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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百二話 黄札の待ては、誰のためか

 黄札は、見た目だけなら優しい色をしている。


 青より柔らかく、赤ほど怖くない。


 だが、渡し場では一番腹に来る札だった。


 青は渡れる。


 赤は渡れない。


 そこは分かりやすい。


 しかし、黄は待て。


 待てと言われた者は、必ず理由を探す。


 なぜ待つ。

 誰のために待つ。

 どれくらい待つ。

 待っている間、荷はどうなる。

 商いはどうなる。

 飯荷はどうなる。


 黄札は、川のための札だ。


 だが、敵がそこを放っておくはずがなかった。


 青札を「清洲が先に渡る札」にねじ曲げようとした次は、黄札を「客を待たせる札」に変えようとしてくる。


 弥助殿も、茶屋の女将も、市松も、同じことを言った。


 だから、来るとは思っていた。


 思っていたが、実際に見ると、やはり腹が冷えた。


 その朝、川道の連絡足が清洲蔵へ持ち帰ったのは、小さな紙片だった。


 渡し場近くの石の下に挟まれていたという。


 字は前の木札より少し丁寧だった。


 黄札は客を待たせる札。

 清洲の飯荷が来るまで、客は岸で待て。


 権六がそれを読んで、低く言った。


「予想通り腹立つな」


「予想通りなのに、腹立つんだね」


 太助が言うと、権六は紙片を睨んだまま答えた。


「予想通りに嫌なことをされると、余計腹立つ」


「それは分かる」


 俺も分かった。


 敵の書き方はうまい。


 黄札を否定していない。


 黄札は待つ札。


 それ自体は本当だ。


 その本当の言葉の後ろに、「清洲の飯荷が来るまで」と嘘を縫い込んでいる。


 山裾の針包みと同じだ。


 まったくの嘘ではないから、腹に刺さる。


「今日は飯荷を持たない」


 俺は言った。


「黄札の意味を見せる日です」


 佐助が頷いた。


「飯を持つと、紙の言葉に寄ってしまいますね」


「うん。清洲の飯荷が来るまで客を待たせる、と書かれている日に飯荷を持っていくのはまずい」


 かやが小台を見ながら言った。


「でも、待ち荷場の話は出ると思うよ」


「分かってる」


 前回、若い商人が言った。


 待つのはいいが、荷を置く場所がない。


 黄札が本当に川のための札だと見せても、待つ場所がなければ文句は残る。


 文句が残れば、敵の紙がそこへ入り込む。


 清洲が客を待たせている。


 待つ荷が邪魔になる。


 飯荷のために岸が塞がる。


 そういう噂に育つ。


 伊三郎は、三枚の短板を確認していた。


 青は清洲の青ではない。青は川が渡れる印。

 黄は川の待て。清洲の待てではない。

 赤は川の戸締まり。誰も渡らない。


 それに加えて、今日のために一行足していた。


 黄札の時は、清洲も待つ。


「これ、大事ですね」


 太助が言った。


「客だけ待つんじゃなくて、清洲も待つ」


「はい」


 伊三郎が頷く。


「黄札は、客を待たせる札ではありません。川の都合で、全員が待つ札です」


 権六が腕を組んだ。


「全員が待つって、言うのは簡単だが、実際に待たされると腹が立つ」


「その腹立ちも必要です」


 伊三郎は真面目に答えた。


「腹立ちまで必要なのかよ」


「黄札の本当の重さを知るには」


 権六は一瞬黙り、それから苦笑した。


「おまえも言うようになったな」


 川道へ向かう一行は少なかった。


 俺、かや、作兵衛、太助、小平。


 護衛二人。


 佐助は清洲に残る。


 今日は飯そのものの試験ではなく、札の意味と待ち場を見る日だからだ。


 ただし、佐助から一つ小さな包みを渡された。


「これは食べるためではありません。待つ荷の見本です」


 中には、湿気に弱い外竹皮と、乾いた笹が入っている。


 濡れやすい荷を待たせると、どうなるか見るためのものだ。


「今日、待ち荷場の話が出たら使ってください」


「分かった」


