第九話 晴海トリトン、来ないエレベーター
第九話 晴海トリトン、来ないエレベーター
サイバーナイト株式会社の社用車は、晴海トリトンの車寄せに到着した。
後部座席で、青木タツオはネクタイを直した。
隣には、執行役員・最高情報責任者(CIO)の黒木厳が座っている。黒木の膝には、今回のサイバー攻撃について、確認できた事実と未確認事項を整理したファイルが置かれていた。
前の座席から、タノメチャウ株式会社の役員、柳井ハジメが振り返った。
「お二人とも、資料はそろっていますね」
「はい」
黒木が答えた。
青木はうなずいたものの、窓の外を見つめたままだった。
晴海トリトン。
巨大なオフィスビル群が、東京湾岸の空にそびえている。
青木の会社、サイバーナイト株式会社の本社がある六本木の泉ガーデンタワーも、決して小さな建物ではない。しかし、目の前の建物群には、また違った威圧感があった。
今日、三人が向かうのは、三ツ巴物産ホールディングス株式会社の本社が入るZタワーだった。
タノメチャウの親会社。
そして、今回のサイバー攻撃が自社グループに及ぼす影響を、独自に判断する立場にある企業だった。
「行きましょうか」
柳井がドアを開けた。
青木は一度だけ深呼吸し、車を降りた。
*
エントランスを抜けると、広々としたロビーが現れた。
高い天井。磨き上げられた床。複数の企業名が並ぶ案内板。
受付を済ませた三人は、案内表示に従ってエレベーターホールへ向かった。
ところが、エレベーターが来ない。
一台が到着した。
扉が開く。
満員だった。
乗れない。
扉が閉まった。
次の一台を待つ。
ようやく到着したと思えば、今度は途中の階で止まっているらしい。表示階の数字が、なかなか動かなかった。
青木は腕時計を見た。
「あと五分しかないぞ」
黒木は、落ち着いた声で答えた。
「予約時刻までは、まだ少し余裕があります」
「そういう問題じゃない!」
青木の声が、エレベーターホールに響いた。
近くにいた人が、ちらりとこちらを見た。
青木は口を閉じた。
柳井が静かに言った。
「青木さん。今日は、説明をしに来たんです」
青木は、何も言わなかった。
やがて、エレベーターが到着した。
扉が開く。
今度は三人とも乗れた。
扉が閉まり、表示階の数字が動き始めた。
青木は、その数字を見つめていた。
黒木はファイルを開き、最後の確認をしていた。
柳井は、二人の様子を交互に見ていた。
同じエレベーターに乗っている。
だが、それぞれが考えていることは違っていた。
青木は、自分の会社の将来を考えていた。
黒木は、確認できた事実と、まだ確認できていない事実を考えていた。
柳井は、自分が信頼して仕事を任せた相手に、これから何を尋ねなければならないのかを考えていた。
エレベーターが止まった。
扉が開く。
高層階の廊下は静かだった。
三ツ巴物産ホールディングスの本社受付が見えた。
青木は、もう一度ネクタイに手をやった。
「行こう」
今度は、誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
*
会議室には、三人の役員が待っていた。
三ツ巴物産ホールディングス株式会社。
全国に事業を展開する企業グループを束ねる、架空の上場企業である。
窓の向こうには、東京湾岸の街並みが広がっていた。しかし、誰も景色を見てはいなかった。
テーブルの中央には、今回の会議資料が置かれている。
最初に口を開いたのは、最高財務責任者(CFO)だった。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。まず、サイバーナイトで発生している障害について、現時点で確認できている事実を説明してください」
青木が口を開こうとした。
しかし、黒木が先に答えた。
「私から、技術面について説明いたします」
黒木は、ファイルから資料を取り出した。
「当社では、複数の端末や業務システムで異常が発生し、ファイルの暗号化と身代金要求を確認しています。ランサムウェアによる攻撃とみて、被害範囲の調査と復旧準備を進めています」
最高情報責任者(CIO)が、資料に目を落とした。
「侵入経路は特定できていますか」
