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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百六話 北尾根、また鳥が一羽飛ぶ

 山裾から戻ってきた石入り籠の話は、清洲蔵の空気を少しだけ明るくしていた。


 飯荷はまだ入れていない。


 だが、村が測った。


 清洲が勝手に「これくらいなら通せる」と言ったのではなく、とめ婆様や惣右衛門、おきよたちの前で荷を開き、石と木を見せ、幅と重さと匂いを確かめてもらった。


 村水火板には、新しくこう書き足された。


 重い荷は、村で測る。


 それは小さな一文だったが、針売りの「清洲は重い飯を隠して来る」という言葉を、真正面から受け止めて押し返す返事だった。


 山裾村線は、まだ細い。


 だが、確かに村の手で育ち始めている。


 その日の朝、清洲蔵では、山裾用の火なし飯をもう一度見直していた。


 佐助が小さな握り飯を並べ、きぬが布の匂いを確かめ、かやが荷の幅を測る。


 太助は少し離れたところで、妙に真面目な顔をしていた。


「どうした?」


 俺が聞くと、太助は自分の頬を触った。


「怖い顔じゃない顔の練習」


 かやが吹き出した。


「まだ気にしてたの?」


「とめ婆様に言われたからな。山裾では顔も荷なんだろ」


 権六が腕を組んで、うんうんと頷いた。


「文句役として言うが、太助は困った顔が一番いい」


「褒めてます?」


「分からん。だが、怖くはない」


「ならいいのか……?」


 蔵に笑いが広がった。


 久しぶりに、少し落ち着いた朝だった。


 川道では、待ち荷逃がしの仮試験が続いている。

 山裾では、村が測る荷まで進んだ。

 高畑線は、油断せず正式運用を続けている。

 北尾根は、観察線として止めてある。


 四つの腹は、それぞれ鳴り方が違う。


 そう思っていた時、茶屋からの連絡足が来た。


 息を切らしてはいない。


 急報というほどではない。


 けれど、その顔は明るくなかった。


「茶屋のおかみさんからです」


 連絡足は、小さな札を差し出した。


 伊三郎が受け取り、読み上げる。


「北の鳥、一羽だけ飛ぶ。時刻、朝二つ半過ぎ。場所、前の鳥場ではない。静かすぎる」


 蔵の空気が変わった。


 笑いが、一瞬で消える。


 北尾根。


 観察線。


 飯を流さない線。


 敵が鳥場を片付けたと思われていた場所。


 その北尾根で、また鳥が飛んだ。


 しかも、一羽だけ。


「一羽だけって、どういうことだ?」


 太助が言った。


「前は鳥場に集まってたんだよな」


「そうだ」


 作兵衛が低く答える。


「餌を撒いて、鳥を集めていた。鳥の動きでこちらの足を見ていた疑いがあった」


「じゃあ、今回は餌場じゃない?」


「分からん」


 かやが地図を広げた。


 北尾根の紐は、鳥場の手前で結び止められている。


 切った線ではない。


 止めた線。


 そこへ、また小さな印が一つ加わろうとしていた。


「茶屋のおかみさんが『前の鳥場ではない』って言ってるなら、見えた場所が違うんだと思う」


 かやが言った。


「鳥場を捨てて、新しい合図に変えたのか」


 権六が腕を組む。


「敵も細くしてきたってことか」


 その言い方に、皆が黙った。


 川道では細飯荷。

 山裾ではまだ空籠。

 こちらが太い動きを避け、細い約束を作っているうちに、敵もまた太い鳥場を捨て、一羽だけの合図に変えたのかもしれない。


 弥助殿に報告すると、彼はすぐに地図の前へ来た。


 札を読み、少し目を細める。


「一羽だけか」


「はい」


「前の鳥場ではない、と」


「茶屋の女将はそう見ています」


「行け。ただし、踏むな」


「はい」


 もう、何度も聞いた言葉だ。


 北尾根は踏まない。


 触らない。


 低い松も割れ石も使いすぎない。


 敵がこちらの見方に合わせて変わっているなら、こちらも前と同じ見方をしてはいけない。


「弥吉は?」


 俺が聞くと、弥助殿は首を横に振った。


