第八話 信頼という名の発注書
第八話 信頼という名の発注書
午後六時二十分。
サイバーナイト株式会社の対策本部では、窓の向こうに広がる六本木の夜景とは対照的に、誰一人として帰る気配を見せていなかった。
社内システムの障害は、依然として続いている。
前日のバックアップは存在する。しかし、安全性の確認も、復旧の見通しも、まだ確約できない。
デジタル・フォレンジックチームは、暗号化された端末とサーバーの記録を保全しながら、侵入経路の調査を続けていた。
そして、最高情報責任者の黒木厳の机には、新しい資料が一つ加わっていた。
タノメチャウ株式会社との契約概要。
黒木は、表紙に記された会社名を見つめた。
「白石さん」
営業担当役員の白石が顔を上げた。
「タノメチャウとの契約について、もう一度確認したい」
「先ほどお話ししたとおりです。先月、正式に契約を締結しました。受注額は、当社にとっても相当に大きい案件です」
「契約先の選定過程は?」
白石は、わずかに言葉を選んだ。
「最初の接点は、青木社長です。先方の役員と大学のラグビー部で一緒だった。その縁で、話をいただきました」
「その後は?」
「当社の営業が提案を行い、技術部門が要件を確認し、見積もりを出して、契約に至っています。少なくとも、営業側の記録ではそうなっています」
「少なくとも、というのは?」
「私は技術審査の全過程を見ていたわけではありません。そこは確認が必要です」
黒木はうなずいた。
それでいい。
分からないことを、分かったふりで埋めない。
危機対応において、その姿勢は何よりも重要だった。
「契約書だけではなく、提案書、見積もり、選定記録、セキュリティー審査の記録も集めてください。誰が何を承認したのか、時系列で整理してほしい」
「青木社長を調べるということですか」
「違います。契約がどのように成立したかを調べるんです」
黒木は、白石の目を見た。
「社長が紹介した。それ自体は事実です。しかし、紹介されたことと、審査を省略したことは同じではない」
白石は黙ってうなずいた。
黒木は資料に目を戻した。
今回の攻撃者が、サイバーナイトを踏み台にしてタノメチャウを狙ったのだとすれば、この契約は重要な手掛かりになる。
だが、契約があることと、両社のシステムが技術的につながっていることは別問題だった。
接続はあるのか。
共有アカウントは存在するのか。
保守用の遠隔接続は設定されているのか。
認証情報が共有されているのか。
攻撃者がタノメチャウへ到達できる経路は、本当に存在するのか。
一つずつ、証拠で確かめる必要があった。
そのとき、会議室の扉が開いた。
青木タツオが入ってきた。
いつものように背筋を伸ばしていたが、顔色は悪かった。
「黒木。タノメチャウの件を調べているそうだな」
「はい」
「先方に、余計な心配をかけないでくれ」
黒木は、すぐには答えなかった。
「余計な心配とは、何でしょうか」
「まだ、先方に被害が出たと決まったわけではないだろう」
「そのとおりです。現時点で、タノメチャウのシステムに被害が及んだと確認されたわけではありません」
黒木は言葉を区切った。
「だからこそ、実際の接続状況と、攻撃者が到達できた可能性のある経路を確認しています」
青木は椅子に腰を下ろした。
「先方の役員は、私の大学の先輩だ。ラグビー部で世話になった人間でもある」
「承知しています」
「先輩は、私を信じて仕事を任せてくれたんだ」
その言葉には、怒りよりも焦りがにじんでいた。
青木は、机の上の契約概要に視線を落とした。
「サイバーナイトにとっても、あの契約は大きい。社員だって、あの仕事を期待している。ここで先方に不安を与えれば、契約そのものが危うくなるかもしれない」
「それは理解しています」
「ならば、慎重に進めてくれ」
黒木は、静かに答えた。
「慎重に進めることと、不都合な事実を確認しないことは違います」
青木の表情が固まった。
「私は、不都合な事実を隠せと言っているわけではない」
「では、調査に必要な資料と関係者への聞き取りに、全面的に協力してください」
沈黙が落ちた。
青木は、しばらく黒木を見つめていた。
やがて、小さくうなずいた。
「分かった」
その返事は、いつもの青木よりも短かった。
黒木は気づいていた。
青木は、タノメチャウに迷惑をかけたくないと言っている。
それは、先輩への友情からかもしれない。
契約を失うことへの恐れからかもしれない。
あるいは、その両方かもしれない。
