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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百七話 四つの腹は、同時に鳴る

 その朝、清洲蔵は最初から少し騒がしかった。


 特別な大荷があるわけではない。


 信長様から急な命が下ったわけでもない。


 けれど、皆がどこか落ち着かない。


 川道では、待ち荷逃がしを清洲荷ありで試す日だった。

 山裾では、村が測った荷の後始末として、測り場をどう守るか返事を待っていた。

 北尾根では、一羽の鳥、白い枝、三つ石を見続ける必要があった。

 高畑線は正式飯線として、いつも通り飯を送らなければならなかった。


 いつも通り。


 その言葉が、一番怖い。


 正式線ほど腐りやすい。


 信長様の言葉が、まだ腹に残っている。


「高畑の朝便、出ます」


 佐助が声をかけた。


 高畑用の砦飯は、いつもの形に整えられている。


 砦十人包み。

 見張り前飯。

 常備飯の補充分。

 水札の写し。


 高畑は、太い腹。


 ここが止まれば、他の細い線で補いきれない。


 だからこそ、いつも通りが大事だった。


 だが、朝便が出ようとしたその時、前進飯場からの連絡足が駆け込んできた。


「高畑からです!」


 息が荒い。


 手には、水札の小写しがある。


 伊三郎が受け取り、読み上げた。


「高畑、非常用水札一枚が裏返しのまま置かれていた。兵二名、味噌片用水と間違えかける。井戸番が止めた。大事なし」


 清洲蔵の空気が固まった。


 大事なし。


 その言葉があるだけ、まだよかった。


 だが、正式線で水札の置き間違いが出た。


 油断だ。


 高畑は動いている。

 動いているからこそ、慣れる。

 慣れるから、札を裏返しのまま置く。


 水腹帳の問題だ。


 伊三郎はすぐ水腹帳を開いた。


「高畑、非常用水札裏返し。原因確認必要。井戸番が止めたため被害なし。ただし、札の置き場が慣れで乱れている可能性」


 権六が腕を組んだ。


「正式線の油断だな」


「はい」


 俺は頷く。


 だが、そこで止まれなかった。


 次の連絡足が来た。


 川道からだった。


「喜助さんから!」


 川道の札筒には、短い木札が入っていた。


 黄札。

 清洲細飯荷あり。

 待ち荷逃がし使用。

 市松、清洲荷が端に寄りすぎて逆に渡し遅れと文句。

 若商人、箱は助かる。

 魚籠、風下不足。

 人の回り道、草深い。

 喜助、黄が長引くなら赤に近いと判断。


 かやがすぐ反応した。


「清洲荷を端にしすぎたんだ」


「端に置けって市松が言ったんじゃなかったか」


 太助が言うと、かやは首を横に振った。


「端に置けば遠慮にはなる。でも、遠すぎると渡す時に遅れる。遅れると、また岸が詰まる」


 市松らしい文句だ。


 そして、正しい。


 細飯荷は客の邪魔にならないよう端に寄る。

 だが、寄りすぎると今度は渡しの順が遅れ、岸が詰まる。


 川道は細い。


 細すぎても詰まる。


 俺は川道線帳へ書いた。


 清洲荷端寄せ、遠慮として有効。ただし寄せすぎると渡し遅れ。細すぎても詰まる。


 権六が横から覗き込んだ。


「細すぎても詰まる、か。いい文句だな」


「文句じゃない。問題です」


「問題も文句の親戚だ」


 そう言い合っている間に、三つ目の知らせが届いた。


 山裾からだった。


 布包みの中に、小さな板写しが入っている。


 おきよの絵だ。


 石入り籠の横に、人の目が二つ描かれている。


 下には、惣右衛門の字があった。


 測る場は、村の目で見る。

 清洲の目だけでは測らない。


 それ自体はよい。


 だが、添えられた紙には、嫌な一文があった。


 針売り、測り場について言う。

 「清洲が村を集めて見せ物にしている。測ると言いながら、村を従わせる場だ」


 きぬが紙を読んで、眉を寄せた。


「測る場を狙ってきましたね」


 弥助殿の予想通りだった。


 清洲が隠す、と言われた。

 だから村が測った。

 すると今度は、測る場そのものを「村を従わせる見せ物」と言う。


 敵は、こちらが作った返事の上に、また泥を塗ってくる。


 村腹帳と噂腹帳の問題だ。


 かやが静かに言った。


「とめ婆様、怒ってそう」


「怒っているでしょうね」


 きぬが答える。


「でも、紙を見る限り、すぐ清洲に知らせてくれています。隠していません」


 そこは大きい。


 村が隠さず知らせた。


 それは、村水火板と測り荷の約束がまだ生きている証だった。


 伊三郎が紙を受け取り、村腹帳へ書く。