「連れていくな。弥吉は山の腹を知っているが、今出すと匂いが強い」


「匂いが強い?」


「敵が見ているなら、『清洲がまた炭焼きの子を使った』と思わせる。今は出すな」


 弥吉を守るためでもある。


 俺は頷いた。


「少人数で行きます」


「茶屋の女将の話を先に聞け。北尾根へ入るのは、その後だ」


「はい」


「鳥だけを見るな。鳥を飛ばした者が、どこを見たいのかを考えろ」


 鳥を飛ばした者が、どこを見たいのか。


 その言葉が腹に残った。


 鳥が飛ぶ。


 それは合図かもしれない。


 だが、合図なら、誰かがそれを見る。


 鳥がどこから飛び、どこへ向かい、誰の目に入るのか。


 そこを見なければならない。


 北尾根へ向かう一行は、さらに絞った。


 俺、かや、作兵衛、小平。


 護衛は二人だが、茶屋から先では距離を取る。


 太助は行きたがったが、作兵衛に止められた。


「今日は足跡を増やしたくない」


「俺の足跡、そんなに邪魔ですか」


「山裾で泥に足を取られたばかりだろ」


「あれは雨後だからです」


「北尾根は乾いていても、足跡は残る」


 太助は口を尖らせたが、最後は引いた。


 権六も留守番だ。


「文句役としては行きたいんだがな」


「声が山に響く」


「俺の扱い、だんだん雑になってないか」


 きぬが微笑んで言った。


「清洲蔵で文句腹帳を守る大事な役ですよ」


「そう言われると悪い気はしない」


 権六は単純だった。


 清洲を出て茶屋へ向かう道は、いつもより静かだった。


 山裾の賑わいも、川道の湿った気配もない。


 北へ近づくほど、空気が乾いていく。


 茶屋に着くと、女将は軒先で待っていた。


 茶碗を拭いているふりをしていたが、俺たちを見るとすぐ手を止めた。


「来たね」


「鳥の話を聞きに来ました」


「一羽だけだった」


 女将は、北の山を見た。


「朝二つ半を少し過ぎた頃だよ。前の鳥場より東。低い松より上じゃない。もっと下、谷へ落ちる手前あたり」


「鳥の種類は?」


「黒い鳥だね。でも前に群れてたのとは少し違う。若い鳥かもしれないし、違う鳥かもしれない」


「飛び方は?」


 女将は少し目を細めた。


「まっすぐじゃない。一度低く出て、途中でふっと上がった。それから北へ消えた」


「自然に飛んだように見えましたか」


「自然に見せたい飛び方だった」


 怖いことを言う。


「自然に見せたい?」


「本当に自然なら、もっと気まぐれだよ。一羽だけが同じ時刻に、同じあたりから出る。しかも、前の鳥場じゃない。偶然にしては行儀がよすぎる」


 行儀がよすぎる鳥。


 茶屋の女将らしい表現だった。


 かやが地面に簡単な線を描く。


 茶屋。

 北尾根入口。

 低い松。

 割れ石。

 前の鳥場。

 谷へ落ちる手前。


「ここですか」


 かやが指すと、女将は頷いた。


「その辺りだね。ただ、そこへまっすぐ入るなよ」


「もちろんです」


「まっすぐ入ったら、鳥じゃなくて人が飛ぶよ」


「人が?」


「噂が飛ぶってことさ。清洲がまた北へ入った、とね」


 相変わらず、言葉が鋭い。


 俺は頷いた。


「今日は遠目で見ます」


「それがいい。あと、前の低い松と割れ石は使いすぎるな」


「やはり見られていますか」


「見られてるかどうかじゃない。見られていると思え。山では、そのほうが長生きする」


 茶屋を出る前に、女将が小さな包みをくれた。


「何ですか」


「干し梅だよ。北尾根は口が乾く」


「ありがとうございます」


「礼はいい。喉が乾くと、人は足元より水を考える。北尾根は、そういう道だろ」


 やはり、この人は飯線の腹をよく見ている。


 北尾根へ入る道は、前と変えた。


 低い松へまっすぐ向かわない。


 割れ石も使わない。


 少し西側の藪を回り、尾根下の斜面を遠巻きに見る。


 作兵衛が先に立ち、足跡の残りにくい場所を選ぶ。


 小平は黙って周囲を見ている。


 かやは、草の倒れ方を見ていた。


「ここ、最近誰か通ってる」


 小声だった。


「どんな足?」


「軽い。荷はないか、かなり軽い。急いでない」