「でも、川に落とさないでください」


「落とさない」


 佐助は本気で心配していた。


 川道の荷は、味噌より前に包みが戦う。


 茶屋へ寄ると、女将は紙片を見て、すぐ眉を寄せた。


「黄を来たね」


「来ました」


「待たせる札、か。嫌なところを突くね」


「やっぱり効きますか」


「効くよ。待つのは、誰でも嫌だから。しかも待っている間、人は余計なことを考える」


「余計なこと?」


「なぜ自分だけ待つのか、とか。誰が得してるのか、とか。待つ時間は、噂が座る場所になる」


 また、腹に残る言葉だった。


 待つ時間は、噂が座る場所。


 なら、黄札には、待つ理由と待つ場所が必要だ。


 理由がなければ噂が座る。

 場所がなければ荷が邪魔になる。


 茶屋を出て、川へ向かった。


 渡し場に着くと、すでに市松がいた。


 今日は布包みが三つ。


 多い。


 それだけで、彼が待たされたら文句を言う準備をしているように見えた。


「来たな、清洲」


「今日は飯荷はありません」


「知ってる。だから来た」


「だから?」


「黄札の噂を聞いた。飯荷がない日に黄札が出るか見たかった」


 市松らしい。


 疑うだけでなく、見に来る。


 喜助は舟の脇で縄を直していた。


 顔はいつもより険しい。


「紙は見たか」


「はい」


「黄札を汚された」


 喜助の声には、怒りがあった。


 青札の時よりも強い。


 黄札は、喜助にとって大事なのだろう。


 水の変化を見て、皆を止める札。


 それを清洲の都合にされるのは、川を見る者として許せないに違いない。


「今日は、黄札の意味を見せます」


 俺が言うと、喜助は頷いた。


「ちょうどいい」


「え?」


「水が悪い」


 喜助は川面を指した。


 俺には、そこまで悪く見えない。


 だが、細い泡が昨日より多い。


 上流から、草も流れている。


 水面の色も、少し濁っているように見えた。


「雨は?」


「上で降ったんだろう」


 喜助は黄札を手に取った。


「今日は出るぞ」


 渡し場には、市松のほかに、若い商人が一人、農夫が一人、魚籠の男がいた。


 向こう岸にも、二人ほど人影がある。


 清洲の飯荷はない。


 この状況で黄札が出るなら、紙片の嘘は弱くなる。


 喜助は川をもう一度見た。


 そして、黄札を掲げた。


「黄。待て」


 市松が腕を組んだ。


「誰が待つ」


「全員だ」


 喜助の声は大きくはないが、よく通った。


「水が動いてる。今すぐ転ぶ川じゃない。だが、荷を載せて出すには待て。客も清洲も待て。清洲の飯荷は今日はないが、それでも待て」


 魚籠の男が少し顔をしかめた。


「魚が弱る」


「分かってる。だから見る。すぐ駄目なら赤にする。いけるなら青に戻す」


「どれくらいだ」


「分からん。川に聞け」


 ぶっきらぼうだが、嘘がない。


 市松が横で言った。


「ほらな。清洲の飯荷はない。なのに黄札だ。待たせてるのは清洲じゃない。川だ」


 若い商人が不満そうに言った。


「川に文句を言っても返ってこない」


「だから喜助に言うんだよ」


 市松が返す。


「言われる俺の身にもなれ」


 喜助がぼそっと言うと、少し笑いが出た。


 笑いは大事だ。


 待つ時間の隙間に、噂ではなく笑いが入る。


 だが、すぐ別の問題が出た。


 若い商人が持っていた箱を地面へ置こうとして、手を止めた。


「ここ、湿ってるな」


 魚籠の男が、自分の籠を脇へ寄せる。


「そこは通り道だ。置くと邪魔だ」


「では、どこへ置けと」


 若い商人の声に苛立ちが混じる。


 市松がちらりと俺を見た。


「来たぞ」


「はい」


 待ち荷場。


 黄札そのものの意味は見せられた。


 しかし、待つ荷の置き場がない。


 川のために待つのだとしても、待つ間に荷が傷めば、客の腹は荒れる。


 俺は佐助から預かった濡れ荷見本を出した。


「今日、これを見るために持ってきました」


 若い商人が怪訝そうに見る。


「何ですか」


「湿気に弱い包みです。待つ場所が悪いと、こういう荷も傷みます。清洲の飯荷も同じです」


