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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百十一話 草履売りは、北を見すぎる

 北尾根は、飯を流していない。


 それなのに、清洲蔵の中で一番静かに重い場所になっていた。


 高畑は正式線だ。

 川道は細飯荷が動き始めている。

 山裾は村の目の場まで進んだ。


 それぞれ問題はある。


 だが、問題の形が見える。


 高畑なら札と飯。

 川道なら舟と岸。

 山裾なら水桶と火種と村の目。


 北尾根だけは、違う。


 飯を流さない。

 人を増やさない。

 触らない。

 近づきすぎない。


 なのに、見なければならない。


 一羽の鳥。

 白い枝。

 三つ石。

 そして、草履売り。


 茶屋の女将から届いた札には、短くこうあった。


 草履売り、また来た。

 北を見すぎる。

 草履より、道を売っている顔。


 その一文を見た瞬間、権六が唸った。


「草履より道を売っている顔、か。おかみさん、相変わらず言い方が鋭いな」


 太助が首を傾げる。


「草履売りが道を売るって、どういう意味ですか」


 作兵衛が答えた。


「草履は足に履くものだ。足の痛み、道の悪さ、どこへ行くか。そういう話を聞きやすい」


「ああ……」


 太助の顔が少し曇った。


「薬売りは体の具合を聞ける。針売りは家の水と火に入れる。草履売りは足と道を聞ける」


「そういうことだ」


 俺は茶屋からの札をもう一度見た。


 北を見すぎる。


 ただの商人でも、山を見ることはある。


 道を選ぶため。

 天気を見るため。

 客の行き先を探るため。


 だが、茶屋の女将が「見すぎる」と言うなら、そこには何かがある。


「行きます」


 俺が言うと、弥助殿はすぐに首を横へ振った。


「北へは入るな」


「茶屋までです」


「草履売りを捕まえるな」


「はい」


「問い詰めるな」


「はい」


「買うなとも言うな」


 また、それだ。


 薬売りも、針売りもそうだった。


 商いの顔で来る者を、すぐ敵と決めつけて捕まえると、糸が切れる。


 こちらが過剰に動けば、逆に噂になる。


 清洲は商人を疑って捕まえる。

 清洲は草履を買った者を咎める。

 清洲は茶屋まで軍の目にした。


 そんな話にされる。


「茶屋の客として見る」


 弥助殿は言った。


「はい」


「草履を見るな。足を見る者の目を見ろ」


「足を見る者の目?」


「草履売りなら、足元を見る。それは自然だ。だが、北を見すぎるなら、足元より先に見ているものがある」


 なるほど。


 草履売りが客の足を見るのは自然だ。


 草履の減り、鼻緒の切れ、足の癖。


 それを見て売る。


 でも、北尾根を見るのは別だ。


 草履売りとして見ているのか。

 別の目で見ているのか。


 そこを見る。


 茶屋へ向かうのは、俺、きぬ、作兵衛、小平。


 かやは川道の待ち荷逃がしの道具直しで残る。


 太助は行きたがったが、作兵衛に止められた。


「今日は草履売りを見る。おまえが行くと、草履を履かされて文句を言いそうだ」


「そんなに単純じゃないですよ」


 権六が横から言う。


「太助の文句は足元に出るからな」


「褒めてます?」


「半分」


「半分か……」


 きぬが同行するのは、草履売りが女客にも声をかける可能性があるからだ。


 男だけで行けば、草履売りも身構える。


 茶屋の普通の客に近い形で見る。


 それが今日の方針だった。


 茶屋に着くと、女将はいつも通り茶碗を拭いていた。


 俺たちを見ても、特に大きな反応はしない。


 それがありがたかった。


 茶屋は茶屋のままでいる。


 その言葉通りだった。


「来たね」


 女将は小さく言った。