 山裾、測り場攻撃。針売り「見せ物」「従わせる場」と発言。村側、隠さず通報。測る場を村の目で守る必要。


 そこへ、四つ目の知らせが来た。


 茶屋からだった。


 北尾根。


 俺は思わず息を止めた。


 札には、茶屋の女将の短い言葉があった。


 北の鳥、一羽。昨日と同じ時刻に近い。

 白い枝に一度止まったように見える。

 三つ石の近く、人影なし。

 ただし茶屋の前を、知らない草履売りが二度通った。

 草履売り、北を見すぎる。


 草履売り。


 薬売り。

 針売り。

 今度は草履売り。


 権六が低く唸った。


「また売り物の顔か」


「決めつけるな」


 作兵衛が言う。


「ただの草履売りかもしれん」


「ただの草履売りが北を見すぎるか?」


「見る者もいる。だから決めつけるな」


 北尾根観察線が鳴った。


 茶屋も見られているかもしれない。


 鳥だけではない。


 草履売りという人の動きも出た。


 清洲蔵の中に、四つの知らせが並んだ。


 高畑。

 川道。

 山裾。

 北尾根。


 四つの腹が、同時に鳴っている。


 太助がぽつりと言った。


「これ、どれからやるんだ」


 誰もすぐ答えなかった。


 昔なら、たぶん声の大きいものから動いた。


 怒っている者。

 近い者。

 飯が今動いている者。


 だが今は違う。


 線帳と腹帳がある。


 伊三郎が静かに言った。


「まず、緊急度を分けます」


 その声で、蔵の空気が少し戻った。


 伊三郎は床に四枚の小板を置いた。


 高畑。

 川道。

 山裾。

 北尾根。


 さらに横に、腹帳の札を置く。


 水。

 待ち場。

 村。

 観察。

 噂。

 人足。

 銭。


「高畑は水です。被害なしですが、正式線の水札。即日確認が必要です」


「最優先か?」


 権六が聞く。


「水を間違えかけたので、優先度は高いです。ただし、井戸番が止めています。高畑便は止めず、確認足を追加します」


 佐助が頷く。


「高畑飯は予定通り出します。確認札を追加します」


 伊三郎は次へ進む。


「川道は待ち場です。今日の細飯荷運用中ですが、被害なし。待ち荷逃がしの位置調整が必要。喜助と市松の文句があるため、次便までに返事を出すべきです」


 かやが手を上げた。


「川道は私が行く。待ち縄と空け札の位置を見直す。清洲荷を端に寄せすぎない形を試す」


「一人では駄目だ」


 作兵衛が言う。


「太助も連れていけ。荷の動きが分かる」


 太助は嫌そうな顔をしたが、諦めたように頷いた。


「どうせまた文句を書くんでしょう」


「そうだ」


「もう言う前提なんですね」


 伊三郎は三枚目を見る。


「山裾は村と噂です。針売りが測る場を狙っています。ただし、村側が隠さず知らせています。急いで返事が必要ですが、飯荷はまだ入っていません」


 きぬが静かに言った。


「山裾へは、私が返事文を持っていきます。かやさんは川道でしょうから」


「きぬさん一人では危ない」


 俺が言うと、きぬは頷いた。


「護衛をつけてください。でも、前に出るのは私のほうがいいと思います。測る場の噂は、女衆の不安に触れます」


 その通りだった。


 山裾は、男が大勢で行くと逆に針売りの言葉へ近づく。


 きぬが行き、とめ婆様とおきよに「測る場は村のための場だ」と確認するほうがいい。


 伊三郎は最後に北尾根を見る。


「北尾根は観察です。鳥は二日続けて同時刻近く。草履売りが北を見すぎる。ですが、今動くと茶屋の反応を見せることになります」


 作兵衛が言った。


「今日は動かないほうがいい」


「でも、放っておくのか」


 権六が言う。


「放っておくんじゃない。茶屋へ『三度見てから』の返事を出す。草履売りの顔、売り物、足跡を女将に無理なく見てもらう。清洲から北へ入るのはまだ待つ」


 俺は頷いた。


「北尾根は動かない判断も動きです」


 伊三郎が筆を取る。


「動かない判断も動き……記録します」


 もう誰も止めなかった。


 四つの腹は、同時に鳴った。


 だが、全部へ同時に走るわけではない。


 高畑は確認足。

 川道はかやと太助で待ち荷逃がし調整。

 山裾はきぬが返事。

 北尾根は茶屋へ三度見の確認を返す。

 清洲蔵には、俺と伊三郎、佐助、権六、作兵衛が残り、全体を整理する。


 役が分かれた。


 線帳と腹帳がなければ、たぶん混乱していた。


 いや、間違いなく混乱していた。


 弥助殿が蔵へ来たのは、ちょうど方針がまとまった時だった。


 四枚の小板を見て、短く言った。


「決めたか」


「はい」


「報告しろ」


 俺は順に報告した。


 弥助殿は黙って聞き、最後に頷いた。


「よい。北へ走らなかったのはよい」


「動きたくなりました」


