第62話 彼女は託しました
「…………」
茜は、音を立てないようにゆっくりと車のドアを開け、助手席に滑り込んだ。
車内には、ハンドルにもたれる男が1人。
「……死んでない」
もしも、この男が死体であれば。
車の中は、大変なことになっていただろう。
このゾンビパンデミックが発生して、10日以上。そして、季節は初夏だ。
そんな中、放置された死体がどうなるかなど、考えるまでもない。
「……なんで、生きてるのかな」
男は、動かない。
茜は、じっと男を観察する。
「……まあ、いいか」
そして、茜はため息を吐き。
ゴソゴソと、ダッシュボードを漁り始める。
「お、らっきー。メモ帳とシャーペンですね。それでは失礼して……」
茜はそうつぶやきながら、メモに何事かを書き込んでいく。
そうして、書き終わったメモをそのまま助手席の座面に置くと、再びそろそろと車のドアを開け、外に脱出した。
「……ふんっ」
ガチン。
車のドアをゆっくりと閉め、体重を掛ける。
そうやって、ほとんど物音を立てず、ドアをしっかりと閉めた。
「さて……吉と出るか、凶と出るか……ですね。……さすがに、ゲームストーリーと外れることをやると心配ですが……」
周囲を確認し、ゾンビの位置を探る。
滞在時間は、数分間。
幸い、ゾンビ達は茜の記憶の通りの位置で、ルーチン通りに行動しているようだ。
「さて、さっさと戻って脱出してしまいましょうか。そろそろ夜の時間になりますので」
◇◇◇◇
「えっと……茜さん、何か用事があったの……?」
急に2人を置いて梯子を登っていった茜が、何事も無く戻ってきた。
またぞろ、大爆発でも起こるのではとビクビクしていた2人だったが、本当に何も無く茜が戻ってきたことで、困惑しているのである。
「……。……ちょっと。野暮用……」
一瞬、ちゃんと説明しようかと頭を悩ませた茜だったが。
結局どう説明するのがいいか分からなかったのか、誤魔化すことにしたらしい。
「そ、そうなんだ……」
追求すべきか、否か。
佳子は迷ったようだが、小さく頭を振り、頷く。
ひとまず、考えないことにしたようだ。まあ、タイムリミットも近い。仕方が無いだろう。
「じゃあ、先に行く?」
「……はい。そうですね、私が先に行きましょう」
そして、茜を先頭に、茜、佳子、克也という並びに隊列を変更し、3人は再び歩き出す。
ここで、その歩き方は『中腰』に変更された。
そろそろ、音を出すと上からゾンビが降りてくる状態になっている、ということだ。
「このくらいの声で喋るくらいなら、大丈夫です。でも、足音には敏感なので注意しましょう」
茜の説明だが、さすがにお喋りをする気にはなれないのか、佳子はぶんぶんと首を振る。
「ええと。この先、びっくりして声を出さないようにしてくださいね」
茜は、後ろの2人にそう忠告した。いや、忠告というか、『指示』なのだが。
「例えば、アレとかなんですが……」
そう言って、茜は前方を指さす。
佳子も克也も、足元や目の前の背中しか見ていなかったため、進行方向には全く注意を払っていなかった。
「……ぇっ」
そして。
それに気付いた瞬間、佳子は息を呑み、慌てて両手で口を押さえる。
遅れて、克也も気が付いた。
前方、橋の欄干から、何かがぶら下がっている。
いや、何かでは無い。
それは、首吊りされた人間だ。
「あれは、ゾンビです。たまに動きますが、手出しはできませんので、気にしないで大丈夫ですよ」
「ゾっ……」
ヒィ、と佳子が自分で両肩を抱き締める。
克也も顔をしかめ、目を細めた。
3人が見つめる中、吊るされたゾンビがビクビクと動いている。
「『しゃがんで』ください。ゆっくり通り抜けましょう」
ややあって、茜がそう指示を出す。
3人がしゃがんだ状態で、足を擦るように移動を再開し。
――ブンッ!
吊るされたゾンビの左足が、大きく振られた。
その足先が、しゃがんだ克也の頭上を掠める。
「――ッッッッ!!」
そして、その動きの反動で、吊るされたゾンビが回転した。
首が折れ、普通の人間であれば間違いなく致命傷であるはずのゾンビは、しかししっかりと活動している。
「ックキュッ!」
だが、頸椎は折れ、首回りが自身の体重で完全に締められ、まともに声を出すことができない状態だ。
ゾンビは3人を視認したものの、声を出すこともできず、ただ身体を揺らすだけだ。
「はい、はい……はい。じゃあ『中腰』に戻りましょうか」
ゾンビの手足が当たらない場所まで到達すると、茜は『中腰』に戻るよう指示を出した。
「普通に横を通ると、掴まってゲームオーバーですからね、気を付けましょう」
「…………ッ!!」
そんな、ゲーム的には見え見えのトラップという小ネタを間に挟みつつ。
茜達は、遂に対岸に辿り着いた。
後は、先に見える階段を使って、地上に降りるだけだ。
太陽は、山の稜線に差し掛かっている。
夜の時間まで、あと30分といったところか。
階段を降りれば、茜の目指すセーフゾーンは目と鼻の先。
だが、そんな状況でも、茜は全く油断していなかった。
「『しゃがんで』『張り付いて』」
茜が警戒する、橋脚の先に見える住宅街で、キラリと何かが反射した。
茜の指示に、2人は即座に隠密態勢に移行する。
――ガンッ!!
突然、重い音と共に。茜の足元に矢が生えた。