 市松が頷く。


「清洲だけの話じゃない。俺の布も、魚籠の魚も、あいつの箱も、待つ場所が悪けりゃ傷む」


 魚籠の男が言った。


「魚籠は水に濡れるのが仕事だが、置き場所はいる。通り道に置くと蹴られる」


 若い商人は箱を抱えたまま言った。


「待てと言われて、置くなと言われて、では困ります」


 その声は強かった。


 文句として正しい。


 俺は小帳面に書く。


 黄札時、待ち荷場不足。湿り、通行邪魔、荷傷み。清洲飯荷だけでなく客荷全般。


 かやが渡し場を見回した。


 舟着きの近くは狭い。

 小屋の脇には縄や道具がある。

 少し離れた場所は草が湿っている。

 石のある場所は足場が悪い。

 通り道を塞げば、客が困る。


「清洲用の場所を作ると駄目だね」


 かやが言った。


 市松がすぐ反応した。


「当たり前だ。清洲の待ち場なんか作ったら、次は客の荷が押し出される」


「だから、清洲用じゃなく、黄札の時に皆が一時使える場所が必要」


「皆?」


「はい。客の荷も、清洲の荷も。ただし、客優先」


 喜助が腕を組む。


「固定の台は駄目だ。渡し場が狭くなる」


「使う時だけ、縄で区切るのはどうでしょう」


 かやが短縄を出した。


 細い縄だ。


 小台ほど場所を取らない。


 待つ荷を置く時だけ、低く張る。


 終われば外す。


「待ち縄か」


 市松が言った。


「悪くない。だが、縄を張ると清洲が場所を取ったように見える」


「そこが難しい」


 かやは頷いた。


「だから、縄には清洲の印をつけない。喜助さんが出す黄札の時だけ。しかも、最初に客荷を置く」


 喜助が少し考えた。


「俺が張るのか」


「喜助さん一人に背負わせるのは駄目です」


 俺は言った。


「清洲荷がある時は清洲が張る。ただし、喜助殿の指示で。客だけの日は、喜助殿が必要なら張る」


 市松が言う。


「その時の手間は?」


「川道飯荷手間帳に書きます。客だけの日の手間も、喜助殿の通常渡しの中でどう扱うか考えます」


「また帳面か」


「はい」


「嫌いじゃないが、増えすぎるな」


 伊三郎がいないのに、言われてしまった。


 若い商人が箱を抱え直した。


「今日は、どこへ置けばいいんです」


 今すぐの問題だ。


 案を語るより、今の荷を置く場所が要る。


 喜助が小屋の脇を見た。


「そこは縄がある。駄目だ」


 魚籠の男が言う。


「石の上は?」


「箱が傾く」


 かやが草の低い場所へ歩いた。


 手で触る。


「ここ、湿ってるけど、敷き布があれば置けるかも。ただ、通り道から少し外れてる」


 市松が布包みを抱えて近づいた。


「俺の布は置きたくない」


「では、試しに清洲の見本を置きます」


 佐助の濡れ荷見本を、敷き布の上に置く。


 すぐには湿らない。


 だが、長く置けば危ない。


「短時間なら」


 かやが言う。


「黄札の待ちが長くなったら?」


 市松が聞く。


「別の場所が要ります」


「つまり、ここは仮だな」


「はい。仮待ち荷場」


 また名前が出た。


 市松は不満そうだが、頷いた。


「今日のところは、そこに箱を置け。敷き布は清洲のか?」


「はい」


「客の荷を置くなら、清洲の布を使うのは嫌がる奴もいるぞ」


 なるほど。


 清洲の布の上に客荷を置くと、清洲に預けたように見える。


 それが嫌な者もいる。


 若い商人は少し迷い、それでも箱を置いた。


「今日は置かせてもらいます。でも、確かに清洲の布と言われると少し気になります」


 いい文句だった。


 待ち荷場は、場所だけではない。


 敷く布の持ち主まで問題になる。


 市松が言った。


「渡し場用の敷きが要る。清洲用じゃなく、渡し場用だ」


 喜助が嫌そうな顔をする。


「また道具が増える」


「増えるが、清洲の布よりましだろ」


「まあな」


 俺は書いた。


 待ち荷場敷き、清洲印不可。渡し場用が望ましい。客が預けた感を嫌う。


 黄札の待ちは、思ったより長くなった。


 川はすぐには落ち着かなかった。


