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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百九話 市松、細飯荷にまた噛みつく

 高畑から戻った翌朝、清洲蔵ではまだ「戻し役」と「札声出し」の話が続いていた。


 飲み水よし。

 味噌よし。

 非常触るな。


 太助がその言葉を妙に気に入り、朝から何度も口にしていた。


「飲み水よし。味噌よし。非常触るな」


「太助、それ高畑の井戸番の声だから」


 かやが言うと、太助は肩をすくめた。


「分かってるけど、言いやすいんですよ。正式線って感じがする」


 権六が横で飯を噛みながら言った。


「正式線って感じか? 俺には『触るな』だけ妙に強く聞こえる」


「非常用ですから」


 伊三郎は真面目に答えた。


「非常用水は、触らないことを声に出すのが大事です」


「じゃあ俺も文句腹帳に触る時は言うか。文句よし、愚痴よし、余計な一言触るな」


「権六、それ最後が一番無理だよ」


 かやの一言で、蔵に笑いが起きた。


 笑いはあった。


 けれど、仕事は止まらない。


 今日は川道だ。


 待ち荷逃がしを、清洲荷ありで再び試す。


 前回は、清洲荷を端に置きすぎた。


 遠慮のつもりだった。


 だが、市松に言われた。


 端に寄りすぎて、逆に渡しが遅れる。


 遠慮が邪魔になる。


 その文句は、痛かった。


 そして、正しかった。


 川道の細飯荷は、客の邪魔をしてはいけない。


 けれど、邪魔をしないよう端へ退きすぎると、次に動く時に遅れる。


 遅れれば、岸が詰まる。


 岸が詰まれば、舟より先に渡し場が揉める。


 かやは朝から、渡し場の地面を模した板の上で小さな荷札を動かしていた。


 布荷。

 箱荷。

 魚籠。

 清洲細飯荷。

 人の通り道。

 舟引き縄。

 喜助の小屋。


 まるで子どもの遊びのように見える。


 だが、顔は真剣だった。


「清洲荷を一番端にすると、次に乗せる時に人の流れを横切る」


「端の一つ手前なら?」


 俺が聞くと、かやは清洲荷の札を少し動かした。


「乗せやすくはなる。でも、市松さんの布と近くなる」


「市松さん、嫌がるな」


「絶対言うね。『味噌臭い荷を布に寄せるな』って」


 佐助が少し傷ついた顔をした。


「川道用の厚味噌片は匂いを抑えています」


「うん。でも、市松さんは言う」


「言いますね」


 佐助もすぐ認めた。


 作兵衛は板の上の人形を見て言った。


「人の流れを変えないことだな」


「荷じゃなくて?」


「荷を置くと、人が避ける。人が避けると、新しい道ができる。新しい道ができると、そこを通れと言われる。そうなると渡し場が狭くなる」


 高畑では半歩が腐りだった。


 川道では、草を一度踏むことが腐りになる。


 同じ「慣れ」でも、道ごとに形が違う。


 弥助殿は出発前に言った。


「今日は市松の文句を聞け」


「はい」


「だが、市松に決めさせるな」


「文句は聞くが、決めるのは喜助殿と清洲、ということですか」


「違う。川だ」


 弥助殿は短く言った。


「最後に決めるのは川だ。喜助は川を見る。市松は客を見る。清洲は飯を見る。三つを合わせろ」


「はい」


「どれか一つが勝つと、川道は閉じる」


 重い言葉だった。


 川道へ向かう荷は、細飯荷二包み。


 厚味噌片。

 小さな握り飯。

 乾燥菜。

 濡れ戻り用の空包み。


 それに待ち縄、空け札、無印敷き。


 太助が荷を背負いながら言った。


「今日は荷より、縄のほうが気になる」


「文句としては?」


 作兵衛が聞く。


「細飯荷なのに、足元のほうが重い」


「いいな」


「またか……」


 もう太助も諦めている。


 茶屋へ寄ると、女将は待ち縄を見てすぐに言った。


