第百八話 正式線ほど、静かに腐る
高畑線は、太い腹だ。
信長様はそう言った。
高畑正式飯線。
清洲蔵から高畑砦へ、毎日飯が動く。
砦十人包み。
見張り前飯。
常備飯。
水札。
井戸番。
前進飯場。
背戻し窪地。
茶屋との連絡。
最初は、何もかも危なっかしかった。
米をどこへ置くか。
水を誰が汲むか。
味噌片をいつ開けるか。
見張り前に食わせるか、後に食わせるか。
井戸番の腹に、水の文句を背負わせすぎていないか。
その一つ一つを見て、直して、書いて、また直した。
だから正式線になった。
だから安心していい。
そう思いたくなる。
だが、信長様は言った。
正式線ほど、腐りやすい。
その言葉の意味を、高畑へ向かう道で、俺は何度も噛んでいた。
今日の高畑行きは、飯荷の通常便に確認役を加えた形だった。
俺、佐助、伊三郎、作兵衛、太助。
権六は清洲蔵に残る。
「正式線の文句こそ聞きたいんだがな」
出発前、権六はそう言った。
「権六が行くと、文句を掘り起こしすぎる」
かやが言うと、権六は心外そうな顔をした。
「掘り起こして何が悪い」
「今日は静かに腐ってるところを見る日だから。大声で掘ったら、皆が身構える」
「俺の声、腐りを起こすのか」
「たぶん」
「ひどいな」
きぬが横で笑っていた。
だが、かやの言葉は正しい。
今日は、敵の紙や札を探す日ではない。
鳥や針売りを見る日でもない。
味方の慣れを見る日だ。
大声で行けば、高畑の者たちは急に背筋を伸ばす。
それでは見えない。
だから、権六は留守番になった。
本人は不満そうだったが、最後に文句腹帳を抱えて言った。
「腐った文句があったら、持って帰れよ」
「分かった」
「文句も腐ると臭いからな」
その言葉は、少し笑えなかった。
高畑へ向かう道は、すでに慣れた道になっている。
前進飯場を過ぎ、背戻し窪地の脇を通る。
以前は、ひとつひとつ気にしていた場所だ。
今は足が勝手に進む。
それが怖い。
太助が背負い荷を揺らしながら言った。
「高畑は、道が覚えてる感じがしますね」
「道が?」
「はい。足が勝手に行くというか。川道や山裾は、ずっと周りを見てないと怖い。でも高畑は、気づいたら歩いてる」
作兵衛が低く言った。
「それが油断だ」
太助は少し黙り、それから頷いた。
「正式線って、足が覚えるんですね」
「足が覚えるのは悪くない。頭が寝るのが悪い」
作兵衛の言葉を、伊三郎がすぐに書きかけた。
歩きながらだったので、俺が止めた。
「後で」
「はい」
伊三郎は少し残念そうに筆をしまった。
高畑砦へ着くと、表面上は何も問題なかった。
飯荷は受け取られた。
水場も動いている。
井戸番もいる。
見張りの兵も、いつもの顔だ。
大きな乱れはない。
だからこそ、細かく見なければならなかった。
「まず水札」
俺が言うと、井戸番の兵が少し緊張した顔になった。
「昨日のことですか」
「責めに来たわけではありません。どうして非常用水札が裏返しになったのかを見たいだけです」
兵は少し口ごもった。
「置いたのは、俺です」
「なぜ裏返しに?」
「……戻す時、急ぎました」
「何があった」
「見張り交代の飯が遅れそうで。水を汲んだ後、札を戻したつもりだったんですが」
札場を見る。
飲み水札。
味噌片用水札。
非常用水札。
三つの札が並んでいる。
だが、札を置く板が少し傾いていた。
前はまっすぐだったはずだ。
「この板、いつから傾いてる?」
俺が聞くと、井戸番は首を傾げた。
「いつから……でしょう。気づきませんでした」
気づかない。
それが正式線の腐りだ。
毎日見ていると、少しの傾きが見えなくなる。
伊三郎がしゃがみ込み、板の端を見た。
「縄が緩んでいます」
佐助も確認する。
「水で少し膨らんで、乾いて縮んだのでしょうか」
作兵衛が言った。
「板が傾く。札が裏返る。急いだ時に気づかない。小さいが、つながってるな」
俺は頷いた。
札を裏返した兵だけの問題ではない。
板の傾き。
縄の緩み。
急ぎの飯。
慣れた動き。
全部が少しずつ噛み合って、水札を腐らせた。
太助がぼそっと言った。
「敵がいなくても、縄は緩むんですね」
伊三郎が今度こそ書いた。
敵がいなくても、縄は緩む。
良い言葉だ。
嫌なほど。
水札の次は、常備飯の確認だった。