 薬売りの時にも似た足跡があった。


 だが、同じとは限らない。


 決めつけない。


 記録する。


 俺は小帳面を出しかけて、作兵衛に止められた。


「ここで書くな。立ち止まるな」


 そうだった。


 北尾根では、書くことすら跡になる。


 頭に入れる。


 後で書く。


 しばらく進むと、谷へ落ちる手前の斜面が見える場所へ出た。


 前の鳥場より低い。


 茶屋の女将が言った通りだ。


 鳥はいない。


 声も少ない。


 ただ、静かすぎる。


 前にも感じた嫌な静けさだ。


 作兵衛が低く言った。


「鳥場じゃないな」


「餌は?」


「見えない。餌を撒いて集める場所には見えない」


「では、どこから飛んだ?」


 かやが目を細めていた。


 斜面の中腹に、一本だけ妙に白い枝が見える。


 枯れ枝かと思ったが、周りの枝と少し色が違う。


 自然の白ではない。


 布か、皮を剥いだ枝か。


「あれ、前はなかったと思う」


 かやが言った。


「白い枝?」


「うん。鳥が止まる目印かも」


 鳥場ではなく、止まり木。


 一羽だけを飛ばすなら、餌場はいらない。


 鳥を一度そこへ止まらせ、何かの合図で飛ばす。


 そう考えると筋が通る。


 作兵衛が周囲を見た。


「こっちからは見える。茶屋からも見える。だが、低い松からは見えにくい」


「前の見方を外している?」


「そうだ。こちらが低い松や割れ石を見張ると思って、別の角度へ変えた」


 敵も学んでいる。


 清洲が見た場所を避け、新しい目印を作る。


 鳥も群れではなく一羽。


 餌場ではなく止まり木。


 太い仕掛けから細い仕掛けへ。


「鳥を飛ばした者は、どこで見ているのでしょう」


 俺が言うと、作兵衛は谷の向こうを指した。


「向こうの細道だろうな。あそこからなら、白い枝と茶屋側の動きが両方見える」


「茶屋も?」


「茶屋から清洲の者が来るかどうかを見る。鳥を飛ばして、茶屋が反応するか。清洲が動くか。それを見る」


 俺の背中が冷えた。


 つまり、鳥は清洲を見るためだけではない。


 茶屋の反応を見るためでもある。


 茶屋の女将が札を出すか。

 連絡足が走るか。

 清洲が北へ来るか。


 敵は、こちらの観察線を観察している。


「こちらが見ていることを、見られている」


 かやが小さく言った。


 その通りだった。


 北尾根観察線。


 だが、敵もまた観察している。


 観察線は、見合い線でもある。


 小平が小さく手を上げた。


 斜面の下に、別のものが見える。


 石だ。


 ただの石ではない。


 小さな石が三つ、並んでいる。


 自然に転がったにしては、妙に揃っている。


 低い松でも割れ石でもない。


 新しい目印。


 三石。


 かやが息をひそめた。


「白い枝と三つ石」


「合図の組み合わせか」


 作兵衛が言う。


「一羽の鳥、白い枝、三つ石。全部小さい」


「触りますか」


 俺が聞くと、作兵衛は即座に首を振った。


「触らない。近づかない。今日は見たことを持ち帰る」


 その通りだった。


 ここで触れば、こちらが見つけたことを相手に知らせる。


 北尾根は、今は飯を流す線ではない。


 敵の目を見る線だ。


 なら、見つけても触らないことが大事だった。


 しばらく観察したが、人の姿は見えなかった。


 鳥も飛ばない。


 白い枝は動かない。


 三つ石もそのまま。


 だが、何も起きないことにも意味がある。


 今日の一羽は、朝二つ半過ぎ。


 今はもう過ぎている。


 合図は一日一度かもしれない。


 あるいは、こちらを動かすために一度だけ飛ばしたのかもしれない。


 戻る時も、同じ道を通らなかった。


 足跡を重ねすぎないためだ。


 茶屋へ戻ると、女将がすぐに聞いた。


「何か見えたかい」


「白い枝と、三つ石」


 女将の手が止まった。


「三つ石?」


「はい。前の割れ石とは別です。斜面の下に小石が三つ、並んでいました」


 女将は北の山を見た。


