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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百十話 村の目の場

 川道から戻った翌朝、清洲蔵にはまだ一本縄の話が残っていた。


 待ち荷逃がし。


 場所を囲わず、荷の背だけを示す低い縄。

 黄札の時だけ出し、終われば消す。

 空け札を戻せば、そこはまた普通の岸になる。


 川道には川道の答えが見え始めていた。


 だが、山裾には山裾の返事が待っている。


 針売りが言った。


 ――測る場は、清洲が村を集めて見せ物にしている場だ。

 ――測ると言いながら、村を従わせているだけだ。


 その言葉は、清洲蔵の中でも、しばらく嫌な匂いを残した。


 隠して来ると言われたから、村で測った。

 すると今度は、測ること自体が見せ物だと言われる。


 敵は、こちらの返事を踏み台にして次の噂を作る。


 青札を守れば、黄札を狙う。

 空籠を出せば、隠し荷と言う。

 村が測れば、見せ物と言う。


 伊三郎は朝から、山裾村線帳を開いていた。


「測る場の意味を、もう一度はっきりさせる必要があります」


「清洲が見せる場じゃなくて、村が見る場」


 かやが言った。


「はい」


 伊三郎が頷く。


「これまでは、清洲が『隠しません』と示すために荷を開きました。次は、村が『自分たちで見ます』という形を前に出すべきです」


 きぬが針を置いた。


「清洲が前に立つと、針売りの言葉に寄ってしまいますね」


「そうだな」


 作兵衛が腕を組む。


「清洲が荷を持ってきて、清洲が開けて、清洲が説明する。これだと、村は見せられている側になる」


「だから、村が先に立つ」


 かやが続けた。


「とめ婆様たちが最初に見る。清洲は後ろ。聞かれたら答える」


 太助が少し不安そうに言った。


「それ、清洲が後ろに下がりすぎても変じゃないですか?」


「変?」


「なんか、責任を村に押しつけてるみたいに見えません?」


 いい文句だった。


 いや、もう文句というより、ちゃんとした見方だ。


 清洲が前に出すぎれば、見せ物になる。

 清洲が下がりすぎれば、村に責任を押しつける形に見える。


 山裾は、本当に細い。


 権六が太助を見て、妙に誇らしげに頷いた。


「太助、おまえ、育ったな」


「何目線ですか」


「文句役の先輩として」


「弟子入りしてません」


 笑いは起きたが、太助の言葉は残った。


 伊三郎は書いた。


 清洲は前に出すぎない。下がりすぎない。村が見る場、清洲は答える場。


 弥助殿が蔵へ来ると、すぐに板を読んだ。


「よい」


「山裾へは、俺ときぬさん、かや、太助で行きます」


「作兵衛も行け」


「はい」


「ただし、兵の顔で行くな」


 それは、とめ婆様にも言われたことだった。


 怖い顔で来るな。


 山裾では、顔も荷だ。


 太助が小さく自分の頬を触った。


 弥助殿はそれを見て、少しだけ目を細めた。


「太助」


「はい」


「困った顔のままでよい」


「……それ、褒めてます?」


「山裾では役に立つ」


「なら、まあ……」


 太助は困った顔のまま頷いた。


 山裾へ持っていく荷は、前回と同じ重し入り荷だった。


 飯ではない。


 石と木片。

 見せ結び。

 匂い見本としての火なし飯は、前回よりさらに小さくした。

 村の水、火、石、薪は使わない。


 そして、今日はもう一つ。


 村水火板の写しに、新しい絵を足すための小さな墨と筆を持っていく。


 目の絵。


 おきよが描くのか、とめ婆様が描かせるのかは分からない。


 ただ、「測る場は村の目の場」という返事を形にするには、文字だけでは弱い気がした。


 茶屋へ寄ると、女将は話を聞いて、ふっと笑った。


「見せ物と言われたかい」


「はい」


「うまい嫌がらせだね。見ることが悪いことみたいに聞こえる」


「だから、村が見る場だと返したいんです」


「そうだね。見せられるのと、見るのは違う」


 女将は茶を出しながら言った。


「でも、見るのも疲れるよ。村の者に、見ろ見ろと押しつけるなよ」


「はい」


「見るってのは、責任も少し背負うからね」