「昨日より縄が少し柔らかいね」


「分かりますか」


 かやが少し嬉しそうにする。


「分かるよ。昨日の縄は、まだ少し『ここから先は駄目』って顔をしてた。今日のは『荷だけちょっとこっち』って顔だ」


「縄にも顔があるんですか」


 太助が聞くと、女将は当然のように答えた。


「あるよ。人が作るものだからね」


 山裾では顔も荷だった。


 川道では縄にも顔があるらしい。


 飯線は、こちらが思うよりずっと人臭い。


 川道に着くと、喜助は舟の水を掻き出していた。


 市松はすでにいた。


 布包みを二つ持っている。


 魚籠の男もいる。


 若い商人もいる。


 そして、向こう岸には農夫らしい人影が一人。


 今日は最初から、渡し場が混む日だった。


 市松は俺たちを見るなり言った。


「今日は端に寄りすぎるなよ」


「分かっています」


「分かってる奴ほど、別のところでやらかす」


「信頼がないですね」


「信頼してるから見に来てるんだ」


 市松は真顔でそう言った。


 一瞬、返事に詰まった。


 文句を言うためだけではない。


 見に来ている。


 それは、川道を守る目でもある。


 喜助が川を見た。


 水は悪くない。


 だが、上流から細い草がいくつか流れている。


「最初は青だ」


 喜助が青札を上げた。


「向こう岸の客を渡す」


 青は清洲の青ではない。


 それをもう誰も大声で言わなかった。


 だが、青札で普通の客が渡る。


 その事実が、一番強い。


 農夫を渡した後、喜助は再び川を見た。


「黄に近い青だな」


「何ですか、それ」


 太助が思わず聞く。


「渡れるが、長くは眺めない。細飯荷、二包みだけならいける。待ち荷逃がしは準備しろ」


 川道では、青と黄の間にも腹がある。


 札は三つでも、川はもっと多い。


 待ち縄を出す。


 今日は清洲荷あり。


 かやはまず空け札を少し脇へ動かし、低い縄を置いた。


 張るというより、地面に沿わせる。


 偉そうではない縄。


 その内側に無印の敷き。


 配置は前回から変えた。


 中央に箱荷と布荷。

 風下に魚籠。

 清洲細飯荷は、一番端ではなく、端の一つ手前。


 その外側を人の回り道として残す。


 市松がじっと見ている。


「どうでしょう」


 俺が聞くと、市松はすぐ答えなかった。


 布包みを実際に置く。


 若い商人が箱を置く。


 魚籠の男が風下へ置く。


 太助が清洲細飯荷を端の一つ手前へ置く。


 人が通る。


 農夫が一人、荷の外側を回る。


 草を少し踏む。


 市松の眉が動いた。


「惜しいな」


「どこがですか」


「清洲荷の位置は昨日よりいい。端に寄りすぎてない。だが、人の歩き方が変わってる」


 来た。


 今日の文句だ。


「どう変わっていますか」


「普段なら、喜助の小屋の前をまっすぐ通る。今は、清洲荷を避けて外へ回る。外の草を踏む。今日だけならいい。明日もやれば、そこが道になる」


 喜助も頷いた。


「俺もそれが嫌だ。草が踏まれると、次からそこを通る奴が増える。渡し場が広がったように見えて、実は散らかる」


「散らかる」


「そうだ。岸が散る」


 喜助らしい言い方だった。


 かやはすぐ縄を少し内側へ動かした。


 だが、今度は箱荷と清洲荷が近くなる。


 若い商人が顔をしかめた。


「箱に匂いが移りませんか」


 佐助がいないのが惜しい。


 だが、答えは分かる。


「移らないよう包んでいます。ただ、不安なら少し離します」


 市松が言う。


「不安と言った時点で、もう離せ」


「はい」


 清洲荷を少し後ろへ。


 すると、今度は渡す時に少し遠い。


 太助が実際に背負う。


 清洲荷を持ち上げ、舟へ向かう。


 若い商人の箱を避け、市松の布を避け、魚籠を避ける。


 一歩、足が止まる。


「今、止まったな」


