第八章:壊すという決意
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第八章:壊すという決意
夜の空気が、やけに重かった。
姉貴の言葉が、まだ頭の中で響いている。
『逃げるか、終わらせるか』
簡単に言うなよ、と思う。
でも――
(その通りなんだよな)
逃げてきた。
ずっと。
理奈からも、美咲からも、そして自分からも。
* * *
「で?」
姉貴が腕を組んだまま言う。
「いつまで黙ってんの」
「……考えてる」
「遅い」
即答だった。
「人生詰んでるやつが考えていい時間は三秒まで」
「短すぎるだろ!」
「じゃあもうアウトね」
「理不尽すぎる!」
いつも通りのやり取り。
でも、不思議と少しだけ楽になる。
呼吸ができる。
「ねえ」
理奈が口を開く。
「本当に壊すつもり?」
その目は、試すようだった。
「全部失うよ?」
「……元から持ってない」
口に出してから、自分で驚いた。
でも、嘘じゃなかった。
自由も、信頼も、愛情も。
もう、とっくに失っている。
「へぇ」
理奈が笑う。
「やっと言うじゃん」
「……うるさい」
でも、その顔は少しだけ嬉しそうだった。
* * *
「じゃあ、どう壊すの?」
美咲の声。
静かで、冷たい。
だが、その奥に微かな焦りが混じっている。
「あなた、分かってる?」
「……分かってる」
あの夜のこと。
自分の罪。
すべて。
「それを表に出したら、どうなるか」
「分かってる」
繰り返す。
自分に言い聞かせるように。
「じゃあなんで」
美咲の声が、わずかに強くなる。
「どうしてそんな選択できるの?」
その問いに、少しだけ考える。
そして――
「もう、終わらせたいからだ」
静かに言った。
それが、本音だった。
逃げ続けるのは、もう限界だった。
壊れてるのに続ける方が、よっぽど怖い。
* * *
沈黙。
誰も何も言わない。
やがて――
「……そっか」
美咲が小さく呟いた。
その顔は、初めて見る表情だった。
怒りでも、冷たさでもない。
どこか、寂しそうな顔。
「じゃあ」
ゆっくりと顔を上げる。
「やってみなよ」
その一言で、すべてが決まった。
引き返せない。
完全に。
* * *
「ちょっと待った」
姉貴が手を挙げる。
「順番があるでしょ」
「……は?」
「こういうのはね」
指を立てる。
「まず事実整理」
教師か。
「次に責任分担」
会議か。
「最後に覚悟確認」
「……」
妙に的確だった。
「で?」
俺を見る。
「覚悟、できてるの?」
逃げられない問い。
でも――
「ああ」
頷いた。
もう、逃げない。
「よろしい」
姉貴が満足そうに笑う。
「じゃあ壊しましょうか」
軽い。
言い方が軽すぎる。
でも、その一言で、空気が完全に変わった。
* * *
「私から言うね」
理奈が口を開く。
「三年前のこと、全部覚えてるよ」
当然だ。
忘れられるはずがない。
「あなたが私を突き飛ばしたことも」
空気が重くなる。
「そのあとどうなったかも」
視線が集まる。
逃げ場はない。
「で?」
理奈は続ける。
「それをどうするの?」
試されている。
最後の確認。
俺は――
「話す」
はっきりと言った。
「全部」
沈黙。
そして――
「……バカだね」
理奈が笑った。
でも、その目は優しかった。
「ほんとに」
どこか安心したように。
* * *
「ふーん」
美咲が息を吐く。
「そこまで言うんだ」
「……ああ」
「じゃあ」
少しだけ微笑む。
「私もやめる」
「……え?」
意味が分からなかった。
「縛るの」
あっさり言う。
「もういいや」
力が抜けたような声。
「どうせ、あなた戻らないでしょ」
図星だった。
何も言えない。
「なら、好きにすればいい」
その言葉は、解放だった。
でも同時に――
すべてを失った音でもあった。
* * *
「……終わり?」
姉貴が首を傾げる。
「意外とあっさりね」
「そんなもんよ」
美咲が答える。
「壊れる時は一瞬」
その通りだった。
長く続いた関係も、
壊れる時は、驚くほどあっけない。
* * *
夜の中で、三人は立っていた。
いや――
もう三人じゃない。
それぞれ別の方向を向いている。
「じゃあね」
理奈が背を向ける。
「また会うかもね」
「……ああ」
もう何も言えない。
「さよなら」
美咲も、静かに去っていく。
引き止めなかった。
引き止める理由が、もうなかった。
* * *
「……で?」
隣に残った姉貴が言う。
「スッキリした?」
「……分からない」
「そりゃそうよ」
肩をすくめる。
「壊しただけだもん」
その通りだった。
終わった。
でも――
何も始まっていない。
「でもまあ」
姉貴が軽く笑う。
「やっとスタートラインよ」
夜空を見上げる。
雲が少しだけ晴れていた。
星が、一つ見えた気がした。
壊した先に、何があるのか。
それは、まだ分からない。
でも――
ようやく、自分で選んだ。
それだけは、確かだった。
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