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" Cyber Crisis Management " 最高情報責任者・黒木 厳の責任 " UN POUR TOUS, TOUS POUR UN."   作者: 東曌


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第十話 青山の画廊、赤いピンヒールの女

第十話 青山の画廊、赤いピンヒールの女


青山の裏通りに、その画廊はあった。


大通りから一本入っただけなのに、車の音は遠く、歩道を行き交う人影も少ない。


ガラス張りの入口には、店名が控えめに記されていた。


ウー・シャオ・ギャラリー。


その名前の下に、英語で小さく「ART & COLLECTIBLES」と添えられている。


黒木厳は、入口の前で一度だけ足を止めた。


サイバーナイト株式会社の執行役員・最高情報責任者(CIO)として、彼はこの数日、暗号化されたファイル、身代金要求画面、認証ログ、接続履歴、復旧計画に囲まれていた。


画面に現れるのは、数字と時刻とアカウント名。


そこには、誰が何を考えていたのかまでは書かれていない。


しかし、記録の向こうには必ず人間がいる。


今日、黒木が会いに来たのは、その人間の一人だった。


青木タツオ社長の出張先に関係する女性。


ウー・シャオ。


三十二歳。


青山で画廊を経営している。


そして、青木が出張していた夜、彼女もまた、同じホテルに関係していた可能性がある。


それ以上のことは、まだ確認できていなかった。


黒木はドアを押した。


小さなベルが鳴った。


店内には、整然とイースターエッグが並んでいた。


陶器の卵。七宝の卵。金属細工の卵。精巧な細工が施されたものから、淡い色彩だけで構成された簡素なものまで、素材も年代も異なる品々が、棚の上に一列ずつ収められている。