高畑砦の隅に置かれた常備飯箱。
非常時に開けるものだ。
開封札も付いている。
見た目は問題ない。
だが、佐助が顔を寄せて言った。
「札の紐が、少し湿っています」
「中身は?」
「まだ無事だと思います。でも、紐が湿ると、開ける時に切れにくくなるかもしれません」
開封札を確認すると、昨日の記録より半刻ほど確認が遅れていた。
兵に聞くと、答えは簡単だった。
「いつも無事なので、後でもいいかと」
いつも無事。
これも怖い。
いつも無事だから、後回しになる。
後回しにした時に限って、湿りが入る。
佐助は常備飯箱を見ながら言った。
「常備飯は、食べられないことで信用されます。でも、見られなくなると駄目です」
「食べない飯ほど、見ないと腐る」
俺が言うと、佐助は静かに頷いた。
「はい」
伊三郎が書いた。
食べない飯ほど、見ないと腐る。
次は、見張り前飯。
見張りに出る兵が、腹を落ち着けるための小飯だ。
置き場は、以前決めた。
見張り場へ向かう導線の途中。
立ち止まりすぎず、取り忘れにくい場所。
だが、今日見ると、置き場が半歩ずれていた。
ほんの半歩だ。
でも、半歩ずれたせいで、兵が一度体をひねって取る形になっている。
作兵衛がすぐ気づいた。
「腰をひねるな」
兵が驚いて振り返る。
「え?」
「飯を取る時、腰をひねってる。槍を持ったままだと、後ろの者に当たる」
実際にやってみると、確かに危ない。
半歩ずれただけ。
だが、槍を持ち、急ぎ、前の者が止まれば、後ろが詰まる。
「なぜずれた?」
俺が聞くと、兵の一人が頭をかいた。
「昨日、雨が少し吹き込んだので、濡れないように内へ寄せました」
「それ自体は悪くない」
かやがいればそう言っただろう。
今日はかやはいないが、俺にも分かる。
濡れないように寄せた。
善意だ。
しかし、その半歩で別の危険が生まれた。
正式線では、善意の半歩も腐りになることがある。
作兵衛が言った。
「濡れを避けるなら、置き場を内へ寄せるんじゃなく、上に小さな庇を出せ。道を曲げるな」
「庇ですか」
「飯は濡れない。人の腰は曲げない。それがいい」
記録する。
見張り前飯、雨避けで半歩内へ。腰ひねり発生。槍当たり危険。置き場固定、庇で対応。
太助が小声で言った。
「半歩って怖いですね」
「半歩で槍が当たる」
「高畑、静かに怖い」
その言葉も、文句腹帳に入りそうだった。
次に、井戸番交代を見た。
ここも大きな問題はない。
交代している。
水札も見ている。
だが、声かけが短くなっていた。
以前は、
「飲み水、残りこれだけ」
「味噌片用、次の汲みは半刻後」
「非常用、触らず」
と確認していた。
今日は違った。
「いつも通り」
それだけだった。
井戸番二人は、それで分かっている顔をしていた。
でも、俺は背筋が冷えた。
いつも通り。
正式線で一番危ない言葉かもしれない。
「止めてください」
俺が言うと、井戸番たちが驚いた。
「え?」
「交代の時、『いつも通り』は禁止にします」
少し強い言い方になった。
兵の一人が困った顔をする。
「でも、本当にいつも通りで」
「いつも通りかどうかを、声に出して確かめるための交代です。分かっているから言わない、ではなく、分かっていても言う」
作兵衛が頷いた。
「戦場で『いつも通り』は死ぬぞ」
その一言で、兵の顔が変わった。
井戸番は戦場の最前に立っているわけではない。
だが、水を間違えれば、飯が崩れる。
飯が崩れれば、見張りが崩れる。
見張りが崩れれば、戦が崩れる。
井戸番も戦の中にいる。
「札声出しを作りましょう」
伊三郎が言った。
「札声出し?」
「交代のたびに、札の名と状態を声に出す。飲み水札、正。味噌片用水札、正。非常用水札、封。のように」
太助が顔をしかめる。
「また硬い」
「では、どう言えば」
伊三郎はすぐ聞いた。
太助は少し考えた。
「飲み水よし。味噌よし。非常触るな。……とか」
「最後だけ命令形ですね」
「非常用は触っちゃ駄目だから」
井戸番の兵が少し笑った。
「それなら言いやすいです」
採用された。
飲み水よし。
味噌よし。
非常触るな。
伊三郎は少し複雑そうだったが、きちんと書いた。
正式な帳面には硬い文を残し、現場の声は短くする。
最近の清洲蔵のやり方だ。
午前の確認を終える頃には、大きな敵の影は見つからなかった。
