第百三話 待ち荷場は、舟より先に揉める
黄札の問題は、札そのものだけでは終わらなかった。
青は清洲の青ではない。
黄は川の待て。清洲の待てではない。
赤は川の戸締まり。誰も渡らない。
そこまでは、何とか渡し場の腹へ落ち始めた。
だが、黄札が出れば、人も荷も待つ。
待つなら、置く場所が要る。
これが厄介だった。
舟は一つだ。
川は一つだ。
だが、岸には客の荷があり、魚籠があり、布包みがあり、清洲の細飯荷もある。
舟に乗る前から、すでに揉め事は始まっていた。
清洲蔵では、朝からかやが縄を広げていた。
短い縄。
細い縄。
濡れてもほどける縄。
足に引っかかりにくい縄。
色の薄い縄。
どれを見ても、ただの縄だ。
だが、今日はその縄が川道の腹を左右する。
「清洲の印は付けない」
かやが最初に言った。
「付けたら、清洲の場所になる」
「じゃあ、誰の縄にするんだ」
権六が聞く。
「渡し場の縄」
「でも清洲が持っていくんだろ」
「だから、喜助さんに預ける形にする。ただし、清洲荷がある時は清洲が手伝って張る。喜助さん一人に背負わせない」
伊三郎が板に書いた。
待ち縄案。
一、常設しない。
二、清洲印を付けない。
三、黄札時のみ出す。
四、客荷優先。
五、終われば外す。
六、通り道を塞がない。
七、舟引き縄の邪魔をしない。
七まで来たところで、太助が顔をしかめた。
「また多い」
「多いです」
伊三郎はもう堂々としている。
「待つ場所は、舟より先に揉めます」
「それ、今日の題みたいだな」
権六が言うと、伊三郎は真面目に頷いた。
「その通りです」
佐助は、待ち荷場用の敷きを用意していた。
清洲の印はない。
無地の古い布を洗い、乾かし、端を少し縫い直したものだ。
ただ、問題がある。
「これは、清洲が用意した布です」
佐助が言った。
「印がなくても、清洲の者が出せば清洲の布に見えます」
「じゃあ駄目じゃないか」
太助が言う。
「駄目ではありません。ただ、渡し場のものとして使うには、喜助さんや市松さんに確認が要ります」
きぬが布の端を見ながら言った。
「布に何も書かないのはいいですね。けれど、真新しすぎると逆に目立ちます」
「古いほうがいいのか」
「渡し場に馴染むくらいがいいです」
飯線の道具は、新しければいいわけではない。
川道では、目立たないことも大事だった。
清洲が作った立派な待ち荷場など置けば、敵の噂紙が喜ぶ。
――清洲、渡し場に軍荷置き場を作る。
目に浮かぶ。
そんな紙は見たくない。
弥助殿は、待ち縄案を見て言った。
「空け札を作れ」
「空け札?」
「使っていない時に、ここは清洲の場所ではないと示す札だ」
俺は少し考えた。
使う時だけ待ち荷場になる。
終わればただの岸に戻る。
それを見せる札。
「何と書けば」
伊三郎が聞くと、弥助殿は短く答えた。
「空け」
「一字ですか」
「一字でいい。長いと読まん」
伊三郎は少し悔しそうにしながらも、「空け」と書いた。
たしかに分かりやすい。
待ち縄が張られていない時、そこには「空け」の札を立てる。
つまり、荷を置く場所ではなく、空けておく場所だ。
黄札が出た時だけ、喜助の判断で縄を張り、短時間だけ荷を置く。
終われば縄を外し、空け札に戻す。
清洲の場所ではない。
客の場所でもない。
渡し場が動くために空けておく場所。
それが、今日の試みだった。
川道へ向かう荷は、また飯ではなかった。
待ち縄。
空け札。
無印の敷き布。
湿り確認用の包み。
小さな木杭二本。
そして、川道飯荷手間帳の写し。
飯を運ばない日ほど、道具が増える。
