第百十話 村の目の場
川道から戻った翌朝、清洲蔵にはまだ一本縄の話が残っていた。
待ち荷逃がし。
場所を囲わず、荷の背だけを示す低い縄。
黄札の時だけ出し、終われば消す。
空け札を戻せば、そこはまた普通の岸になる。
川道には川道の答えが見え始めていた。
だが、山裾には山裾の返事が待っている。
針売りが言った。
――測る場は、清洲が村を集めて見せ物にしている場だ。
――測ると言いながら、村を従わせているだけだ。
その言葉は、清洲蔵の中でも、しばらく嫌な匂いを残した。
隠して来ると言われたから、村で測った。
すると今度は、測ること自体が見せ物だと言われる。
敵は、こちらの返事を踏み台にして次の噂を作る。
青札を守れば、黄札を狙う。
空籠を出せば、隠し荷と言う。
村が測れば、見せ物と言う。
伊三郎は朝から、山裾村線帳を開いていた。
「測る場の意味を、もう一度はっきりさせる必要があります」
「清洲が見せる場じゃなくて、村が見る場」
かやが言った。
「はい」
伊三郎が頷く。
「これまでは、清洲が『隠しません』と示すために荷を開きました。次は、村が『自分たちで見ます』という形を前に出すべきです」
きぬが針を置いた。
「清洲が前に立つと、針売りの言葉に寄ってしまいますね」
「そうだな」
作兵衛が腕を組む。
「清洲が荷を持ってきて、清洲が開けて、清洲が説明する。これだと、村は見せられている側になる」
「だから、村が先に立つ」
かやが続けた。
「とめ婆様たちが最初に見る。清洲は後ろ。聞かれたら答える」
太助が少し不安そうに言った。
「それ、清洲が後ろに下がりすぎても変じゃないですか?」
「変?」
「なんか、責任を村に押しつけてるみたいに見えません?」
いい文句だった。
いや、もう文句というより、ちゃんとした見方だ。
清洲が前に出すぎれば、見せ物になる。
清洲が下がりすぎれば、村に責任を押しつける形に見える。
山裾は、本当に細い。
権六が太助を見て、妙に誇らしげに頷いた。
「太助、おまえ、育ったな」
「何目線ですか」
「文句役の先輩として」
「弟子入りしてません」
笑いは起きたが、太助の言葉は残った。
伊三郎は書いた。
清洲は前に出すぎない。下がりすぎない。村が見る場、清洲は答える場。
弥助殿が蔵へ来ると、すぐに板を読んだ。
「よい」
「山裾へは、俺ときぬさん、かや、太助で行きます」
「作兵衛も行け」
「はい」
「ただし、兵の顔で行くな」
それは、とめ婆様にも言われたことだった。
怖い顔で来るな。
山裾では、顔も荷だ。
太助が小さく自分の頬を触った。
弥助殿はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「太助」
「はい」
「困った顔のままでよい」
「……それ、褒めてます?」
「山裾では役に立つ」
「なら、まあ……」
太助は困った顔のまま頷いた。
山裾へ持っていく荷は、前回と同じ重し入り荷だった。
飯ではない。
石と木片。
見せ結び。
匂い見本としての火なし飯は、前回よりさらに小さくした。
村の水、火、石、薪は使わない。
そして、今日はもう一つ。
村水火板の写しに、新しい絵を足すための小さな墨と筆を持っていく。
目の絵。
おきよが描くのか、とめ婆様が描かせるのかは分からない。
ただ、「測る場は村の目の場」という返事を形にするには、文字だけでは弱い気がした。
茶屋へ寄ると、女将は話を聞いて、ふっと笑った。
「見せ物と言われたかい」
「はい」
「うまい嫌がらせだね。見ることが悪いことみたいに聞こえる」
「だから、村が見る場だと返したいんです」
「そうだね。見せられるのと、見るのは違う」
女将は茶を出しながら言った。
「でも、見るのも疲れるよ。村の者に、見ろ見ろと押しつけるなよ」
「はい」
「見るってのは、責任も少し背負うからね」
