第百二十一話 美濃へ向かう飯、最初の影
美濃へ向かう飯。
その言葉は、清洲蔵の中で何度も出ていた。
けれど、それはまだどこか遠い言葉だった。
高畑線を太くする。
川道を細く通す。
山裾を村の目で測る。
北尾根で敵の腹を見る。
その一つ一つは、美濃攻略のためだった。
だが、実際に軍勢の数が帳面に乗り始めると、言葉の重さが変わった。
朝、弥助殿が清洲蔵へ持ってきた板には、兵の数が書かれていた。
まだ決定ではない。
だが、想定としては十分すぎる重さだった。
先行する兵。
本隊に随う兵。
槍持ち。
弓。
馬廻り。
荷駄。
予備飯。
雨天時の水。
戻り飯。
撤退時の飯。
最後の一つを見た瞬間、蔵の中が静かになった。
「撤退時の飯……」
太助が小さく呟いた。
権六が腕を組む。
「嫌な言葉だな」
「でも、必要です」
伊三郎が答えた。
「勝って進む飯だけ考えると、戻る時に腹が切れます」
撤退。
口にするだけで、少し空気が冷える言葉だった。
勝つための飯を作る。
それは分かりやすい。
だが、戦は進むだけではない。
止まる。
待つ。
戻る。
散る。
負傷者を運ぶ。
雨で動けなくなる。
馬が足を痛める。
橋が詰まる。
兵が腹を空かせたまま夜を越す。
その全部に飯が要る。
弥助殿は、板を床に置いて言った。
「今日から、飯線は美濃の影を背負う」
誰も軽く返事をしなかった。
佐助は板を見つめたまま、少し顔を青くしている。
「これだけの数になると、今の味噌片では足りません」
「足りないか」
弥助殿が聞く。
「量もですが、種類もです。高畑の砦飯を増やせばいい、という話ではありません。槍持ち、馬付き、見張り、連絡足、負傷者、戻りの者で腹の使い方が違います」
佐助の声は震えていなかった。
重さは感じている。
でも、逃げてはいない。
「馬付きの者は、馬の世話で食べる時刻がずれます。連絡足は歩きながら食べるものが必要です。負傷者には硬い飯は向きません。雨天時は火を使えない場合があります。戻り飯は、温かさより配りやすさが大事です」
弥助殿は静かに頷いた。
「よい。飯を兵の数だけで見るな」
「はい」
かやは別の板を見ていた。
荷駄の想定。
米俵、味噌、乾燥菜、塩、湯釜、竹皮、縄、小台、空け札、濡れ戻り棚の仮道具。
川道の細飯荷で使ったものが、小さな形で美濃へつながっている。
「道具も足りません」
かやが言った。
「でも、増やしすぎると荷が太る」
「そうだ」
弥助殿が答える。
「だから選べ」
「選ぶなら、消える道具を増やしたいです」
「消える道具?」
「使った後に場所を取らない道具です。川道の一本縄みたいに、使う時だけ出すもの。小台も、組んだまま運ぶのではなく、半組みで。札も大きな板ではなく、現場で出す短札」
かやも変わった。
ただ便利な道具を作るだけではない。
道具が道を太くしてしまう怖さを知っている。
美濃へ向かう大きな飯線でも、その感覚が要る。
きぬは、負傷者用の飯の欄を見ていた。
「怪我人が出た時の布と飯は、分けて考えないほうがいいかもしれません」
「どういうことですか」
俺が聞くと、きぬは静かに答えた。
「血を止める布、体を拭く布、飯を包む布。これを混ぜると危ないです。でも、まったく別々にしすぎると、運ぶ者が迷います。見ればすぐ分かる印が要ります」
「印か」
「はい。ただし、怖すぎない印です。山裾の目の絵と同じで、見て分かるけれど、見た人を怯えさせないもの」
戦の影が、布にも落ちる。
今までは濡れ戻りや飯包みの話だった。
これからは、負傷者の布まで考えなければならない。
太助は人足の欄を見て、渋い顔をしていた。
「この人数、本当に動くんですか」
「動く」
作兵衛が答えた。
「動かすなら、足が先に泣きますね」
「どこが泣く」
「最初は草履。次に肩。次に腰。最後に腹です」
権六がすぐ文句腹帳を開いた。
「太助、いいぞ」
「もう逃げませんけど、褒められてる気もしませんね」
太助は板を指で叩いた。
「兵が増えると、飯荷だけじゃなくて、待つ人も増えます。川道で見たみたいに、荷を置く場所より人の流れが先に詰まるかもしれません」
「つまり」
「飯を配る場所も、ただ広ければいいわけじゃないです。人が流れる形を考えないと、飯の前で揉めます」
太助の文句は、もう立派な先読みになっていた。
弥助殿が少しだけ目を細める。
「よい。人足腹帳に入れろ」
伊三郎はすでに書いていた。
兵が増えると、飯より人の流れが詰まる。
権六は文句腹帳をめくりながら言った。
「文句も増えるな」
「増えます」
伊三郎が答える。
「飯が遅い。飯が少ない。水がぬるい。馬が先か人が先か。負傷者が先か見張りが先か。戻り飯は冷たい。雨の日に火がない。こういう文句が出ると思います」
「先に文句を想定するのか」
「はい」
「なら、文句腹帳も美濃用に分けるぞ」
権六が自分から言った。
皆が少し驚く。
権六は照れ隠しのように咳払いした。
「何だよ。上様に役だって言われたんだ。やるしかないだろ」
かやが笑った。
「権六さん、格好いい」