太助がぼやいた。
「飯線なのに飯以外の荷が多い」
権六がすぐ返す。
「飯を通すための飯じゃない荷だ」
「それ、分かるような分からないような」
「俺も言ってから少し分からない」
皆が笑った。
茶屋に寄ると、女将が待ち縄を見て言った。
「縄は怖いよ」
「怖い?」
「縄を張ると、そこは誰かの場所になる。人は縄に弱い。越えていいのか悪いのか分からなくなる」
なるほど。
待ち縄は、荷を守るためのものだ。
だが、見方を変えれば、場所を囲うものでもある。
清洲が縄を張れば、清洲が渡し場を囲ったように見える。
女将は続けた。
「張るなら、低く、短く、すぐ外せるようにしな。偉そうな縄は嫌われる」
「偉そうな縄」
「あるよ。見れば分かる」
また妙に分かる言葉だった。
かやが真剣に頷いた。
「偉そうじゃない縄にします」
「それが難しいんだけどね」
川道に着くと、喜助はすでに待っていた。
市松もいる。
魚籠の男も、若い商人もいた。
前回、箱を置く場所に困った若い商人だ。
彼は俺たちの荷を見るなり、少し身構えた。
「今日は、場所を作るんですか」
「作るというより、黄札の時だけ仮に借りる形を試します」
俺が答えると、市松がすぐ言った。
「ほら、そういう言い方がもう怪しい」
「怪しいですか」
「場所を作るでもなく、借りるでもなく、黄札の間だけ使う。短く言え」
難しい。
かやが少し考えて言った。
「川待ちの間だけ、荷を逃がす場所」
市松は顎に手を当てた。
「少し長いが、悪くない」
喜助が言った。
「俺は『待ち荷逃がし』でいいと思う」
「また名前が」
太助が呟く。
しかし、分かりやすい。
待ち荷場、というと場所を取る感じがする。
待ち荷逃がし、なら一時的に荷を逃がすだけだと伝わる。
市松も頷いた。
「待ち荷場よりはいい。場と言うと、場所を取られた感じがする」
言葉一つで、腹の受け取り方が変わる。
伊三郎がいれば喜んで書いただろう。
今日は俺が書いた。
渡し場口語、待ち荷逃がし。
まず、場所を決めることになった。
舟着きのすぐ脇は駄目だ。
舟引き縄の邪魔になる。
小屋の横も駄目だ。
喜助の道具がある。
通り道も駄目。
魚籠が通る。
水際に近すぎると、荷が濡れる。
遠すぎると、次に渡る時に遅れる。
「ここしかないな」
喜助が指したのは、少し高くなった草地の端だった。
前回、仮に清洲の敷き布を置いた場所に近い。
ただし、少しだけ通り道から外れている。
足元は湿っているが、水溜まりではない。
市松が歩いて確認した。
「布なら置ける。箱も置ける。魚籠は……」
魚籠の男が籠を持って試す。
「置けるが、長くは嫌だな。魚の水が草にこぼれる」
喜助が頷く。
「魚籠は別に考える」
「別?」
俺が聞くと、魚籠の男が言った。
「魚籠は風が要る。布と一緒に置くと嫌がられる」
たしかに、布商人の市松が嫌そうな顔をしている。
待ち荷にも種類がある。
布。
箱。
魚籠。
清洲の飯荷。
全部同じ場所に置けるとは限らない。
「待ち荷逃がしも、一つでは足りない?」
かやが言った。
市松がすぐ返す。
「増やすな。場所を取り始める」
「じゃあ、同じ場所を使うけど、置く順と端を分ける」
「魚籠は風下」
魚籠の男が言った。
「布の横に置くな」
「飯荷は?」
太助が聞く。
市松が即答した。
「布の上に味噌臭いものを置くな」
「置かない」
俺は慌てて答えた。
かやが地面を見ながら言う。
「小さく三つに分けるのはどうかな。縄で囲わず、縄を一本だけ置いて、左右で分かるようにする。布・箱側、魚籠側、清洲荷側。ただし、清洲荷側は一番端」
