今日は、帳面が倒れていません」
権六が笑った。
「おまえが倒れてないのが一番だな」
「はい」
伊三郎も珍しく少し笑った。
夕方前、全員が戻ってきた。
佐助は疲れていたが、顔は明るい。
「高畑は、戻し役が思ったより受け入れられました」
「文句は?」
「あります。『毎朝は面倒』と」
権六がすぐ聞いた。
「一度だけか、繰り返しそうか」
「繰り返しそうです」
「なら、慣れ腐りの根だな」
川道組のかやと太助は、足元に泥を少し付けていた。
「川は?」
「細飯荷は渡せました。でも、市松さんがまた噛みました」
太助が答える。
「縄を置く手つきが清洲っぽいって」
「どう直す?」
俺が聞くと、かやが言った。
「次は喜助さんが最初に一本縄を置く。清洲は手伝うだけ。渡し場の動きにする」
山裾組のきぬと作兵衛も戻った。
「山裾は?」
きぬは静かに答えた。
「進みました。でも、本荷はまだです。とめ婆様は『急ぐなら今までの全部を戻す』と言っていました」
「強いですね」
「はい。だから守れています」
北尾根の俺の報告は短い。
「今日は動きなし。ただ、動きなしを記録しました」
作兵衛が頷いた。
「それでいい」
全員の報告が終わる頃、弥助殿が蔵へ来た。
飯線図の前に座り、四線の札を見た。
「破綻は」
「ありません」
俺は答えた。
「小さな失敗は」
「あります」
「言え」
俺は順に言った。
高畑、戻し役は有効。ただし面倒の文句あり。
川道、一本縄は有効。ただし置く手つきが清洲っぽい。次回から喜助主導へ。
山裾、村の目の場は有効。ただし見る人数が増えると見せ物化。村が人数を決める。
北尾根、動きなし。動きなしも記録対象。
弥助殿は静かに聞いた。
そして、言った。
「よい」
その一言で、蔵の空気が少し緩んだ。
「致命的な破綻はない。小さな失敗が見えた。総合試験としては、上出来だ」
誰も大声で喜ばなかった。
疲れていたし、まだ終わりではないからだ。
だが、皆の肩が少し下がった。
弥助殿は続けた。
「上様へ報告する」
「はい」
「美濃へ出す前に、もう一度整える。高畑は毎朝戻し。川道は喜助主導の一本縄。山裾は村が人数を決める。北尾根は動かぬ日の記録。これを入れろ」
「承知しました」
夜、清洲蔵では四つの飯が並んだ。
高畑の砦飯。
川道の厚味噌片湯。
山裾の火なし飯。
北尾根の歩き飯の欠片。
今日は、全員が少しずつ食べた。
権六が言った。
「今日の飯は、試験に落ちなかった味だな」
太助が笑う。
「試験って言うなって言ってたじゃないですか」
「終わったから言う」
かやが厚味噌片湯をすすりながら言った。
「でも、満点ではないね」
「満点なら怖い」
きぬが静かに言う。
「小さな失敗が見えたほうが、安心します」
佐助も頷いた。
「飯も同じです。試作で何も問題が出ないと、逆に怖いです」
伊三郎は帳面を閉じ、深く息を吐いた。
「今日は、帳面が役に立ちました」
権六が言う。
「文句腹帳もな」
「はい。もちろん」
権六は嬉しそうに粥をすすった。
俺は四つの飯を見た。
太い線。
細い線。
村の線。
見ているだけの線。
同じ日に小さく動かしても、清洲蔵は倒れなかった。
問題は出た。
でも、見えた。
見えたなら、直せる。
美濃へ出す前の最初の総合試験は、完璧ではなかった。
だからこそ、意味があった。