「まだ特定できていません。社内の認証記録などから、不審なアクセスを確認していますが、アクセス元の記録だけで、実際に操作した人物や端末を断定することはできません」
「タノメチャウとの接続は?」
「契約上、当社はタノメチャウの業務システムの一部を開発・保守しています。ただし、実際にどのようなネットワーク接続や認証経路が存在するかについては、現在、記録を照合しています」
「つまり、当社グループのシステムに侵入されたかどうかは、まだ分からないということですか」
「はい。現時点では、タノメチャウ、あるいは三ツ巴物産のシステムに侵入されたと確認できる証拠はありません。しかし、影響がないと断定できる段階でもありません」
会議室に沈黙が落ちた。
青木は、膝の上で両手を組んでいた。
黒木は説明を続けた。
「また、ファイルの暗号化と情報の持ち出しは、別々に確認する必要があります。情報が持ち出されたかどうかについても、調査を続けています」
三ツ巴物産の最高情報責任者は、資料を閉じた。
「分かりました。グループ側でも、接続経路、保守用アカウント、認証情報の利用状況を確認します。必要な記録を保全し、調査に協力します」
「ありがとうございます」
黒木は頭を下げた。
彼は、相手を安心させるために事実を曲げなかった。
それが、最高情報責任者として、今できる最善の説明だった。
*
次に、最高財務責任者が青木へ視線を向けた。
「青木社長。今回の障害による損害額について、現時点で見積もりはありますか」
「まだ、正確な金額は出ていません」
青木は答えた。
「社内システムが停止しているため、業務への影響を確認している段階です。復旧にかかる費用についても、調査が必要です」
「サイバーナイトの業務停止が長引いた場合、タノメチャウへの保守業務にも影響する可能性がありますね」
「その可能性はあります。ただし、タノメチャウ側のシステムに障害が発生しているという報告は、現時点では受けていません」
最高財務責任者は、手元の資料に書き込みをした。
「分かりました。現時点で数字を断定する必要はありません。ただし、復旧費用、契約への影響、業務停止による損失について、判明したものから報告してください」
「承知しました」
青木は頭を下げた。
続いて、最高広報責任者(CCO)が口を開いた。
「もう一つ、確認させてください。今回の件について、顧客や報道機関から問い合わせが来た場合、どのように対応する予定ですか」
「現在、社内システムの障害について、確認できた事実をもとに説明を準備しています」
青木が答えた。
「情報漏えいについては、まだ断定できません。確認が取れていない段階で、漏えいがなかったと説明することも避けています」
最高広報責任者は、黒木を見た。
「その方針は維持してください。事実が確認される前に、被害がないと断言することも、被害があると決めつけることもできません。グループへの影響が確認された場合は、情報を整理して、必要な説明を行います」
「ありがとうございます」
黒木が答えた。
最高広報責任者は、資料を一枚めくった。
「ただし、もしタノメチャウの受発注業務に影響が及んだ場合は、話が変わります。顧客への納品、取引先への説明、株主への情報開示について、速やかに判断しなければなりません」
青木は、思わず顔を上げた。
「タノメチャウには、まだ影響が出ていません」
「現時点では、そうですね」
最高広報責任者は、落ち着いた口調で答えた。
「だからこそ、影響があるとも、ないとも決めつけずに調査する必要があります」
青木は黙った。
黒木は、手元の資料を押さえ直した。
ここでは、技術的な事実を説明するだけでは足りない。
経営上の損失。
グループ全体の情報セキュリティー。
顧客や株主への説明。
それぞれが、同じ事件の別の側面だった。
*
会議が始まって四十分ほどが過ぎたころ、三ツ巴物産の最高情報責任者が、契約資料を手に取った。
「次に、タノメチャウとの契約について確認したいと思います」
青木の表情が、わずかに変わった。
「この契約は、青木社長が柳井さんとの大学ラグビー部時代のつながりを通じて、話を持ち込まれたものと聞いています」
「はい」
青木は答えた。
「柳井さんとは、大学時代からの付き合いです。先輩には、長い間お世話になりました」
「契約の選定過程については、記録が残っていますか」