 市松が即座に言った。


「止まりました」


 太助は正直に認める。


「なぜ」


「どれを踏んじゃ駄目か一瞬迷いました」


「それだ」


 市松は俺を見る。


「清洲荷の置き場が悪いと、人足が荷の間で迷う。迷った一拍で、舟が遅れる。舟が遅れれば、客が待つ」


 細かい。


 だが、正しい。


 かやが地面を見た。


「清洲荷を後ろへ置くのは駄目。端すぎるのも駄目。布と箱に近すぎるのも駄目。魚籠は風下……」


「全部駄目じゃないですか」


 太助が言うと、喜助がぼそっと返した。


「川道はそういう場所だ」


 かやはしばらく黙っていたが、ふと待ち縄を一本だけにした。


 囲う形をやめる。


 荷を囲わず、一本の縄を目印として置く。


「これは?」


 市松が聞く。


「荷を囲うから、人が避ける。だったら、囲わない。縄は置き場の背だけ示す。荷は縄の川側に置かず、岸側に寄せる。人はいつもの道を通る」


 喜助が目を細める。


「舟引き縄は?」


「触らない位置。清洲荷は、縄の内側ではなく、縄に沿わせるだけ。持ち上げる時に迷わないよう、清洲荷は一番舟寄り。ただし客荷より前へ出ない」


 少し難しい。


 だが、試す価値はあった。


 かやが配置を変える。


 一本縄。


 囲いではなく、背骨のように低く置く。


 客荷は縄の岸側。

 魚籠は風下端。

 清洲荷は舟寄りだが、縄より前へ出ない。

 人の通り道は、いつもの小屋前を保つ。


 農夫にもう一度歩いてもらう。


 今度は草を踏まない。


 いつもの道を通れる。


 太助が清洲荷を持つ。


 迷わず持ち上げられる。


 市松の布にも近づきすぎない。


 魚籠の匂いも避けられる。


 喜助が一言。


「これだな」


 市松は渋い顔をした。


「昨日よりいい」


「噛むところは?」


 俺が聞くと、市松は俺を睨んだ。


「噛まれたいのか」


「いえ、先に聞いておきたいだけです」


「……縄が低すぎる。夕方は見えない。昼だけならいい」


 やはり出た。


 でも、それは前回も分かっていたことだ。


 かやが頷く。


「夕方は小枝札を立てるか、使わない。今日は昼運用として記録」


「あと、雨の日は駄目だ」


 喜助が言った。


「草が濡れると、一本縄じゃ荷が滑る」


「雨天不可」


「川道で雨天不可って、使える日が減りますね」


 太助が言うと、喜助は当たり前のように答えた。


「川だからな」


 市松が笑った。


「いい返しだ」


 ようやく、待ち荷逃がしの形が一つ見えた。


 囲わない。


 場所を取らない。


 一本縄で荷の背を示す。


 人の通り道を変えない。


 清洲荷は舟寄りだが、客荷より前に出ない。


 黄札時だけ使う。


 終われば外し、空け札へ戻す。


 実際に黄札が出た。


 水が少し動いたためだ。


 喜助が黄札を掲げる。


「黄。待て」


 待ち荷逃がしを一本縄で設置する。


 客荷が置かれる。


 清洲細飯荷も置かれる。


 人の通り道は変わらない。


 しばらく待つ。


 市松は腕を組んでずっと見ている。


「どうですか」


 かやが聞くと、市松は低く答えた。


「腹立つくらい、前よりましだ」


「それは褒めていますか」


「半分な」


 喜助も言った。


「岸が散ってない。これなら黄札が少し長くても、前よりましだ」


「赤への切り替えは?」


「荷が増えたら赤。人が増えて通り道が詰まったら赤。水が悪くなっても赤」


「川だけでなく、岸も見て赤」


「そうだ」


 赤は川の戸締まり。


 そして岸の戸締まりでもある。


 その考えが、喜助の中でも固まってきていた。


 黄札が解け、青札に戻る。


 まず若い商人の箱。


 次に市松の布。


 魚籠。


 最後に清洲細飯荷。


 細飯荷は、客の後ろ。


 だが、迷わず動けた。