また、腹に残ることを言う。
村が見る。
それは力になる。
だが、同時に負担にもなる。
清洲が全部隠せば、村は不安になる。
清洲が全部見せれば、村は見せ物にされる。
村が見るなら、村は自分で判断する重さを持つ。
その重さを、軽く扱ってはいけない。
山裾の村へ着くと、糸干し場の横には、すでに人が集まっていた。
村水火板の前には、とめ婆様が立っている。
腕を組み、いつものように背は低いのに大きく見える。
惣右衛門はその少し後ろ。
おきよは板の端に墨を用意していた。
女衆が数人。
男衆が二人。
子どもたちは、前回より少し離れている。
とめ婆様が最初に言った。
「今日は、清洲は後ろだよ」
「はい」
俺は頭を下げた。
「測る場は、村の目の場です。清洲は聞かれたことに答えます」
とめ婆様は満足そうに頷いた。
「そう言えるなら、始めようかね」
前回と違い、荷を最初に触ったのは清洲ではなかった。
太助が荷を下ろす。
そこから一歩下がる。
かやも下がる。
俺も下がる。
荷の前に立ったのは、とめ婆様だった。
その隣に、おきよ。
惣右衛門は一歩後ろで、男衆と並ぶ。
清洲はそのさらに後ろ。
村が前。
清洲が後ろ。
その形だけで、場の意味が少し変わった。
きぬが小声で言った。
「これだけで、ずいぶん違いますね」
「はい」
とめ婆様が荷紐を見た。
「これは、前と同じ結びかい」
かやが答えた。
「同じ見せ結びです。村の前でほどける形です」
「おきよ、見ておきな」
「はい」
おきよは真剣な顔で荷紐を見た。
かやが手を出そうとすると、とめ婆様が止めた。
「今日は私らがほどく」
かやはすぐ手を引いた。
おきよが少し戸惑いながら紐に触る。
「ここを引けばいいんですか」
かやが後ろから答える。
「はい。そこを緩めて、こちらを引くと開きます」
おきよの手は少し震えていた。
だが、ほどけた。
見せ結びが、村の手で開いた。
中から、布で包んだ石と木片が見える。
子どもたちが小さく声を上げた。
「石だ」
「本当に石だ」
とめ婆様が子どもたちを振り返る。
「近づきすぎるな。見るなら、目で見な」
おきよが石を一つ取り出した。
重そうに両手で持つ。
「前と同じくらいです」
「同じかい」
とめ婆様が聞く。
おきよは少し考えた。
「たぶん。でも、前より怖くないです」
その言葉に、俺は少し息を止めた。
前より怖くない。
それは大きい。
荷が軽くなったわけではない。
村が自分で開けたから、怖さが変わったのだ。
惣右衛門も石を持った。
「たしかに、前と同じだな」
男衆の一人も持つ。
「これなら、人足が運ぶ分には分かる。ただ、毎日は嫌だな」
とめ婆様がすかさず言った。
「毎日はない。毎日なら、この場で断る」
俺は後ろから答えた。
「毎日にはしません。山裾村線は、晴れ日の昼前、月に数度までの候補です」
「清洲が勝手に増やさないね」
「増やしません。増やす時は、村で測り直します」
とめ婆様は頷いた。
「それも板に入れよう」
おきよが筆を取った。
だが、字を書く前に、少し迷った。
「何て書けばいいですか」
惣右衛門が前に出ようとしたが、とめ婆様が止めた。
「まず、おきよの言葉で言ってみな」
おきよは困った顔をした。
太助の困り顔とは違う。
真剣に、怖さと向き合っている顔だった。
「……増やす時は、また見る」
短い。
でも、強い。
とめ婆様が頷いた。
「それでいい」
惣右衛門が字を書いた。
増やす時は、また見る。
その横に、おきよが目の絵を描いた。
二つの目。
少し丸くて、子どもの絵のようでもある。
だが、じっと荷を見ている目だった。
子どもの一人が言った。
「目、怖い」
おきよは慌てた。
「怖い?」
とめ婆様が笑う。
「少しくらい怖くていい。水と火を守る目だからね」
場に笑いが起きた。
けれど、その笑いには芯があった。