 市松は何度も川を見ては、喜助を見た。


「まだか」


「まだだ」


「布が泣く」


「川に言え」


「川は返事しない」


「俺も同じことばかりは返事しない」


 そんなやり取りをしながらも、市松は無理に渡せとは言わなかった。


 前回までの説明が効いているのだろう。


 黄は川の待て。


 清洲の待てではない。


 その言葉が、少しずつ渡し場の腹へ入っている。


 やがて、喜助が青札を出した。


「青。渡し可。ただし、荷は少しずつ」


 最初に渡ったのは、若い商人だった。


 箱が無事か確認し、彼はほっとした顔をした。


「待つなら、置き場は本当に必要ですね」


「はい」


「清洲の荷のためじゃなく、皆のために」


「その通りです」


 市松が横で言った。


「今のも書け」


「書いています」


「ならいい」


 魚籠の男、農夫、市松の順に渡しが進んだ。


 清洲の飯荷は、今日もなかった。


 それでも、黄札は出た。


 客は待った。


 荷は置き場に困った。


 そして、待ち荷場の必要が見えた。


 帰る前、喜助が言った。


「黄札は守れた。だが、岸が足りん」


「待ち荷場を考えます」


「清洲の場所にするな」


「はい」


「客の場所にするな」


「え?」


 思わず聞き返した。


 喜助は言った。


「客の場所にしても揉める。誰の客が先だ、誰の荷が大事だ、となる。渡し場の待ち荷場だ。清洲でも客でもない」


 また、難しいが正しいことを言う。


 渡し場の待ち荷場。


 川の待てに従う者が、一時だけ使う場所。


 それを作らなければならない。


 清洲へ戻ると、伊三郎は報告を聞いてすぐ整理した。


 偽紙片、黄札は客を待たせる札。

 黄札実演。清洲飯荷なしでも黄札発動。理由、水位・泡・草。

 客全員待ち。黄は川の待て、清洲の待てではない。

 待ち荷場不足。若商人の箱、置き場なし。

 清洲布の上に客荷を置く違和感。渡し場用敷き必要。

 待ち縄案。ただし固定不可、清洲占有に見えない形。

 待ち荷場は清洲の場所でも客の場所でもなく、渡し場の場所。


 権六が最後の一文を読んで言った。


「面倒だな」


「面倒です」


 俺は答えた。


「でも、ここを間違えると黄札が腐ります」


「黄札が腐ると、細飯荷も腐る」


 伊三郎が頷く。


「そして、川道少量補助線も止まります」


 弥助殿への報告でも、そこが中心になった。


 弥助殿は短く言った。


「次は待ち荷場だ」


「はい」


「縄で取るな。取ったように見える」


「では、どうすれば」


「考えろ。使う時だけ見え、終われば消えるものだ」


 使う時だけ見え、終われば消える待ち荷場。


 まるで、川そのもののような場所だ。


 夜、清洲蔵では厚味噌片湯を飲んだ。


 今日は少しぬるかった。


 黄札で待たされた後の飯のようだった。


 権六がすすって言った。


「今日の飯は、待たされた味だな」


「不味いか?」


「いや、待ったぶん味が分かる。でも、待ちすぎたら怒る」


 太助が笑った。


「それ、黄札そのものだ」


 かやが短縄を手でいじりながら言った。


「待ち縄、どうするかな。張りっぱなしは駄目。清洲の印も駄目。客の荷を置いても預けた感じにならない形」


 きぬが針仕事をしながら言った。


「縫い物だと、仮止めの糸みたいなものですね。縫い終わったら抜く。残すと邪魔になる」


「仮止めか」


 かやの目が少し明るくなった。


「待ち縄も、仮止めでいいのかも。目立つけど残らない」


 作兵衛が頷く。


「客の足も止めすぎず、荷だけ止める。難しいな」


 俺は椀を置いた。


 黄札の待ては、誰のためか。


 川のためだ。

 人を落とさないためだ。

 荷を濡らさないためだ。

 清洲のためだけではない。

 客をいじめるためでもない。


 だが、その待てを守るには、待つ場所が必要だった。


 次は、舟ではなく岸。


 川道は、また一つ細かい腹を見せてきた。

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