 また、腹に残ることを言う。


 村が見る。


 それは力になる。


 だが、同時に負担にもなる。


 清洲が全部隠せば、村は不安になる。

 清洲が全部見せれば、村は見せ物にされる。

 村が見るなら、村は自分で判断する重さを持つ。


 その重さを、軽く扱ってはいけない。


 山裾の村へ着くと、糸干し場の横には、すでに人が集まっていた。


 村水火板の前には、とめ婆様が立っている。


 腕を組み、いつものように背は低いのに大きく見える。


 惣右衛門はその少し後ろ。


 おきよは板の端に墨を用意していた。


 女衆が数人。

 男衆が二人。

 子どもたちは、前回より少し離れている。


 とめ婆様が最初に言った。


「今日は、清洲は後ろだよ」


「はい」


 俺は頭を下げた。


「測る場は、村の目の場です。清洲は聞かれたことに答えます」


 とめ婆様は満足そうに頷いた。


「そう言えるなら、始めようかね」


 前回と違い、荷を最初に触ったのは清洲ではなかった。


 太助が荷を下ろす。


 そこから一歩下がる。


 かやも下がる。


 俺も下がる。


 荷の前に立ったのは、とめ婆様だった。


 その隣に、おきよ。


 惣右衛門は一歩後ろで、男衆と並ぶ。


 清洲はそのさらに後ろ。


 村が前。


 清洲が後ろ。


 その形だけで、場の意味が少し変わった。


 きぬが小声で言った。


「これだけで、ずいぶん違いますね」


「はい」


 とめ婆様が荷紐を見た。


「これは、前と同じ結びかい」


 かやが答えた。


「同じ見せ結びです。村の前でほどける形です」


「おきよ、見ておきな」


「はい」


 おきよは真剣な顔で荷紐を見た。


 かやが手を出そうとすると、とめ婆様が止めた。


「今日は私らがほどく」


 かやはすぐ手を引いた。


 おきよが少し戸惑いながら紐に触る。


「ここを引けばいいんですか」


 かやが後ろから答える。


「はい。そこを緩めて、こちらを引くと開きます」


 おきよの手は少し震えていた。


 だが、ほどけた。


 見せ結びが、村の手で開いた。


 中から、布で包んだ石と木片が見える。


 子どもたちが小さく声を上げた。


「石だ」


「本当に石だ」


 とめ婆様が子どもたちを振り返る。


「近づきすぎるな。見るなら、目で見な」


 おきよが石を一つ取り出した。


 重そうに両手で持つ。


「前と同じくらいです」


「同じかい」


 とめ婆様が聞く。


 おきよは少し考えた。


「たぶん。でも、前より怖くないです」


 その言葉に、俺は少し息を止めた。


 前より怖くない。


 それは大きい。


 荷が軽くなったわけではない。


 村が自分で開けたから、怖さが変わったのだ。


 惣右衛門も石を持った。


「たしかに、前と同じだな」


 男衆の一人も持つ。


「これなら、人足が運ぶ分には分かる。ただ、毎日は嫌だな」


 とめ婆様がすかさず言った。


「毎日はない。毎日なら、この場で断る」


 俺は後ろから答えた。


「毎日にはしません。山裾村線は、晴れ日の昼前、月に数度までの候補です」


「清洲が勝手に増やさないね」


「増やしません。増やす時は、村で測り直します」


 とめ婆様は頷いた。


「それも板に入れよう」


 おきよが筆を取った。


 だが、字を書く前に、少し迷った。


「何て書けばいいですか」


 惣右衛門が前に出ようとしたが、とめ婆様が止めた。


「まず、おきよの言葉で言ってみな」


 おきよは困った顔をした。


 太助の困り顔とは違う。


 真剣に、怖さと向き合っている顔だった。


「……増やす時は、また見る」


 短い。


 でも、強い。


 とめ婆様が頷いた。


「それでいい」


 惣右衛門が字を書いた。


 増やす時は、また見る。


 その横に、おきよが目の絵を描いた。


 二つの目。


 少し丸くて、子どもの絵のようでもある。


 だが、じっと荷を見ている目だった。


 子どもの一人が言った。


「目、怖い」


 おきよは慌てた。


「怖い?」


 とめ婆様が笑う。


「少しくらい怖くていい。水と火を守る目だからね」


 場に笑いが起きた。