「草履売りは?」


「まだいるよ。裏じゃない。表で客と話してる」


 俺たちは、茶屋の端へ座った。


 いかにも休んでいる客のふりをする。


 きぬが茶を受け取り、自然に周りを見る。


 草履売りは、茶屋の軒先にいた。


 年は三十半ばほど。

 背は高くも低くもない。

 日焼けした顔。

 肩から草履を束ねた紐を下げている。

 足元には、大小の草履がいくつか並んでいた。


 見た目は、どこにでもいる草履売りだった。


「そこの旦那、草履はどうだい。北へ行くなら、足裏が薄いとすぐ泣くよ」


 草履売りが、通りかかった男へ声をかけている。


 声は軽い。


 商い慣れている。


 男は笑って返した。


「北へなんか行かねえよ」


「なら南かい? 南もぬかるみがある。草履は道を選ばないが、足は道に負ける」


「口がうまいな」


「草履より口で食ってるからね」


 冗談も言える。


 茶屋の空気を乱してはいない。


 だからこそ、怖い。


 草履売りは客の足元を見る。


 草履の減りを見て、鼻緒を見て、歩き方を見る。


 そこまでは自然だった。


 だが、客との話の合間に、ふっと北を見る。


 一度なら偶然。


 二度なら癖。


 三度なら、目当てがある。


 草履売りは、北尾根の方角を三度見た。


 しかも、三度とも同じあたり。


 白い枝が見える方角だ。


 作兵衛が茶を飲むふりをしながら、小さく言った。


「見すぎだな」


「はい」


 きぬも静かに頷いた。


「足元を見る時の目と、北を見る時の目が違います」


「どう違いますか」


「足元を見る時は商人の目。北を見る時は、数えている目に見えます」


 数えている目。


 鳥の時刻か。

 茶屋から清洲へ走る足か。

 白い枝と三つ石の位置か。


 どれかは分からない。


 しばらく見ていると、草履売りがこちらへ近づいてきた。


「そこの若い旦那。草履、傷んでるね」


 俺の足元を見て言う。


 実際、清洲から茶屋まで歩いたせいで、少し土がついている。


「まだ履けます」


「履ける草履と、足を守る草履は別さ」


 草履売りは笑った。


「北へ行くなら、今のはやめたほうがいい」


 北。


 向こうから出してきた。


 俺は茶碗を置いた。


「北はそんなに悪い道ですか」


「悪いね。乾いてるくせに、足を取る」


 草履売りは、草履を一足持ち上げた。


「石が浮いてる。枝が隠れてる。谷へ落ちる手前は、草が嘘をつく」


 草が嘘をつく。


 山の者の言い方に近い。


「詳しいですね」


 きぬが柔らかく言った。


「草履を売るなら、道を知らないとね」


 草履売りは、きぬの足元もちらりと見た。


「お連れの姐さんは、足の置き方が静かだ。山道に慣れてる?」


「針仕事のほうが多いです」


「なら、なおさら良い草履がいる。針で指を守るなら、草履で足を守らないと」


 口が回る。


 きぬは微笑んだまま返した。


「北へ行く人が多いんですか」


「最近はね」


 草履売りは軽く言った。


「清洲の人も、山の者も、炭焼きも。みんな足を痛める」


 清洲の人。


 こちらを探っているのか。


 それとも、ただの商売口か。


 俺は表情を変えずに聞いた。


「清洲の人が北へ?」


「違うのかい?」


 草履売りは笑っている。


 だが、目は笑いきっていない。


 こちらの反応を見ている。


 俺は曖昧に笑った。


「清洲の人はいろいろなところへ行きますから」


「そりゃそうだ。飯の道を作るってのは、足の道を作ることでもある」


 その言葉に、背中が少し冷えた。


 飯の道。


 普通の草履売りが、そう言うだろうか。


 言うかもしれない。


 この辺りでは清洲の飯荷の話が広がっている。


 だが、言い方が少し近すぎる。


 作兵衛が口を挟んだ。


「草履売りは、どこの道から来た」


「西からだよ」