村水火板に、新しい印が加わった。
目。
測る場は、村の目の場。
次に匂いを見る。
今日は清洲が包みを開けない。
おきよが火なし飯の見本を受け取り、とめ婆様の前で開いた。
小さな握り飯。
薄い味噌片。
乾燥菜。
匂いは弱い。
子どもたちは少し鼻を動かしたが、寄ってこない。
おきよが言った。
「これなら、前と同じくらいです」
女衆の一人が頷く。
「飯の匂いはする。でも、台所を取られる感じではないね」
いい言葉だった。
台所を取られる感じではない。
山裾で飯の匂いを見る時、そこが大事なのだ。
飯があること自体が悪いのではない。
外の飯が、村の台所を押しのける感じになるのが怖い。
きぬが小さく俺に言った。
「この言葉、残したほうがいいです」
「はい」
俺は後ろで書いた。
飯の匂い、台所を取られる感じではない。
次に、荷を背負う顔を見る。
太助の出番だった。
太助はすでに困った顔をしている。
それがかえってよかった。
とめ婆様が言った。
「太助、背負ってみな」
「はい」
太助は荷を背負う。
前より少し慣れている。
だが、慣れすぎていない。
おきよが桶を持って横を通る。
前回より近づきすぎず、少し余裕を取って歩く。
「どうだい」
とめ婆様が聞く。
おきよは太助を見上げて言った。
「怖くないです。でも、急がれたら怖いです」
太助がすぐ止まった。
「急ぎません」
全員が笑った。
おきよも笑った。
「それなら大丈夫です」
とめ婆様は清洲側を見た。
「荷を背負う者は、急ぐな。山裾で急ぐ荷は、村の敵に見える」
「分かりました」
作兵衛が答えた。
「人足にはそう教えます」
「同じ顔で来ること」
「はい」
「顔が変わる時は、先に言うこと」
「はい」
「怖い顔をするな」
太助が小さく頷いた。
「はい」
この辺りから、場の空気は少しずつ変わっていった。
最初は緊張があった。
針売りの「見せ物」という言葉が、皆の腹に少し残っていた。
だが、村が前に立ち、村が紐をほどき、村が石を持ち、村が匂いを嗅ぎ、村が目の絵を描くうちに、その言葉は薄くなっていった。
見せ物ではない。
村が見ている。
その形が、場そのものに出ていた。
最後に、とめ婆様が聞いた。
「清洲」
「はい」
「今日の場は、どう見る」
急に問われて、少し背筋が伸びた。
俺は考えてから答えた。
「清洲が信用をもらう場ではなく、村が清洲を測る場です」
とめ婆様は、少しだけ目を細めた。
「分かってるじゃないか」
「まだ、飯荷を入れる許しではありませんね」
「当たり前だよ」
即答だった。
少し笑いが起きる。
「今日は、見る場が村のものだと分かっただけだ。次に本当に飯を入れるかどうかは、また別」
「はい」
「でも、針売りにはこう言える」
とめ婆様は村水火板を指した。
「見せ物じゃない。村の目だってね」
おきよが板の目の絵を見た。
それから、小さな声で言った。
「見るのは怖いです」
場が静かになった。
おきよは続けた。
「荷を見るのも、石を持つのも、清洲の人たちの前で言うのも、怖いです。でも、見ないほうがもっと怖いです。見ないまま噂だけ聞くほうが、もっと怖い」
その言葉は、糸干し場の空気をまっすぐ貫いた。
誰もすぐには喋らなかった。
とめ婆様が、ゆっくり頷いた。
「そうだね」
惣右衛門も、低く言った。
「見ないで任せるより、見て決めるほうがいい」
きぬが後ろで静かに目を伏せた。
かやも、何も言わずに板を見ていた。
俺は、その言葉を小帳面に書いた。
見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い。
山裾村線の芯になる言葉だった。
帰る前に、村水火板の前で確認をした。
今日、新しく増えた文と絵。
測る場は、村の目の場。
増やす時は、また見る。
目の絵。
飯の匂いは、台所を取らない程度。