 渡しは遅れなかった。


 向こう岸へ荷を渡し、湯は作らず、すぐ戻る。


 戻った時、岸には一本縄はなかった。


 敷き布も畳まれ、空け札だけが残っている。


 空け。


 ここは、普段は空けておく。


 市松がその札を見て言った。


「この空け札、地味に効くな」


「地味に?」


「場所を作ってないって分かる。使った後に消えるのもいい」


 喜助も頷いた。


「残る場所は揉める。消える場所はまだ許せる」


 川道の待ち荷逃がしは、少しだけ形になった。


 ただし、市松は最後にきっちり噛みついた。


「清洲、調子に乗るなよ」


「はい」


「今日うまくいったからって、荷を三包みに増やすな」


「増やしません」


「一本縄も、いつの間にか二本になるなよ」


「しません」


「空け札の横に清洲の札を足すなよ」


「足しません」


「よし。今日はこれくらいで許す」


 太助が小声で言った。


「許された気がしない」


「それが市松さんの許すだよ」


 かやが笑った。


 帰り道、太助は珍しく自分から言った。


「今日の文句、あります」


「何だ?」


「遠慮しすぎると邪魔になる。囲いすぎると道が変わる。細飯荷は、細いだけじゃなくて、形が消えないと駄目」


 俺は少し驚いた。


 太助の言葉が、もう文句というより整理になっている。


 作兵衛も頷いた。


「よく見てたな」


「見てないと、市松さんに噛まれるので」


「それはある」


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎は報告を聞きながら、線帳と文句腹帳に分けて書いた。


 川道、清洲荷あり待ち荷逃がし再試験。

 端寄せすぎ改善。端の一つ手前は、荷間で人足が迷う。

 囲い縄は人の流れを変える。

 一本縄案、有効。荷の背を示すだけ。場所を囲わない。

 人の通り道を変えない。草道化防止。

 昼運用可。夕方は見えにくい。雨天不可。

 清洲荷は舟寄り、ただし客荷より前に出ない。

 空け札、有効。場所を残さない。

 市松評価、腹立つくらい前よりまし。

 太助整理、細飯荷は形が消えないと駄目。


 権六が最後を読んで、感心したように言った。


「太助、おまえ、文句役の素質があるぞ」


「嫌です」


「即答するな」


 弥助殿への報告では、一本縄と空け札の話が中心になった。


 弥助殿は静かに聞き、頷いた。


「よい。場所を囲わず、背を示すだけか」


「はい」


「清洲が場所を取ったように見えない」


「はい」


「使った後に消える」


「はい」


「川道に合っている。だが、夕方と雨は使うな」


「承知しました」


「市松は何と言った」


「腹立つくらい前よりまし、と」


 弥助殿は少しだけ笑った。


「それは褒めている」


「やはりそうですか」


「市松の文句は、川道の杭だ。抜くな」


 市松の文句は杭。


 また一つ、腹に残る言葉だった。


 夜、清洲蔵では川道用の厚味噌片湯が出た。


 今日は、いつもより少しすっきりした味に感じた。


 権六がすすって言った。


「今日の飯は、一本縄の味だな」


「また縄味か」


「前の縄味より、囲われてない」


 かやが笑った。


「味でそこまで分かるの?」


「分かる。今日のは、食べた後に場所を取らない味だ」


 佐助が真面目に頷いた。


「川道用は、後味を残しすぎないほうがいいのかもしれませんね」


「本気で料理に戻すなよ」


 太助が言うと、皆が笑った。


 だが、佐助の言葉も間違いではない。


 川道は、残りすぎるものが嫌われる。


 縄も。

 札も。

 匂いも。

 荷の場所も。


 細飯荷は、渡った後に渡し場を元へ戻す必要がある。


 使った後に消える。


 それが、川道の約束なのだ。

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