「西のどこだ」


「西は西さ。草履は足が向くほうへ売りに行く」


「北へは?」


「行かないね」


 草履売りは即答した。


 少し早かった。


 作兵衛はそれ以上追わない。


 問い詰めれば、向こうが口を閉じる。


 俺は草履を一足手に取った。


 買うつもりはない。


 だが、見る。


 草履は悪くなかった。


 鼻緒もしっかりしている。


 足裏の編みも丁寧だ。


 ただ、裏に薄く泥がついていた。


 売り物として置かれているわりに、少し新しい泥だ。


 作兵衛の目もそこを見ていた。


 泥は北尾根のものか。


 分からない。


 決めない。


 草履売りは言った。


「買うかい?」


「少し考えます」


「考える足は、だいたい痛くなってから買う」


「痛くなる前に来ます」


「その時には、北の道がもっと痛くなってるかもね」


 また北。


 草履売りは笑いながら、草履を束ね直した。


 その動作の途中で、また北を見た。


 今度は白い枝の方角ではなく、少し低い場所。


 三つ石の方角に近い。


 見た。


 明らかに。


 女将が奥から茶を出しながら、何も見ていない顔で言った。


「草履屋さん、北が好きだねえ」


 草履売りは一瞬だけ動きを止めた。


 それから笑った。


「北は足が痛むからね。商いの種がある」


「そうかい。じゃあ、草履より薬売りのほうが儲かるんじゃないかね」


「薬は扱わないよ。足の痛みは、草履で防ぐのが一番だ」


 薬売りという言葉に、草履売りがどれくらい反応するか。


 女将はそれを見たのだろう。


 草履売りは大きく崩れなかった。


 ただ、ほんの少し、笑いが遅れた。


 きぬがその遅れを見た。


 俺も見た。


 草履売りは、茶を一杯飲むと、草履を肩へ担いだ。


「今日はこの辺で。また来るよ」


「北へは行かないのかい」


 女将が聞く。


「行かないよ。北は足を痛める」


 そう言って、彼は西へ歩いていった。


 小平が追おうと一歩動いたが、作兵衛が軽く止めた。


 追わない。


 今日の仕事は、捕まえることではない。


 見て、持ち帰ることだ。


 草履売りが見えなくなってから、女将は茶碗を置いた。


「どう見る」


「草履売りとしては自然です。でも、北を見すぎます」


 俺が言うと、女将は頷いた。


「足元より北を見てたね」


「北の道を知っているような言い方もしました」


 きぬが続ける。


「薬売りの話に、ほんの少し反応が遅れました」


 作兵衛は草履の泥の話をした。


「売り物の草履に新しい泥がついていた。北の泥かは分からん。ただ、置き草履にしては濡れが新しかった」


 女将は少し考えた。


「次に来たら、草履を一足買ってみるかね」


「買うんですか」


「買ったら裏が見える。履いた者の足も見える。買わないと、ずっと話だけだよ」


 もっともだ。


 ただし、買う人を選ぶ必要がある。


 清洲の者が買えば警戒される。


 茶屋の客が自然に買う形がいい。


 女将はそれを分かっている顔だった。


「私が買うと変かい?」


「少し」


 作兵衛が言う。


「茶屋のおかみが草履を買うのは自然だが、北を見てる草履売りから急に買うと、見ていると知らせるかもしれん」


「じゃあ、足が痛い客が買えばいい」


「そんな客が都合よく?」


 太助ならそう言いそうだ。


 だが、女将はあっさり答えた。


「茶屋に足が痛い客なんて、毎日いるよ」


 それもそうだった。


 茶屋は、足を休める場所だ。


 草履売りが来るのは、ある意味自然だった。


 だからこそ、入り込みやすい。


 清洲へ戻る前に、女将が言った。


「草履売りは、また来るよ」


「なぜ分かるんですか」


「今日は売らずに見てた。商いをしに来たなら、もっと粘る。見に来たなら、また来る」


「次はどうしますか」