 けれど、その笑いには芯があった。


 村水火板に、新しい印が加わった。


 目。


 測る場は、村の目の場。


 次に匂いを見る。


 今日は清洲が包みを開けない。


 おきよが火なし飯の見本を受け取り、とめ婆様の前で開いた。


 小さな握り飯。

 薄い味噌片。

 乾燥菜。


 匂いは弱い。


 子どもたちは少し鼻を動かしたが、寄ってこない。


 おきよが言った。


「これなら、前と同じくらいです」


 女衆の一人が頷く。


「飯の匂いはする。でも、台所を取られる感じではないね」


 いい言葉だった。


 台所を取られる感じではない。


 山裾で飯の匂いを見る時、そこが大事なのだ。


 飯があること自体が悪いのではない。


 外の飯が、村の台所を押しのける感じになるのが怖い。


 きぬが小さく俺に言った。


「この言葉、残したほうがいいです」


「はい」


 俺は後ろで書いた。


 飯の匂い、台所を取られる感じではない。


 次に、荷を背負う顔を見る。


 太助の出番だった。


 太助はすでに困った顔をしている。


 それがかえってよかった。


 とめ婆様が言った。


「太助、背負ってみな」


「はい」


 太助は荷を背負う。


 前より少し慣れている。


 だが、慣れすぎていない。


 おきよが桶を持って横を通る。


 前回より近づきすぎず、少し余裕を取って歩く。


「どうだい」


 とめ婆様が聞く。


 おきよは太助を見上げて言った。


「怖くないです。でも、急がれたら怖いです」


 太助がすぐ止まった。


「急ぎません」


 全員が笑った。


 おきよも笑った。


「それなら大丈夫です」


 とめ婆様は清洲側を見た。


「荷を背負う者は、急ぐな。山裾で急ぐ荷は、村の敵に見える」


「分かりました」


 作兵衛が答えた。


「人足にはそう教えます」


「同じ顔で来ること」


「はい」


「顔が変わる時は、先に言うこと」


「はい」


「怖い顔をするな」


 太助が小さく頷いた。


「はい」


 この辺りから、場の空気は少しずつ変わっていった。


 最初は緊張があった。


 針売りの「見せ物」という言葉が、皆の腹に少し残っていた。


 だが、村が前に立ち、村が紐をほどき、村が石を持ち、村が匂いを嗅ぎ、村が目の絵を描くうちに、その言葉は薄くなっていった。


 見せ物ではない。


 村が見ている。


 その形が、場そのものに出ていた。


 最後に、とめ婆様が聞いた。


「清洲」


「はい」


「今日の場は、どう見る」


 急に問われて、少し背筋が伸びた。


 俺は考えてから答えた。


「清洲が信用をもらう場ではなく、村が清洲を測る場です」


 とめ婆様は、少しだけ目を細めた。


「分かってるじゃないか」


「まだ、飯荷を入れる許しではありませんね」


「当たり前だよ」


 即答だった。


 少し笑いが起きる。


「今日は、見る場が村のものだと分かっただけだ。次に本当に飯を入れるかどうかは、また別」


「はい」


「でも、針売りにはこう言える」


 とめ婆様は村水火板を指した。


「見せ物じゃない。村の目だってね」


 おきよが板の目の絵を見た。


 それから、小さな声で言った。


「見るのは怖いです」


 場が静かになった。


 おきよは続けた。


「荷を見るのも、石を持つのも、清洲の人たちの前で言うのも、怖いです。でも、見ないほうがもっと怖いです。見ないまま噂だけ聞くほうが、もっと怖い」


 その言葉は、糸干し場の空気をまっすぐ貫いた。


 誰もすぐには喋らなかった。


 とめ婆様が、ゆっくり頷いた。


「そうだね」


 惣右衛門も、低く言った。


「見ないで任せるより、見て決めるほうがいい」


 きぬが後ろで静かに目を伏せた。


 かやも、何も言わずに板を見ていた。


 俺は、その言葉を小帳面に書いた。


 見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い。


 山裾村線の芯になる言葉だった。


 帰る前に、村水火板の前で確認をした。


 今日、新しく増えた文と絵。


 測る場は、村の目の場。

 増やす時は、また見る。

 目の絵。