どれも、わずかな乱れもなく並んでいた。


壁には、アメデオ・モジリアーニのリトグラフが掛けられていた。


細長い顔。


静かな輪郭。


そして、何かを見つめているようでいて、見る者に決してすべてを明かさない目。


その絵の前に、ウー・シャオが立っていた。


赤いピンヒール。


腕の部分に長いスリットが入った、マント付きの黒いワンピース。


肩から流れる布が、彼女の動きに合わせて静かに揺れた。


黒い衣装の中で、赤い靴だけが鮮烈だった。


彼女は振り返った。


「黒木さんですね」


声は柔らかかった。


「お待ちしておりました」


黒木は、彼女の顔を見た。


写真で見た印象よりも、実物のほうが落ち着いていた。派手な化粧で目を引くタイプではない。姿勢も、表情も、言葉の選び方も、過不足がなかった。


それがかえって、警戒心を呼び起こした。


「私が来ることを、ご存じだったんですか」


「ええ。秘書の方から連絡をいただきました」


ウーは微笑んだ。


「社長のことで、お話があると」


「そうです」


「では、こちらへ」


彼女は奥の応接スペースへ案内した。


黒い革張りの椅子。低いテーブル。薄いガラスの花瓶には、白い花が一輪だけ挿してある。


すべてが整っていた。


黒木は椅子に腰を下ろす前に、壁の絵を見た。


「モジリアーニがお好きなんですか」


「好きですね」


ウーは向かい側に座った。


「彼の描く人物は、どこか不思議でしょう。顔は見える。輪郭もわかる。でも、その人が本当は何を考えているのか、最後までわからない」


「人間は、絵よりも複雑です」


「そうでしょうか」


彼女は首を少し傾けた。


「絵は、嘘をつきません。見る人が勝手に意味を読み取るだけです」


黒木は答えなかった。


この女性は、質問に答えながら、会話の主導権を握ろうとしている。


そう感じた。


「青木社長について、お話を伺いたいのです」


「どのようなことでしょう」


「出張中の行動についてです」


ウーはテーブルの上で指を組んだ。


「青木さんは、私の画廊のお客様です」


「それだけですか」


一瞬、沈黙があった。


ほんの短い間だった。


「仕事のお客様、という意味でしたら」


ウーは答えた。


「それだけではありません」


黒木は彼女を見た。


「どういう関係なのですか」


「大人同士の関係です」


彼女は、ためらわなかった。


「それを、ここで隠すつもりはありません。ただし、私生活について、すべてをお話しする義務があるとも思っていません」


「私生活を調べに来たのではありません」


「では、何を?」


「サイバーナイトで発生したサイバー攻撃についてです」


ウーの表情は変わらなかった。


「ニュースで拝見しました。大変なことになっているようですね」


「社内のシステムでファイルの暗号化が確認され、身代金を要求する画面も出ました。現在、専門チームが調査しています」


「お気の毒に」


「社長のアカウントに、通常とは異なる接続記録が残っています」


そこで初めて、ウーの視線がわずかに動いた。


黒木は、その動きを見逃さなかった。


しかし、見逃さなかったことと、その意味がわかったことは別だった。


「青木さんが何かしたということですか」


「現時点で、私が断定することはできません。アカウントが使われた記録だけでは、誰が操作したかまでは確定しない」


「慎重なのですね」


「そうしなければ、調査になりません」


ウーは静かに笑った。


「あなたは、青木さんを疑っている」


「疑うことと、事実を確かめることは違います」


「でも、同じ場所から始まることもあるでしょう?」


黒木は答えなかった。


ウーは、テーブルの上のグラスに手を伸ばした。水を一口飲み、静かに戻す。


「青木さんは、会社を大切にしている方だと思っていました」


「そうですか」


「ええ。少なくとも、ご本人はそう信じていらっしゃるようでした」


その言葉には、わずかな含みがあった。


黒木は話題を変えた。


「出張中、青木社長とホテルで会いましたか」


「会いました」


あっさりとした答えだった。


「何時ごろですか」


「正確な時間は覚えていません。ホテルの記録を確認すれば、何かわかるかもしれませんね」


「何をしたのですか」


「食事をしました。そのあと、部屋で映画を見ました」


「映画?」


「『マルタの鷹』です」


黒木は、わずかに眉を動かした。


「ハンフリー・ボガートの?」


「ええ。青木さんが好きな映画でした」


ウーは、壁のリトグラフに目を向けた。


「欲しいものがあると、人は自分の目を信じたくなる。けれど、目に映るものが本物とは限らない。そういう映画です」


「それで、何か特別なことがあったのですか」


「映画を見ただけです」


彼女は黒木に視線を戻した。


「少なくとも、私が今お話しできるのは、それだけです」


黒木は、彼女の言葉をそのまま受け取ることはしなかった。


だが、否定する材料も持っていなかった。


「ホテルで、何か機器を接続しましたか」


「機器?」


「映像をテレビに映すためのものです。ミラーリング機器など」


ウーは、少し考えるように目を伏せた。


「小さな機器を使ったと思います。ホテルのテレビに接続するものです。珍しいものではありません」


「それを、どこで購入したのですか」


「覚えていません」


「メーカーは?」


「箱を見ればわかるかもしれません」


答えは自然だった。


自然すぎる、と感じることもできた。