「やめろ。文句が鈍る」
蔵に少し笑いが戻った。
だが、すぐに弥助殿の声で引き締まる。
「清吉」
「はい」
「今の四線で足りるか」
答えに詰まった。
高畑。
川道。
山裾。
北尾根。
四つの線は、かなり育った。
総合試験もした。
小さな失敗も見えた。
信長様からも「線はできた」と言われた。
だが、この板に乗っている美濃の影は、明らかに大きい。
「足りません」
俺は正直に答えた。
蔵の空気が少し動いた。
弥助殿は表情を変えない。
「どこが」
「兵の数が増えると、高畑線だけでは太すぎて狙われます。川道は細いままなら補助にしかなりません。山裾は本荷すらまだ入れていません。北尾根は観察線で、飯を流せません」
「なら、失敗か」
「いいえ」
俺は飯線図を見た。
「だから複数線を作りました。一本で足りないことを知るために、四つを育てました。今の四線だけで全部を運ぶのではなく、美濃へ向かう大きな飯線を作るための腹が見えたのだと思います」
弥助殿の口元が、ほんの少し動いた。
「そうだ」
短い言葉だった。
でも、胸の奥に落ちた。
「四線は、美濃の全部を運ぶための完成線ではない。美濃へ出す飯の崩れ方を知るための腹だ。高畑で太い線の腐りを知った。川道で細い線の止まり方を知った。山裾で村の目を知った。北尾根で敵の見方を知った」
「はい」
「これを使って、美濃へ向かう本当の飯線を組む」
美濃へ向かう本当の飯線。
その言葉で、蔵の中がまた静かになった。
今までは、複数砦飯線を作っていると思っていた。
だが、それは前段だった。
美濃前哨のための、腹の稽古。
これからは、その稽古を実際の軍勢へつなぐ。
弥助殿は、板を一枚追加した。
そこには、こう書かれていた。
美濃前哨飯線、検討開始。
伊三郎が息を呑んだ。
「新しい線帳が必要です」
「作れ」
弥助殿は即答した。
「ただし、今ある線帳を捨てるな。高畑、川道、山裾、北尾根の腹を横に置け」
「はい」
「美濃飯線は、全部を新しく作るのではない。これまでの腹を大きな戦へ写す」
佐助が言った。
「飯も同じですね。新しい飯を作るのではなく、これまでの飯を兵の役へ写す」
「そうだ」
かやも頷く。
「道具も、今ある道具の使い方を広げる。でも、広げすぎて太らせない」
きぬが静かに続ける。
「村や茶屋を、軍の場所に変えすぎない」
太助も言った。
「人の流れを見る」
権六が文句腹帳を掲げる。
「文句を先に拾う」
それぞれが、自分の役を口にした。
その瞬間、美濃の影はただの恐ろしい板ではなく、少しだけ扱えるものに変わった。
午後には、蔵の床が新しい札で埋まった。
兵種別飯。
馬付き飯。
連絡足飯。
負傷者飯。
雨天飯。
待機飯。
戻り飯。
撤退飯。
予備水。
火なし配り。
声出し。
待ち場。
村目。
草履・足元。
文句予想。
太助がそれを見て、素直に言った。
「多すぎます」
「多いな」
俺も認めた。
権六が腕を組む。
「でも、これでも足りないんだろうな」
佐助が頷く。
「実際に動かせば、もっと出ます」
伊三郎は、少し青い顔をしながらも筆を止めなかった。
「だから、最初から全部決めるのではなく、崩れ方ごとに分けます」
「崩れ方?」
「はい。飯が足りない崩れ方。水が足りない崩れ方。人が詰まる崩れ方。敵に狙われる崩れ方。文句が消える崩れ方」
文句が消える崩れ方。
権六がすぐ反応した。
「それは大事だ」
「はい」
伊三郎は頷いた。
「美濃へ出ると、文句を言う余裕がない者も出ます。文句がないから安心ではなく、言えないだけかもしれません」
蔵の空気が少し重くなる。
戦の影が、また濃くなった。
夕方、信長様から短い返答が来た。
弥助殿が読み上げる。
腹を先に動かせ。
美濃へ米を出す前に、戻る米を考えよ。
進む飯だけでは、戦は持たぬ。
戻る米。
撤退飯。
嫌な言葉だ。
だが、信長様はそこを見ている。
進むことだけを考える者は、戻る時に崩れる。
戻れる線があるから、進める。
川道で止まれたこと。
山裾で入れなかったこと。
高畑で毎朝戻したこと。
北尾根で動かない日を記録したこと。
全部が、戻る飯につながっていた。
夜、清洲蔵では普通の飯が出た。
ただし、今日は少し量が少なかった。
佐助が試したのだ。
「待機飯の量です」
「足りないぞ」
権六がすぐ言った。
「はい。足りないと感じる量を確認しています」
「俺の腹を試験に使うな」
「文句腹帳に入れます」
「もう入れた」
伊三郎が答える。
権六は味噌汁をすすりながら、苦笑した。
「今日の飯は、美濃の影の味だな」
「どんな味ですか」
太助が聞く。
「まだ来てないのに、腹が先に重くなる味」
誰も笑わなかった。
その通りだった。
美濃は、まだ遠い。
だが、飯線にはもう影が差している。
兵の数。
馬。
雨。
負傷者。
戻り。
撤退。
これまでの小さな線が、大きな戦の腹へつながり始めた。
怖い。
だが、見ないほうがもっと怖い。
俺は飯線図の横に置かれた新しい板を見た。
美濃前哨飯線。
次の仕事は、もう始まっていた。