 飯の匂いは、台所を取らない程度。

 急ぐ荷は入れない。

 顔が変わる時は先に言う。


 とめ婆様は最後に言った。


「針売りがまた来たら、板の前で言わせるよ」


「何をですか」


「見せ物だと思うなら、この目の前で言えってね」


 強い。


 それは強い返事だった。


 針売りの言葉は、こそこそと包み紙の裏や村の外で流れる。


 だが、村水火板の前で、とめ婆様たちの目の前で同じことを言えるか。


 たぶん、言いにくい。


 隠れた噂を、見える場へ引っ張り出す。


 山裾の村は、清洲が思っていた以上に強くなっていた。


 帰り道、太助は荷を背負っていなかった。


 石と木はまた清洲へ持ち帰るが、帰りは作兵衛が少し持った。


 太助はずっと顔を触っている。


「どうした?」


 俺が聞くと、太助は真面目に言った。


「急ぐ荷は村の敵に見えるって、結構きついですね」


「急ぎたくなるからな」


「はい。でも山裾では、急いだらそれだけで怖がられる」


 かやが言った。


「顔も歩き方も荷だね」


「荷が多いなあ」


 太助はため息をついた。


 でも、その顔は前より少し落ち着いていた。


 清洲蔵へ戻ると、報告は長くなった。


 伊三郎は村腹帳、飯腹帳、人足腹帳、文句腹帳を開き、分けて書いた。


 山裾、村の目の場。

 清洲は後ろ。村が前。

 村側が見せ結びをほどく。おきよ、開封。

 石と木、前回と同じ。村側確認。

 目の絵を村水火板へ追加。

 「増やす時は、また見る」追加。

 飯の匂い、台所を取られる感じではない。

 荷を背負う者は急がない。同じ顔。顔が変わる時は先に言う。

 「見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い」おきよ発言。

 とめ婆様、針売りには板の前で言わせると発言。

 本荷投入許可はまだ出ず。


 権六が最後を読んで言った。


「まだ出ないのか」


「出ません」


 俺は答えた。


「でも、前より近いです」


 きぬが静かに言った。


「近いけれど、急がないほうがいいです。今日の場で急いだら、全部が台無しになります」


 弥助殿は報告を聞き、しばらく黙っていた。


 そして、言った。


「山裾は、よい」


「本荷はまだ入れません」


「それでよい。村の目が育っている。ここで清洲が急げば、村の目を潰す」


「はい」


「おきよの言葉を残せ」


「見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い、ですね」


「そうだ。美濃へ出る時、この言葉が要る」


 なぜ美濃へ出る時に要るのか。


 その場では分からなかった。


 だが、弥助殿はそれ以上言わなかった。


 夜、清洲蔵では山裾用の火なし飯を食べた。


 いつものように小さい。


 匂いは弱い。


 でも、今日の飯は少し違って感じた。


 権六が噛んで言った。


「今日の飯は、見られてる味だな」


「嫌な味か?」


「いや。見られてるけど、責められてるんじゃない。測られてる味」


 かやが笑った。


「また細かい」


「文句役だからな」


 太助が火なし飯を見て言った。


「見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い、か」


 きぬが頷く。


「村だけの話ではないですね」


 伊三郎も筆を置いて言った。


「帳面も同じです。見るのは怖いです。失敗が見えるから。でも、見ないほうがもっと怖い」


 佐助は飯を見つめていた。


「飯も同じです。匂いが強すぎたら怖い。でも、確かめないまま出すほうがもっと怖い」


 俺は黙って頷いた。


 山裾の村は、清洲に従ったのではない。


 清洲を見た。


 測った。


 そのうえで、まだ本荷を入れないと決めた。


 それでいい。


 山裾村線は、村が目を持つことで強くなっている。


 清洲が信用を与えるのではない。


 村が清洲を測る。


 その形ができた時、針売りの「見せ物」という言葉は、少し力を失った。


 まだ終わりではない。


 だが、山裾は確かに前へ進んだ。

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