「茶屋は茶屋のままにする。足が痛い客に、草履を買わせる。私は茶を出す。それだけ」


 それだけ。


 だが、その「それだけ」が難しい。


 清洲が前へ出れば、茶屋ではなくなる。


 茶屋が茶屋のままでいながら、草履売りを見る。


 北尾根観察線の目は、また少し細くなった。


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎がすぐ北尾根観察線帳を開いた。


 俺たちは順に報告した。


 草履売り、三十半ばほど。草履の質は悪くない。

 客の足元を見るのは自然。

 ただし北を複数回見る。白い枝・三つ石方向の疑い。

 「北へ行くなら足裏が薄いと泣く」「北は乾いてるくせに足を取る」「草が嘘をつく」など、北道を知る発言。

 「清洲の人も北へ」と探る発言。

 薬売りの話に一瞬反応遅れ。

 売り物の草履に新しい泥。由来不明。

 捕まえず。追わず。

 次回、茶屋の自然な客に一足買わせ、裏泥・作りを確認予定。

 茶屋は茶屋のまま。


 伊三郎は、最後の一文を丁寧に書いた。


 茶屋は茶屋のまま。


 弥助殿へ報告すると、彼はすぐには答えなかった。


 北尾根の地図を見て、白い枝と三つ石の印を指でなぞる。


「足の商いか」


「はい」


「薬で体を聞き、針で家を聞き、草履で道を聞く」


「そう見えます」


「よい。捕まえなかったのは正しい」


「次に買わせますか」


「茶屋の客として自然ならよい。清洲が買うな」


「はい」


「草履の裏を見ろ。泥だけでなく、どの道を歩くための草履かを見る」


「草履で分かりますか」


 弥助殿は作兵衛を見た。


 作兵衛が答える。


「分かることはある。山道用なら編みが少し違う。ぬかるみ用、石道用、長歩き用。全部同じじゃない」


「では、次はそこを見ます」


 弥助殿は頷いた。


「北尾根は、鳥だけではない。足も見ろ」


 鳥と足。


 北尾根観察線は、また見るものが増えた。


 夜、清洲蔵では北尾根用の歩き飯の欠片と、茶屋でもらった干し梅が出た。


 太助は留守番だったが、報告を聞いて妙な顔をした。


「俺、行かなくてよかったかもしれません」


「なぜ?」


「草履売りに足元を見られたら、絶対文句言ってました」


 権六が笑った。


「言ったほうが情報取れたかもしれんぞ」


「俺の足を情報にしないでください」


 きぬが静かに言った。


「でも、草履売りは人の足から話を引き出すんですね」


 佐助が頷く。


「飯を食べれば腹の話が出ます。薬を買えば体の話。針を買えば家の話。草履を買えば道の話」


 伊三郎が筆を止めて言った。


「商いは、入口ですね」


「入口?」


「はい。敵かどうかは別として、商いは人の中へ入る入口になります」


 それは重要だった。


 清洲の飯線も、ある意味では人の中へ入る。


 飯を通すことで、村や渡し場や砦の腹へ入る。


 敵も同じだ。


 薬、針、草履。


 それぞれの入口から、人の腹へ入ろうとしている。


 権六が歩き飯を噛み、顔をしかめた。


「今日の飯は、草履の裏みたいな味だな」


「食べたことあるんですか」


 太助が言うと、権六は真面目に返した。


「ない。でも、そんな気がする」


 かやがいれば笑っただろう。


 今日は留守だが、皆少し笑った。


 俺は干し梅を噛んだ。


 酸っぱさが口に広がる。


 北尾根の乾いた飯には、これが必要だ。


 草履売りは、北を見すぎる。


 まだ敵と決まったわけではない。


 だが、ただの商人として見過ごすには、目が北へ向きすぎている。


 次は、草履そのものを見る。


 そして、草履売りが何を集めているのかを探る。


 北尾根観察線は、鳥から足へ広がった。


 飯を流さない線なのに、見なければならないものは増えていく。

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