市松が目を細める。
「清洲荷側を端にするなら、まあ」
喜助が言った。
「端でも、水に近すぎるな。濡れると面倒だ」
「では、清洲荷は一番後ろ。渡す時に少し遅れますが」
俺が言うと、市松が満足そうに頷いた。
「そのくらいでいい。細飯荷だろ」
細飯荷は、待ち荷でも細い顔をする。
それが川道の約束だ。
待ち縄を張ってみる。
最初にかやが張った縄は、少し高かった。
市松がすぐ言う。
「偉そうだ」
茶屋の女将と同じ言い方だった。
「やっぱり分かりますか」
「分かる。足を止めろって言われてる気がする」
かやは縄を低くした。
地面に近く、荷の置き場の目安になる程度。
人を遮る高さではない。
「これは?」
市松が少し歩いて確認する。
「まだ見える。だが、威張ってない」
喜助も頷いた。
「これならいい。だが、暗くなると足に引っかかる」
「夕方は使わない?」
「使うなら札か小枝を立てろ。足元だけの縄は危ない」
また条件が増える。
待ち縄は、昼なら使える。
夕方は危ない。
川道は時刻で変わる。
川だけでなく、岸もだ。
次に空け札を試す。
待ち縄を外した後、その場所に小さな板を置く。
空け。
市松が読んで笑った。
「一字か」
「弥助殿の案です」
「いい。分かる。ここは空けろってことだな」
若い商人が聞いた。
「普段は荷を置くな、という意味ですか」
「そうです」
喜助が答えた。
「黄札の時だけ、俺が使うと言う。普段は空ける」
「清洲の場所ではない?」
若い商人が念を押す。
市松が先に答えた。
「清洲の場所なら、俺がこの札を川に投げる」
「投げないでください」
俺が言うと、市松は鼻で笑った。
「投げられたくなければ、清洲の場所にするな」
分かりやすい抑えだった。
喜助が青札を出して、普通の客を一度渡した。
その後、上流から草が少し流れ、喜助は黄札を出した。
「黄。待て」
実地の試しが始まった。
黄札が出ると、待ち縄を張る。
ただし、喜助の指示で。
かやと太助が縄を置く。
張るというより、置くに近い。
低く、短く、偉そうにしない。
敷き布を一枚、縄の内側に置く。
無印の布だ。
まず若い商人の箱を置く。
次に市松の布包み。
魚籠は風下側。
清洲の濡れ荷見本は一番端。
その様子を、皆で見る。
通り道は塞がっていない。
舟引き縄にも触れていない。
小屋の道具にもかからない。
ただ、問題は出た。
農夫が一人、荷を持たずに通ろうとして、空け札の位置で足を止めた。
「ここ、通っていいのか?」
市松がすぐ言った。
「今日は黄札だから荷置きだ。奥を通れ」
農夫は少し困った顔で奥を回った。
奥は少し草が深い。
「人の通り道が遠くなる」
作兵衛が言った。
かやが頷く。
「荷は逃がせたけど、人を少し逃がしてる」
「それが文句になる」
市松が言った。
「荷を置くなら、人が回る道も作れ。でないと、荷は助かって人が怒る」
待ち荷逃がしの次は、人の逃げ道。
岸は狭い。
舟より先に岸が詰まる、という喜助の言葉が腹に落ちる。
俺は書いた。
待ち荷逃がし設置時、人の回り道必要。草深い。荷は助かるが人が怒る恐れ。
喜助が川を見ながら言った。
「長く待つと、さらに悪い」
「なぜ」
「人が増える。荷も増える。縄が低くても、場所は場所だ」
黄札が長引けば、待ち荷逃がしは足りなくなる。
短い黄なら有効。
長い黄なら、赤にして渡し場全体を止めたほうがいいのかもしれない。
その判断も喜助にかかる。
「黄が長い時の決まりも要りますね」
俺が言うと、市松が渋い顔をした。
「また札か」
「たぶん」