だが、黒木は自分の感覚だけで結論を出すつもりはなかった。


「その機器を、サイバーナイトのシステムに接続しましたか」


「いいえ」


ウーは、今度はすぐに答えた。


「私は、あなたの会社のシステムに接続していません」


「青木社長の端末については?」


「彼が何をしたか、私はすべてを把握しているわけではありません」


彼女は少しだけ笑った。


「恋人の行動を、すべて知っていると思いますか?」


その言葉は、冗談のようにも聞こえた。


しかし、黒木は笑わなかった。


「あなたの説明は記録します。ただし、機器が攻撃に関係したかどうかは、技術的な調査で確認します」


「もちろんです」


ウーは、まるでその答えを予想していたかのように頷いた。


「証拠がなければ、誰も責めるべきではありませんものね」


黒木は、その言葉に小さな違和感を覚えた。


正しい。


あまりにも正しい。


彼女は、黒木が何を言うか知っているかのようだった。


「もう一つ、伺います」


黒木は言った。


「あなたは、どの国の方ですか」


ウーは微笑んだ。


「中国で生まれました。日本で暮らし、仕事をしています」


「それだけですか」


「それだけ、というのは?」


「あなたが、どこに忠誠を持っているのかという意味です」


初めて、ウーは声を立てて笑った。


高くもなく、低くもない、澄んだ笑いだった。


「黒木さん。画廊の経営者に、ずいぶん難しい質問をなさるのですね」


「仕事柄、人がどこから接続しているのかを調べます。時々、誰がどこに属しているのかも、考えなければならない」


「接続先と、所属先は違いますわ」


ウーは、さらりと言った。


「同じ国に生まれたからといって、同じ考えを持つわけではありません。同じ会社に勤めているからといって、同じ目的で働いているとも限らない」


黒木は、彼女を見た。


それは、サイバー危機の最中に、何度も聞いた言葉と似ていた。


正規のアカウントが使われても、正規の人間が操作したとは限らない。


会社の内部にいるからといって、会社の利益を守っているとは限らない。


「おっしゃるとおりです」


黒木は立ち上がった。


「本日は、ありがとうございました」


「もうお帰りですか」


「今日は、事実確認のために伺いました。追加で確認したいことがあれば、改めてご連絡します」


「お待ちしております」


ウーも立ち上がった。


黒いマントが、静かに揺れた。


黒木が出口へ向かうと、彼女は後ろから声をかけた。


「黒木さん」


振り返る。


「青木さんを、どうなさるおつもりですか」


「何も決めていません」


「会社を守るために、社長を疑うこともあるのですね」


「会社を守るために、事実を確かめるのです」


ウーは、しばらく黒木を見つめていた。


それから、微笑んだ。


「ご立派です」


その言葉に、賞賛が含まれているのか、皮肉が含まれているのか、黒木にはわからなかった。


画廊を出ると、午後の青山は何事もなかったかのように明るかった。


黒木は歩きながら、スマートフォンに連絡を入れた。


フォレンジックチームの相馬への連絡だった。


――青木社長が出張中に使った端末、認証情報、接続先を引き続き照合してほしい。ホテルのミラーリング機器についても、関係する記録が残っているか確認する。ただし、機器が攻撃に使われたと決めつけないこと。


返信は、すぐに届いた。


――了解しました。現時点では、機器と暗号化処理を直接結びつける証拠はありません。認証記録と接続記録を優先して確認します。


黒木はスマートフォンをしまった。


ウーは、何かを知っているのかもしれない。


あるいは、知っていることの一部だけを話したのかもしれない。


しかし、今日の面会だけでは、何も確定していなかった。


そのころ、画廊の奥では、ウーが再びモジリアーニのリトグラフの前に立っていた。


彼女は、壁に掛けられた絵を見つめた。


細長い顔。


静かな輪郭。


何も語らない目。


やがて彼女は、棚のイースターエッグに視線を移した。


一列に並んだ卵の中に、ひとつだけ、金色の細工が施されたものがあった。


ウーは、それを手に取った。


底面を確かめる。


何も書かれていない。


彼女は、元の位置に戻した。


その動作は、ほかの卵の位置を少しも乱さなかった。


次に、彼女は黒いワンピースの袖を整えた。


赤いピンヒールが、床を一度だけ鳴らした。


店内には、誰もいない。


ウーはスマートフォンを取り出した。


画面には、短いメッセージが表示されていた。


差出人の名前はなかった。


彼女は、それを読み、数秒間、動かなかった。


それから、画面を閉じた。


送信も、返信もしなかった。


ただ、モジリアーニの絵をもう一度見上げた。


「まだ、早いわ」


誰に向けた言葉なのか。


それは、画廊の中にいる誰にもわからなかった。


青山の街は、夕暮れへ向かっていた。


そして、サイバーナイトの調査室では、別の記録が開かれようとしていた。


ウー・シャオが何者なのか。


彼女が誰に情報を渡しているのか。


そして、今回の攻撃が、本当に身代金だけを目的としていたのか。


黒木厳は、まだその答えを知らなかった。


だが、彼は一つだけ理解していた。


**ログに残るのは、接続の記録だ。人間の忠誠までは、記録されない。**


そして、彼女の赤いピンヒールは、静かな画廊の床に、最後まで一つの音も残さなかった。

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