薬売りもいない。
針売りもいない。
草履売りもいない。
偽札もない。
鳥も飛ばない。
それでも、高畑は腐りかけていた。
札板の傾き。
常備飯開封札の確認遅れ。
見張り前飯の半歩ずれ。
井戸番交代の「いつも通り」。
小さい。
本当に小さい。
だから怖い。
高畑の兵たちを集め、俺たちは簡単に話した。
怒るためではない。
仕組みを戻すためだ。
「高畑線は正式飯線です」
俺は言った。
「だからこそ、毎朝戻します」
兵たちが顔を上げる。
「戻す?」
「札の位置を戻す。常備飯の札を戻す。見張り前飯の置き場を戻す。井戸番の声を戻す。昨日と同じだと思っても、朝に一度戻す」
伊三郎が板を出した。
毎朝戻し。
一、水札板の傾き確認。
二、札声出し。飲み水よし、味噌よし、非常触るな。
三、常備飯開封札の紐確認。
四、見張り前飯の置き場を足印へ戻す。
五、井戸番交代は「いつも通り」と言わない。
兵の一人が苦笑した。
「細かいですね」
作兵衛がすぐ言った。
「細かいから生きる」
兵は黙った。
俺は続けた。
「敵が来なくても、縄は緩みます。飯は濡れます。札は裏返ります。正式線は、敵がいない時にも腐ります。だから毎朝戻します」
井戸番の兵が、少し真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
別の兵が言った。
「戻し役は誰が?」
そこが大事だった。
一人に背負わせてはいけない。
井戸番一人にしたら、前と同じになる。
「日替わりです」
伊三郎が答えた。
「井戸番、飯配り役、見張り前飯係から一人ずつ。三人で戻す。三人とも声に出す」
「三人?」
「はい。一人が慣れても、他の二人が気づけます」
兵たちは顔を見合わせた。
面倒だと思っている顔もある。
だが、反発ではない。
面倒だが、必要だと分かり始めている顔だった。
高畑を出る前、井戸番が俺を呼び止めた。
「清吉さん」
「はい」
「昨日、止められてよかったです」
「非常用水ですか」
「はい。間違えた兵を責めるところでした。でも、今日見たら、俺も板の傾きに気づいていませんでした」
井戸番は、少し苦い顔で笑った。
「慣れると、見てるのに見てないんですね」
「俺たちも同じです」
「戻し役、やります」
「お願いします」
その言葉が、今日一番大きかった。
清洲へ戻る道で、太助が言った。
「敵がいない確認って、疲れますね」
「敵がいたほうが分かりやすいか?」
「はい。腹立つ相手が見えるから。でも今日は、相手が慣れとか半歩とか縄の緩みで」
作兵衛が言った。
「そういう相手が一番しぶとい」
「正式線ほど、静かに腐るって本当ですね」
俺は頷いた。
清洲蔵へ戻ると、伊三郎はすぐ線帳と腹帳を開いた。
高畑線帳。
水腹帳。
飯腹帳。
人足腹帳。
文句腹帳。
今日の問題は、敵の妨害ではない。
慣れによる腐り。
その分類が、新しく必要だった。
伊三郎は少し考え、こう書いた。
慣れ腐り。
権六が横から覗いて言った。
「嫌な言葉だな」
「でも、分かりやすいです」
「分かりやすいのがまた嫌だ」
報告を聞いた弥助殿は、静かに頷いた。
「敵より先に、味方が線を腐らせることがある」
「はい」
「高畑で見つかったのは幸いだ。美濃へ出る前でよかった」
「戻し役と札声出しを入れます」
「よい。正式線は、毎朝疑え」
正式線は、毎朝疑え。
重い言葉だった。
夜、清洲蔵では高畑用の砦飯を食べた。
いつもより、少しだけ噛む時間が長く感じた。
権六が飯を口に入れ、言った。
「今日の飯は、腐ってないか確かめながら食う味だな」
「嫌な味だな」
「でも、大事だろ」
佐助が頷いた。
「はい。食べられると思っている飯ほど、確かめないといけません」
太助が椀を持ちながら言った。
「正式って、安心の名前じゃないんですね」
「たぶん、毎日戻すって意味なんだろうな」
俺が言うと、伊三郎が筆を取った。
「それも書きます」
「今のは俺か?」
「はい」
もう止めなかった。
正式線。
それは完成した線ではない。
毎朝戻す線だ。
高畑は太い腹。
太い腹ほど、静かに腐る。
だから、毎朝疑う。
毎朝戻す。
飲み水よし。
味噌よし。
非常触るな。
その声が、高畑の朝に響くなら、正式線はまだ生きていられる。