急ぐ荷は入れない。
顔が変わる時は先に言う。
とめ婆様は最後に言った。
「針売りがまた来たら、板の前で言わせるよ」
「何をですか」
「見せ物だと思うなら、この目の前で言えってね」
強い。
それは強い返事だった。
針売りの言葉は、こそこそと包み紙の裏や村の外で流れる。
だが、村水火板の前で、とめ婆様たちの目の前で同じことを言えるか。
たぶん、言いにくい。
隠れた噂を、見える場へ引っ張り出す。
山裾の村は、清洲が思っていた以上に強くなっていた。
帰り道、太助は荷を背負っていなかった。
石と木はまた清洲へ持ち帰るが、帰りは作兵衛が少し持った。
太助はずっと顔を触っている。
「どうした?」
俺が聞くと、太助は真面目に言った。
「急ぐ荷は村の敵に見えるって、結構きついですね」
「急ぎたくなるからな」
「はい。でも山裾では、急いだらそれだけで怖がられる」
かやが言った。
「顔も歩き方も荷だね」
「荷が多いなあ」
太助はため息をついた。
でも、その顔は前より少し落ち着いていた。
清洲蔵へ戻ると、報告は長くなった。
伊三郎は村腹帳、飯腹帳、人足腹帳、文句腹帳を開き、分けて書いた。
山裾、村の目の場。
清洲は後ろ。村が前。
村側が見せ結びをほどく。おきよ、開封。
石と木、前回と同じ。村側確認。
目の絵を村水火板へ追加。
「増やす時は、また見る」追加。
飯の匂い、台所を取られる感じではない。
荷を背負う者は急がない。同じ顔。顔が変わる時は先に言う。
「見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い」おきよ発言。
とめ婆様、針売りには板の前で言わせると発言。
本荷投入許可はまだ出ず。
権六が最後を読んで言った。
「まだ出ないのか」
「出ません」
俺は答えた。
「でも、前より近いです」
きぬが静かに言った。
「近いけれど、急がないほうがいいです。今日の場で急いだら、全部が台無しになります」
弥助殿は報告を聞き、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「山裾は、よい」
「本荷はまだ入れません」
「それでよい。村の目が育っている。ここで清洲が急げば、村の目を潰す」
「はい」
「おきよの言葉を残せ」
「見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い、ですね」
「そうだ。美濃へ出る時、この言葉が要る」
なぜ美濃へ出る時に要るのか。
その場では分からなかった。
だが、弥助殿はそれ以上言わなかった。
夜、清洲蔵では山裾用の火なし飯を食べた。
いつものように小さい。
匂いは弱い。
でも、今日の飯は少し違って感じた。
権六が噛んで言った。
「今日の飯は、見られてる味だな」
「嫌な味か?」
「いや。見られてるけど、責められてるんじゃない。測られてる味」
かやが笑った。
「また細かい」
「文句役だからな」
太助が火なし飯を見て言った。
「見るのは怖い。見ないほうがもっと怖い、か」
きぬが頷く。
「村だけの話ではないですね」
伊三郎も筆を置いて言った。
「帳面も同じです。見るのは怖いです。失敗が見えるから。でも、見ないほうがもっと怖い」
佐助は飯を見つめていた。
「飯も同じです。匂いが強すぎたら怖い。でも、確かめないまま出すほうがもっと怖い」
俺は黙って頷いた。
山裾の村は、清洲に従ったのではない。
清洲を見た。
測った。
そのうえで、まだ本荷を入れないと決めた。
それでいい。
山裾村線は、村が目を持つことで強くなっている。
清洲が信用を与えるのではない。
村が清洲を測る。
その形ができた時、針売りの「見せ物」という言葉は、少し力を失った。
まだ終わりではない。
だが、山裾は確かに前へ進んだ。




