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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百四話 山裾から来た、空籠の返事

 川道の待ち荷逃がしは、まだ仮だった。


 黄札が出た時だけ、低い縄を置く。

 荷を逃がす。

 終われば外す。

 空け札に戻す。


 言葉にすると簡単だ。


 だが、渡し場では何も簡単ではない。


 布包みと魚籠は並べにくい。

 清洲荷は端に置かないと市松が噛む。

 縄は高いと偉そうになる。

 低すぎると夕方に足を引っかける。

 荷を逃がせば、人の回り道が草深くなる。


 舟より先に、岸が揉める。


 その言葉は、もう川道腹帳の表に書かれていた。


 伊三郎は朝から、川道飯荷手間帳と文句腹帳を並べて唸っている。


「黄札は川の待て。ですが、待てと言うなら待つ場所が必要。待つ場所を作ると、今度は場所を取ったと言われる」


 権六が腕を組んで言った。


「それを面倒という」


「はい。面倒です」


 伊三郎は真顔で認めた。


 太助が隣で肩を回している。


「川道の荷、軽いのに気疲れするんだよな。細飯荷なのに、目が太い」


「目が太い?」


 かやが聞き返す。


「市松さんとか喜助さんとか、魚籠の人とか、みんな見てるから。荷は細いのに、見られ方が太い」


 権六がぽんと手を打った。


「いい文句だな」


「文句じゃない」


「いや、文句だ」


 伊三郎が筆を取った。


「またか……」


 太助は止める気力を失っていた。


 そんな時だった。


 茶屋からの連絡足が、清洲蔵へ駆け込んできた。


 持っていたのは、折り畳まれた薄い板と、小さな布包み。


 板には泥も水もついていない。


 丁寧に包まれていた。


「山裾からです」


 連絡足が言った。


「とめ婆様から、清吉さんへ」


 山裾。


 川道の縄と札で頭がいっぱいになっていた蔵の空気が、ふっと切り替わった。


 俺は布包みを受け取る。


 中から出てきたのは、村水火板の写しだった。


 前に見たものより、少し絵が増えている。


 水桶。

 火種。

 薪。

 井戸。

 針。

 そして、空籠。


 おきよの絵だ。


 最初より線がしっかりしている。


 空籠は、ちゃんと中が空だと分かるように描かれていた。


 籠の口が大きく開いていて、中には何もない。


 その横に、惣右衛門の字と思われる少し角ばった文字がある。


 飯荷は、村で決めるまで入れない。

 今は、まだ空籠。


 その下に、とめ婆様のものらしき短い書き添えがあった。


 針売りに見せた。

 村の者にも見せた。

 まだ空籠は、よく効く。


 権六が覗き込んで言った。


「効くって、薬みたいに書くな」


「でも、効いたんだろうな」


 かやは板を見て、少し嬉しそうに笑った。


「おきよさん、空籠うまくなったね」


「そこか?」


「そこも大事だよ。村の人が直してる板は、村のものになってるってことだから」


 きぬが針仕事の手を止め、そっと板の絵を見た。


「針の絵も残ってますね」


「針売りへの返事だからな」


「ええ。でも、針がもう噂の道具だけではなくなっています。村の目印になっています」


 なるほど。


 針売りが持ち込んだ針は、最初は不安を縫い込む道具だった。


 今は村水火板の絵になり、噂を見張る印になっている。


 針を取り返した、というきぬの言葉を思い出した。


 とめ婆様からの布包みには、もう一つ小さな紙が入っていた。


 これは、おきよの字ではない。


 おそらく、惣右衛門が代わりに書いたものだ。


 昨日、針売りが再び村の外へ来た。

 板を見て、村奥へは入らず。

 だが、こう言った。


 ――今は空籠でも、次は重い飯を隠して来る。


 蔵の中が静かになった。


 権六の顔から笑いが消える。


 太助も、さっきまでの文句を飲み込んだ。


 俺は紙を読み直した。


 今は空籠でも、次は重い飯を隠して来る。


 まただ。


 針売りは、村の言葉をすぐにひねってきた。


 まだ空籠。


 それは山裾の村にとって、清洲が飯荷を入れていない証だった。


 村の水と火を勝手に使っていない証だった。


 それを、針売りはこう変えた。


 今は空だが、次は隠して来る。


 空籠の信用を、次の重さへの恐怖に変えようとしている。


 かやが低く言った。


「早いね」


「うん」


 伊三郎は紙を見つめながら言った。


「こちらが言葉を置くと、敵はその言葉を使って返してきます」


「川道の青札と同じだな」


 作兵衛が言った。


「青札を清洲の青にしようとした。今度は空籠を、隠し荷にしようとしている」


 佐助が眉を寄せる。


「中身がないことを示すための空籠なのに、次は中身を隠すと言われる」


「嫌な言い方だ」


 権六が吐き捨てるように言った。


「でも、効くな。空の次は重いって、腹が勝手に考える」


 文句役らしい鋭さだった。


 女将が言っていたことを思い出す。


 待つ時間は、噂が座る場所になる。


 なら、空の籠にも噂が座る。


 今は空。

 では次は?