しかし、黒木には、そのどれが本当なのかを決める権利はなかった。
決めるべきなのは、記録が示す事実だった。
*
午後七時五分。
フォレンジックチームの相馬が、調査資料を持って対策本部に戻ってきた。
「黒木さん。タノメチャウとの接続関係について、現時点の確認結果をまとめました」
「聞かせてください」
「契約資料には、業務システムの構築と保守に関する記述があります。ただし、契約書だけでは、実際のネットワーク接続や認証の仕組みまでは分かりません」
「接続記録は?」
「現在、社内の保守用アカウント、遠隔接続の設定、認証ログを照合しています。タノメチャウ側の記録も必要になる可能性があります」
「現段階で、攻撃者がタノメチャウに侵入できたと言えますか」
「言えません」
相馬は、即答した。
「サイバーナイト側で不審なアクセスが確認されても、それだけで相手先への侵入が成立したことにはなりません。実際の接続経路と、そこで行われた操作の記録が必要です」
「データを持ち出された可能性は?」
「暗号化と情報の持ち出しは、別々に確認する必要があります。現時点では、持ち出しの有無について断定できません」
黒木はうなずいた。
「では、確認できた事実と、まだ分からないことを分けて報告してください。タノメチャウ側への影響についても、推測を事実のように伝えてはいけません」
「承知しました」
相馬が資料を置いたとき、青木が口を開いた。
「もし、タノメチャウに被害が及んでいたら……」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
「先方の株価にも、影響が出るでしょうか」
相馬は答えなかった。
それは、フォレンジックチームが断定できる問題ではない。
黒木が代わりに答えた。
「影響の程度によります。受注や出荷が止まり、業績への影響が大きいと市場に受け止められれば、株価が下落する可能性はあります」
「可能性、か」
「はい。現時点では、タノメチャウに被害が出たこと自体、確認されていません」
青木は目を閉じた。
「先輩は……私を信じてくれたんだ」
黒木は、その言葉を聞いていた。
だが、慰めることはしなかった。
青木の心情を否定する必要はない。
しかし、友情を理由に調査を止めることもできない。
もしタノメチャウの業務が止まれば、株主だけではなく、顧客、取引先、従業員にも影響が及ぶ。
そして、もし契約の選定過程に重大な問題があったなら、それはサイバー攻撃とは別に検証されなければならない。
縁故で紹介されたこと。
契約を獲得したこと。
適切な審査を経ていたこと。
それらは、すべて別の事実だった。
*
午後七時四十分。
青木が退室したあと、黒木は一人で会社案内を開いた。
最初のページに、会社の理念が記されている。
UN POUR TOUS, TOUS POUR UN.
一人は皆のために。
皆は一人のために。
学生時代、黒木はサッカーのフォワードだった。
得点を決めることが、自分の役割だと思っていた時期もある。
しかし、どれほど優れた選手でも、一人だけでは試合に勝てない。
パスを出す者がいる。
守る者がいる。
失敗を取り返す者がいる。
そして、誰かが判断を誤ったとき、チーム全体でその結果に向き合わなければならない。
青木はラグビーで、それを学んだはずだった。
タノメチャウの先輩も、きっと同じことを信じていた。
だからこそ、後輩に仕事を任せた。
その信頼が、もし裏切られていたとしたら。
先輩は、青木をかばうだろうか。
それとも、株主と従業員に対する責任を優先するだろうか。
黒木には分からない。
分からないからこそ、調査を続ける。
彼は会社案内を閉じ、相馬の報告書に手を伸ばした。
サイバーナイトを踏み台にする計画があったのか。
タノメチャウに至る経路は存在するのか。
青木のアカウントは、何に使われたのか。
まだ、答えの出ていない問いが残っている。
黒木は、報告書の余白に一行を書き込んだ。
「信頼は、調査を省略する理由にはならない。」
それから、彼は次の指示を出した。
「タノメチャウとの接続経路を、引き続き洗い出してください。契約の経緯については、技術調査と切り離して、承認記録を確認する。二つを混同しないこと」
相馬がうなずいた。
対策本部の時計は、午後八時を回ろうとしていた。
事件は、まだ終わらない。
そして、会社の理念が本当に試されるのは、誰かを信じているときではなく、その信頼が揺らいだときなのかもしれなかった。