「営業資料や見積もりなどは、社内にあるはずです」
「技術審査やセキュリティー審査については?」
青木は、一瞬だけ言葉を止めた。
「担当部門が審査していると認識しています」
「認識している、ということですね」
最高情報責任者の口調に、責めるような響きはなかった。
それが、かえって重かった。
「社長ご自身が、審査の内容を確認されたわけではないのですか」
青木は、すぐには答えなかった。
柳井が、隣で静かに口を開いた。
「私からも、確認させてください」
青木が柳井を見た。
「青木さん。私は、あなたを信頼して仕事を任せました。それは事実です。しかし、タノメチャウの契約は、私個人の友情だけで決められるものではありません」
柳井の声は、穏やかだった。
「当社の顧客も、従業員も、株主もいます。なぜこの会社を選んだのか。必要な審査を経ていたのか。そこは、きちんと確認しなければなりません」
青木は、目を伏せた。
「……分かっています」
「青木さんを疑っているから、聞いているのではありません。会社として、確認しなければならないからです」
柳井は、そこで言葉を切った。
「私があなたを信じていたことと、会社として審査が適切だったかどうかは、別の問題です」
黒木は、その言葉を聞いていた。
技術調査と契約審査。
二つは混同してはならない。
サイバーナイトのシステムが侵害されたことと、契約が適切に締結されたかどうかは、別々に確認する必要がある。
しかし、どちらも会社の責任に関わる問題だった。
*
会議の最後に、三ツ巴物産側から三つの要請が出された。
第一に、サイバーナイトは、確認できた事実と未確認事項を分けて、調査状況を定期的に報告すること。
第二に、タノメチャウおよび三ツ巴物産側は、自社の認証記録や接続記録を保全し、グループ内の影響範囲を独自に確認すること。
第三に、契約の選定過程について、技術調査とは別に、承認記録と審査資料を確認すること。
青木は、すべての要請に同意した。
会議室を出ると、廊下の窓から東京湾岸の景色が見えた。
青木は、しばらく立ち止まった。
「柳井さん」
「はい」
「私は、先輩に迷惑をかけたくなかったんです」
柳井は、すぐには答えなかった。
「その気持ちは分かります」
やがて、そう言った。
「でも、青木さん。迷惑をかけたくないと思うことと、問題を小さく見せることは違います」
青木は、何も言わなかった。
柳井は続けた。
「あなたが本当に会社を守りたいのなら、何が起きたのかを明らかにするしかありません。私も、自分の会社を守るために、同じことをしなければならない」
青木は、深く息を吐いた。
黒木は、二人の少し後ろで、そのやり取りを聞いていた。
青木は、追い詰められている。
それは、誰の目にも明らかだった。
だが、焦りや表情だけで、攻撃の技術的な経路や、個人の意図を証明することはできない。
黒木は、そう自分に言い聞かせた。
彼の仕事は、誰かをかばうことでも、誰かを犯人と決めつけることでもない。
会社を守るために、事実を明らかにすることだった。
*
三人は、再びエレベーターホールに戻った。
今度は、さほど待たずにエレベーターが来た。
青木は、乗り込む前に、Zタワーの案内表示を振り返った。
ここに来るまでは、説明さえ済ませれば、少しは状況が落ち着くと思っていた。
しかし、実際には違った。
サイバーナイトの障害は、まだ終わっていない。
タノメチャウへの影響も、まだ分からない。
三ツ巴物産は、独自の調査を始める。
そして、契約の経緯についても、記録を確認することになった。
エレベーターの扉が閉まった。
青木は、表示階の数字を見つめた。
黒木は、手元のファイルを開き、次に確認すべき項目を読み返していた。
柳井は、窓に映る自分の顔を見ていた。
誰も、何も言わなかった。
やがて、エレベーターが止まった。
扉が開く。
青木は、一歩を踏み出した。
その背中を見ながら、黒木は考えていた。
信頼は、会社を成長させる。
だが、信頼だけでは、会社を守れない。
会社を守るために必要なのは、誰かを無条件に信じ続けることではない。
何が起きたのかを、最後まで確かめることなのかもしれなかった。
**UN POUR TOUS, TOUS POUR UN.**
その言葉の意味を、今度は三ツ巴物産もまた、問われ始めていた。