「三つ石は、山の者が道を教える時にも使うことがある。ただ、あんな場所に置くかね」


「自然ではないと思います」


「触ったかい」


「触っていません」


「ならいい」


 女将は茶を出してくれた。


 その茶は、いつもより少し苦かった。


「敵も変わるね」


「はい」


「清洲が札や板で返すようになったから、向こうも紙だけじゃなくなってきた。鳥も、石も、枝も使う」


「茶屋が見られているかもしれません」


 俺が言うと、女将は静かに笑った。


「とっくに見られてるよ」


「危なくないですか」


「危ないさ。でも、危ないから目を閉じたら、茶屋じゃなくなる」


 言葉が出なかった。


 茶屋を潰すな。


 何度も言われた。


 だが、茶屋はもう飯線の目の一つになっている。


 その目を敵が見ている。


 守らなければならない。


 けれど、守りすぎて茶屋を軍の見張り場にすれば、茶屋は茶屋でなくなる。


 また、同じ難しさだ。


 清洲へ戻ると、すぐに報告した。


 伊三郎は、北尾根観察線帳を開いた。


 俺は、頭に入れていたことを一つずつ出した。


 茶屋報告。北の鳥、一羽。朝二つ半過ぎ。前鳥場より東、谷手前。

 鳥場ではなく止まり木疑い。白い枝。

 三つ石、新目印疑い。前の低い松・割れ石とは別。

 敵は低い松・割れ石を外している可能性。

 茶屋の反応を見ている可能性。

 観察線は、敵にも観察されている。

 触らず撤収。


 伊三郎は筆を止め、最後の一文を見た。


「観察線は、敵にも観察されている」


「はい」


「これは重要です」


 弥助殿も同席していた。


 報告を聞き終えると、しばらく地図を見た。


「敵も細くしたな」


「はい」


「鳥場を捨て、一羽にした。低い松と割れ石を捨て、白い枝と三つ石にした。こちらの見方を見て変えている」


「北尾根はどうしますか」


「観察線を続ける。ただし、茶屋からの反応を減らす」


「反応を減らす?」


「鳥が飛ぶたびに清洲が動けば、敵の思う壺だ。茶屋の女将には、すぐ走らず、時刻と場所を三度見てから知らせる形を頼む」


 なるほど。


 一度の鳥で動かない。


 三度見る。


 ただし、危険なら別。


 これもまた、茶屋に負担をかける。


「茶屋を潰さない形で」


 俺が言うと、弥助殿は頷いた。


「そうだ。茶屋を見張り場にするな。茶屋が茶屋のまま見える形を考えろ」


 難しい。


 だが、やるしかない。


 弥助殿は続けた。


「白い枝と三つ石には触るな。敵に見つけたと知らせるな。次に何が飛ぶか見る」


「はい」


「北尾根は、飯を流すな。だが、敵の腹はここで鳴っている」


 北尾根は敵の腹。


 信長様の言葉が戻ってきた。


 やはり、その通りだった。


 夜、清洲蔵では北尾根用の歩き飯の欠片が出た。


 ほんの少し。


 乾いていて、噛むと口の中の水を持っていく。


 権六がそれを食べて顔をしかめた。


「今日の飯は、一羽だけ飛ぶ味だな」


「どんな味だ」


「少ないのに、妙に気になる。もっとあるだろうって探したくなる」


 かやが頷いた。


「鳥もそうだった。群れじゃないから、逆に気になる」


 太助が茶屋の干し梅を一つ口に入れた。


「北尾根、やっぱり喉が乾くな」


 作兵衛が言う。


「喉だけじゃない。目も乾く。見すぎると、見たいものばかり見える」


 きぬが針を止めて言った。


「白い枝と三つ石。小さいですね」


「小さいから厄介です」


 伊三郎が答えた。


「大きな仕掛けは見つけやすい。小さな仕掛けは、見つけても触れない」


 俺は歩き飯の欠片を噛んだ。


 乾いた味。


 北尾根の味だった。


 敵は変わっている。


 こちらが札を守り、板を作り、村に測らせ、細飯荷を動かす間に、敵もまた細くなっている。


 一羽の鳥。

 白い枝。

 三つ石。


 小さなものほど、腹に残る。


 北尾根観察線は、止めてある。


 だが、死んではいない。


 敵の腹を見るために、静かに鳴っている。

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