 その隙に、針売りは入り込んできた。


 紙の続きには、とめ婆様の返事も書かれていた。


 針売りには、こう返した。


 重い時は、村で測る。

 村が見ない荷は、村へ入れない。


 俺は思わず声に出して読んだ。


「重い時は、村で測る……」


 かやが目を上げた。


「強い」


 きぬも頷く。


「とめ婆様らしいですね」


 惣右衛門の字で、さらに説明が続く。


 清洲が隠すと言われたので、隠させないことにする。

 次に重し入り荷を入れるなら、清洲が測るのではなく、村の前で測る。

 とめ婆、惣右衛門、女衆、男衆、子どもも見られる場所で、荷の幅、重さ、匂いを確かめる。

 飯ではなく、まず重しで。

 それで村が嫌なら、入れない。


 伊三郎が、ゆっくり息を吐いた。


「山裾の次の試験が、村側から出ましたね」


「村が測る荷」


 俺が言うと、権六がすぐ反応した。


「また題みたいな言葉が出たな」


「これは題じゃなくて、次の仕事だ」


 かやは板を見たまま言った。


「でも、大事だね。清洲が『このくらいなら大丈夫です』って言うより、村が『このくらいなら通していい』って言うほうが強い」


 佐助が少し不安そうに言った。


「ただ、荷を見せすぎると、敵にも伝わります。どれくらいの重さで、どの道を通るか」


 作兵衛が頷く。


「そこだ。見せないと信用されない。見せすぎると敵に読まれる」


 山裾村線は、また細いところへ来た。


 村の前で測る。


 それは信用になる。


 だが、情報にもなる。


 針売りが近くで見ていたら、清洲がどんな荷をどれくらい持ち込むかを知るかもしれない。


 とめ婆様は「隠されるよりまし」と言うだろう。


 実際、隠せば針売りの言葉が勝つ。


 清洲は重い飯を隠して来る。


 その噂に対して、隠していないと見せるには、村の前で測るしかない。


 弥助殿に報告すると、彼は板と紙をじっくり読んだ。


 いつもより長く黙っていた。


 そして言った。


「とめ婆は強いな」


「はい」


「村が測る荷、よい。だが、作兵衛の言う通り、見せすぎるな」


「どこまで見せるべきでしょうか」


「村が不安に思うところだけ見せる」


「不安に思うところ」


「重さ、幅、匂い、時刻。水桶に触れぬか。火を使わぬか。女衆の道を塞がぬか。そこだ。中身の細かい内訳までは見せる必要はない」


 伊三郎が書く。


 村測り試験項目。

 重さ。

 幅。

 匂い。

 時刻。

 水火不使用。

 道塞ぎの有無。


 弥助殿は続けた。


「飯ではなく重しでやれ。だが、重しでも本荷に近い形にしろ」


「はい」


「村の石は使うな」


「とめ婆様にも言われています」


「よい。持ち込め」


「はい」


「針売りが見ている前提で動け。だが、針売りを追うな」


 また同じだ。


 追わない。


 捕まえない。


 糸を切らない。


 敵の言葉を見続ける。


 弥助殿は最後に言った。


「今日、川道のことは止めるな。待ち荷逃がしも進めろ。だが、山裾への返事を先に出せ」


「先に、ですか」


「村が動いた時に、清洲の返事が遅いと不安が戻る」


 その通りだった。


 村が「測る」と言った。


 その返事を待っている。


 ここで清洲が迷って黙れば、針売りはまた言うだろう。


 ほら、清洲は測らせたくないのだ。


 だから、すぐ返す。


 ただし、軽く返しすぎない。


 俺たちは、その場で返事の文を作った。


 清洲は、村で測る荷を受ける。

 飯ではなく、重し入り荷で行う。

 村の水、火、石、薪は使わない。

 とめ婆、惣右衛門、女衆、男衆が見る前で測る。

 荷の幅、重さ、匂い、通る時刻を見てもらう。

 村が嫌なら入れない。

 清洲は隠して入れない。


 伊三郎が書いた文は、少し硬かった。


 かやがそれを見て言った。


「村の人に渡すには、最後が硬い」


「どこでしょう」


「清洲は隠して入れない、だけだと少し怖い。『隠さないために測ってもらう』のほうがいい」


 きぬも頷いた。


「そうですね。疑いを否定するだけでなく、村が確かめるためだと分かるほうがいいです」


 伊三郎は書き直した。


 隠さないため、村に測ってもらう。


 短い。


 腹に入りやすい。


 権六が読んで頷いた。


「いいな。隠すなって怒るより、測れって言うほうが強い」


「権六殿が言うと説得力があります」


 伊三郎が真顔で言う。


「俺、そんなに隠し事しそうか?」


「文句を隠さなそうという意味です」


「ならいい」


 返事はすぐ茶屋経由で山裾へ送った。


 だが、これだけでは終わらない。


 山裾から来た板写しを、清洲蔵の村腹帳へ入れる。