「動いたら負ける時がある」


「はい」


「高畑の水札は今日直せ。正式線の小さな乱れは、敵がいなくても腐る」


「はい」


「川道は、待ち荷逃がしを清洲の場所にするな」


「はい」


「山裾は、村の場を守れ。清洲の返事が遅れると、針売りの言葉が座る」


「はい」


「四つ鳴る時は、全部に耳を向けるな。耳が裂ける。腹帳を使え」


 耳が裂ける。


 まさに、朝の蔵はそうなりかけていた。


 その日、清洲蔵は細かく動いた。


 高畑へは、佐助が確認札を作った。


 非常用水札は、表に赤い筋を入れる。


 裏返しても、赤筋が見えるようにする。


 井戸番だけでなく、飯配り役も確認する。


 正式線ほど、札の置き場を毎朝戻す。


 小さなことだが、大事だ。


 川道へ向かったかやと太助からは、昼過ぎに返事が来た。


 待ち荷逃がしの清洲荷位置を、一番端ではなく「端の一つ手前」に変更。

 清洲荷のさらに外側を人の回り道にする。

 魚籠は風下。

 布と箱は敷き布中央。

 清洲荷は低い小包みのみ。

 市松、「まだ噛むところはあるが昨日よりまし」と発言。


 太助の追記もあった。


 端に寄りすぎると、遠慮が邪魔になる。


 権六がそれを読んで笑った。


「いい文句だ」


「本人がいないから、堂々と言えますね」


 伊三郎が書いた。


 遠慮が邪魔になる場合あり。


 山裾へ向かったきぬからは、夕方前に返事が来た。


 とめ婆様、針売りの「見せ物」発言に対し、「見せ物ではない。村が見る場だ」と返答。

 おきよ、村水火板に目の絵を追加。

 測る場は清洲の場ではなく、村の目の場。

 次回から、測る時は村側が先に立つ。清洲は後ろ。

 子どもが近づきすぎないよう、とめ婆様が線を引く。


 きぬの追記。


 村は清洲に従うのではなく、清洲を見ている。その形が残れば噂は弱まる。


 俺はその一文を読んで、深く息を吐いた。


 山裾も、一歩進んだ。


 北尾根については、茶屋から短い返事が来た。


 三度見る。

 草履売りは急がず見る。

 今日は清洲から北へ入らぬと分かれば、向こうが次を出すかもしれない。

 茶屋は茶屋のままでいる。


 最後の一文は、女将らしかった。


 茶屋は茶屋のままでいる。


 観察線の大事な約束だ。


 その夜、清洲蔵に皆が戻ってきた時には、全員が疲れていた。


 飯を作る手も、帳面を書く手も、少し重い。


 だが、朝のような混乱はなかった。


 四つの腹は同時に鳴った。


 それでも、全部を聞き分けた。


 完璧ではない。


 川道はまだ揉める。

 山裾もまだ本荷ではない。

 北尾根は不気味なまま。

 高畑の油断も消えていない。


 だが、清洲蔵は倒れなかった。


 線帳と腹帳が効いた。


 夕飯には、四つの飯が少しずつ並んだ。


 高畑の砦飯。

 川道の厚味噌片湯。

 山裾の火なし飯。

 北尾根の歩き飯の欠片。


 権六がそれを見て言った。


「今日の飯は、うるさいな」


「飯が?」


「四つとも違うこと言ってる」


 かやが笑った。


「高畑は?」


「油断するな」


「川道は?」


「待て、でも場所を取るな」


「山裾は?」


「見せろ、でも見せ物にするな」


「北尾根は?」


 権六は歩き飯の欠片を見て、少し顔をしかめた。


「動くな。でも見逃すな」


 誰も笑わなかった。


 その通りだった。


 太助が肩を揉みながら言った。


「四つ同時に鳴ると、腹が減るな」


「それは普通に働いたからだ」


 作兵衛が返す。


 きぬが山裾の火なし飯を口に運び、静かに言った。


「でも、今日、少し分かった気がします。全部を解決しなくても、全部を見失わなければ、線は切れないんですね」


 伊三郎が頷いた。


「はい。腹帳は、そのためにあります」


 佐助も言った。


「飯も同じです。一度で腹いっぱいにしなくても、次に食べる分が見えていれば、人は落ち着きます」


 俺は四つの飯を順に見た。


 太い腹。

 細い腹。

 村の腹。

 敵の腹。


 信長様の言葉が、また戻ってくる。


 美濃攻略は、この四つの腹で動かす。


 今日、その四つが同時に鳴った。


 清洲蔵は、なんとか聞き分けた。


 次は、もっと大きく鳴るかもしれない。


 敵もこちらに合わせて変わっている。


 薬売り、針売り、草履売り。

 噂紙、偽木札、白い枝、三つ石。


 こちらも変わらなければならない。


 だが、芯は変えない。


 飯は、人の腹を通って道になる。


 水を守り、火を踏まず、銭の穴を塞ぎ、文句を拾い、村の目を潰さず、敵の餌を見続ける。


 その全部が、清洲蔵の戦だった。

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