「待つ札の次に、待ちすぎ札か?」
冗談のようで、必要かもしれない。
喜助が言った。
「黄が長いなら、赤にする。渡し場を動かさない。荷もこれ以上置かせない」
「赤は川の戸締まり」
太助が言う。
「岸の戸締まりにもなるのか」
喜助は頷いた。
「なる。川だけじゃない。岸も閉める」
赤札の意味が少し広がった。
川が危ない時だけでなく、岸が詰まりすぎる時にも赤へ近づく。
これは大きい。
待ち荷場は、ただ便利な場所ではない。
黄を長引かせるか、赤へ切り替えるかの判断にも関わる。
しばらくして、水の動きが落ち着いた。
喜助は青札を出す。
「青。渡し可。荷は順に」
待ち縄を外す。
敷き布を畳む。
空け札を戻す。
待ち荷逃がしは消えた。
さっきまで荷置きだった場所が、ただの岸に戻る。
市松がそれを見て言った。
「消えるのはいいな」
「消えることが大事ですね」
「そうだ。残る場所は揉める」
若い商人も頷いた。
「箱は助かりました。ただ、人が回りにくいのは気になりました」
魚籠の男が言う。
「魚籠は風下なら何とか。でも長い待ちは嫌だ」
農夫は草を払いながら言った。
「回る道の草を少し踏んでおいたほうがいい」
喜助が首を振る。
「踏みすぎると道になる」
「道になると駄目なのか」
「そこを通れと言われるようになる。渡し場が狭くなる」
草一本、道一本まで問題になる。
川道は、本当に細い。
最後に、市松が俺へ言った。
「今日の待ち荷逃がしは、仮ならよし」
「正式には?」
「まだ駄目だ。人の回り道が弱い。あと、清洲荷がある日にも試せ。今日は清洲荷が見本だけだった」
「分かりました」
「それと、空け札は良い。あれがないと場所を取ったと思われる」
「弥助殿の案です」
「さすがだな。悔しいが」
市松が悔しがる理由はよく分からない。
だが、褒めているのは分かった。
清洲へ戻ると、報告は長くなった。
伊三郎は、途中で一度筆を置いて手を揉んだ。
「多いですね」
「多いです」
「ですが、必要です」
「はい」
記録はこうまとまった。
待ち縄、低く短く。偉そうな縄不可。
黄札時のみ、喜助判断で設置。
空け札、一字で有効。普段は空ける場所と示す。
待ち荷逃がし、口語として有効。
布・箱、魚籠、清洲荷の置き分け必要。清洲荷は端。
清洲印不可。渡し場用敷きが必要。
人の回り道が弱い。荷は助かるが人が怒る恐れ。
黄が長引く場合、赤への切り替え検討。岸の戸締まり。
正式化はまだ不可。清洲荷ありの日に再試験。
弥助殿は報告を聞き、頷いた。
「よい。まだ正式にするな」
「はい」
「待ち荷場ではなく、待ち荷逃がし。言葉もよい。場所を取るな。逃がすだけだ」
「はい」
「次は清洲荷ありで試せ。だが、量は増やすな」
「承知しました」
夜、清洲蔵では川道用の厚味噌片湯を作った。
黄札で待った後のように、少しぬるめだった。
権六がすすって言った。
「今日の飯は、縄の味がするな」
「縄?」
「縛られるんじゃなくて、ちょっとだけ置き場所を教えられる味」
かやが笑った。
「偉そうじゃない縄の味?」
「そう。偉そうじゃない縄味」
「美味しくなさそう」
佐助は真面目に考え込んだ。
「縄味は避けたいです」
「本気にするな」
皆が笑った。
だが、笑いながらも、次の課題ははっきりしていた。
待ち荷逃がしは使える。
ただし、仮。
人の回り道が弱い。
荷の種類で置き分けが必要。
清洲荷がある日に試していない。
黄が長引く時は赤にする判断もいる。
舟より先に、岸が揉める。
それを今日、全員が見た。
川道はまた一つ、細い約束を増やした。