 針売りの新しい言葉を、噂腹帳へ入れる。


 空籠から測り荷への変化を、山裾線帳へ入れる。


 伊三郎は忙しく筆を動かした。


 それを見て、太助が小声で言う。


「また帳面が増える」


「腹帳がなければ、川道と山裾が別々に見えてしまいます」


 伊三郎は書きながら答えた。


「実際には、同じです。札の意味をねじる。空籠の意味をねじる。敵は、こちらの約束を使って噂を作っています」


「約束を作ると狙われるんだな」


 太助が言った。


 俺は頷いた。


「でも、約束がなければ、もっと好きに噂を作られる」


 かやが続ける。


「約束は狙われる。でも、約束があるから取り返せる」


 それが今の実感だった。


 青札も、空籠も、狙われた。


 だが、青札の本当の意味があったから取り返せた。


 空籠も、村の板に描かれていたから、村が返事を作れた。


 約束は弱点にもなる。


 でも、足場にもなる。


 午後、川道からも連絡が来た。


 喜助からの短い札だ。


 黄札時、待ち荷逃がしを再度試した。

 清洲荷なし。客荷三。

 人の回り道、草を少し踏む。

 市松、草を道にするなと文句。

 若商人、箱は助かると発言。

 魚籠、風下を求む。

 赤札への切り替えはなし。


 山裾の板写しと、川道の待ち荷逃がし。


 別々の話なのに、同じ日に来る。


 複数線とは、こういうことなのだろう。


 一つの問題を解いている間に、別の腹が鳴る。


 伊三郎は線帳と腹帳を使って整理した。


「川道は待ち場。山裾は測り荷。どちらも、場所を誰のものにするかが問題です」


「場所?」


「待ち荷逃がしは、清洲の場所にしてはいけない。山裾の測り場も、清洲の場にしてはいけない。村の前で、村が見る場にする必要があります」


 なるほど。


 川道は、渡し場の場所。

 山裾は、村の場所。


 清洲が場所を取ると、噂になる。


 清洲が場所を借りる形にすれば、約束になる。


 夕方近く、山裾から返事が戻った。


 早い。


 おきよが描いた小さな空籠の絵が添えられていた。


 中には、今度は石が一つ描かれている。


 空籠ではない。


 測る荷の印だろう。


 とめ婆様の言葉が書き添えられている。


 よし。

 隠さないなら、村で測る。

 石を入れるなら、石も見せる。

 ただし、飯ではないこと。

 水桶の前ではなく、糸干し場の横で測る。

 子どもも見るから、怖い顔で来るな。


 最後の一文に、蔵の皆が少し笑った。


 怖い顔で来るな。


 太助が俺を見た。


「清吉、気をつけろよ」


「俺、そんなに怖い顔してるか?」


 かやが少し考えて言った。


「考え込むと、煮詰まった顔になる」


「焦げてるって前にも言われたな」


「今日は焦がさないで」


 山裾の測り荷試験は、決まった。


 飯ではなく重し入り荷。


 糸干し場の横。


 とめ婆様、惣右衛門、女衆、男衆、子どもも見る。


 荷の幅、重さ、匂い、時刻を見る。


 村が嫌なら入れない。


 清洲は怖い顔で来ない。


 最後は冗談のようだが、たぶん大事だ。


 清洲がいかにも軍の顔で行けば、それだけで針売りの噂に近づく。


 村の暮らしの中へ入るなら、顔つきまで気をつけなければならない。


 夜、清洲蔵では山裾用の火なし飯と、川道用の厚味噌片湯が並んだ。


 山裾の飯は、まだ本荷にはならない。


 川道の飯は、細飯荷として動き始めている。


 権六が火なし飯を噛んで言った。


「今日の山裾飯は、まだ石の味だな」


「石は入ってないぞ」


「分かってる。飯になる前に測られる味だ」


 川道の厚味噌片湯をすすって、今度は言った。


「こっちは待ち縄の味」


「昨日も縄の味って言ってなかったか」


「昨日より少し低い縄だ」


 かやが笑った。


「権六、味の文句が細かくなってる」


「文句役だからな」


 きぬは、山裾から来た空籠の絵を見ながら言った。


「おきよさんの絵、だんだん言葉になっていますね」


「絵が言葉?」


「はい。空籠も、石入り籠も、見れば分かります。針売りの文字より、村の絵のほうが強くなってきている気がします」


 その通りかもしれない。


 針売りは紙の裏に言葉を忍ばせた。


 村は板の表に絵を描いた。


 隠す言葉と、見せる絵。


 どちらが強いかは、まだ分からない。


 だが、山裾の村は自分たちの返事を持ち始めている。


 空籠の次は、村が測る荷。


 清洲が隠さないために、村が見る。


 それは、山裾村線が飯荷投入の一歩手前まで来たということだった。

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