第十一話 公安の来訪
第十一話 公安の来訪
翌朝、サイバーナイト株式会社の空気は、前日までとは違う緊張を帯びていた。
ランサムウェアによる被害の全容は、まだ判明していない。
フォレンジック調査チームは、暗号化された端末とサーバーの記録を保全しながら、侵入経路の特定を進めていた。前日のバックアップが利用できる可能性はある。しかし、復旧できることと、事件の原因が分かることは別だった。
午前九時二十分。
黒木厳が対策会議室に向かおうとしたとき、秘書の高瀬が足早に近づいてきた。
「黒木さん。青木社長にお客様です」
「お客様?」
「警察の方です。公安部と名乗られています」
黒木は足を止めた。
「青木社長には、もう伝えましたか」
「はい。社長室でお待ちいただいています」
黒木は一瞬、考えた。
サイバー攻撃の調査と、公安が動く理由。
両者が関係している可能性はある。しかし、まだ何も断定できない。
「分かりました。私も同席します」
黒木は社長室へ向かった。
*
社長室には、二人の男がいた。
一人は五十代ほど、もう一人は四十代ほどに見える。二人とも落ち着いた服装で、必要以上に威圧的な態度は取らなかった。
青木タツオは、机の向こう側に座っていた。
いつもの社長らしい余裕は、ほとんど消えていた。
「こちらが、弊社の最高情報責任者、黒木です」
青木が紹介すると、年長の男が名刺を差し出した。
「警察の公安部門で勤務しております。今日は、ある人物について確認したいことがあり、伺いました」
黒木は名刺を受け取った。
「どなたについてでしょうか」
男は、青木に視線を戻した。
「ウー・シャオという女性をご存じですね」
青木は、わずかに肩を強張らせた。
「……ええ。青山で画廊を経営している女性です」
「お仕事上のお付き合いですか」
青木はすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって答えになっていた。
「仕事を通じて知り合いました。個人的にも、親しくしていました」
「どの程度のご関係でしょうか」
青木は唇を結んだ。
「……食事をしたり、会ったりする関係です。そこまでお話しする必要がありますか」
「今回の確認に関係する可能性があります。差し支えない範囲で、ご協力いただければと思います」
青木は、黒木をちらりと見た。
黒木は口を挟まなかった。
ここで青木を追及することが、自分の役目ではない。公安が確認しようとしていることと、サイバーナイトへの攻撃を調べること。その二つは、関係しているかもしれないが、同じ調査ではない。
男は薄いファイルを開いた。
「その女性の本名は、エミリー・キンスキー。ロシア国籍です」
青木は、目を見開いた。
「……ロシア?」
「ウー・シャオという名前は、少なくとも私たちが把握している身元情報とは一致していません」
「そんな……」
男は、別の資料を取り出した。
「彼女には、複数の国の関係者に情報を提供していた疑いがあります。中国側とロシア側、その双方に接点を持っていた可能性がある」
「両方に?」
「いわゆるダブルエージェントとして活動していた可能性も含め、調べています。ただし、現時点で確認できている事実と、捜査上の見立ては区別してお話ししています」
青木は、机の上の資料を見つめた。
「私は、そんなことは何も……」
「彼女が何者なのか、社長がどこまで知っていたのか。それを確認するために伺っています」
男は声を荒らげなかった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「青木社長。彼女と会った際、会社の取引先や業務システムについて話したことはありますか」
青木は答えようとして、口を閉じた。
タノメチャウ株式会社との契約。
大学ラグビー部の先輩である柳井ハジメ。
グループの受発注基盤。
仕事の話をしたことが、まったくなかったとは言い切れない。
「……仕事の話をしたことはあります。ただ、機密情報を渡したつもりはありません」
「分かりました。具体的にどのような話をされたのか、後日、改めて確認させていただく可能性があります」
青木の顔から血の気が引いていった。
「彼女が、会社に何かしたということですか」
「その点について、ここで断定することはできません」
男は、黒木にも視線を向けた。
「御社で発生したサイバー攻撃についても、私たちは関心を持っています。ただし、彼女の諜報活動に関する疑いと、今回のランサムウェア攻撃が直接つながっているかどうかは、別に確認しなければなりません」
黒木は静かにうなずいた。
「弊社でも、技術的な証拠に基づいて調査を進めています。現時点では、侵入経路も、攻撃を実行した人物も、確定していません」
「承知しています。調査結果について、必要な範囲で情報を共有していただくことになるかもしれません」
男はファイルを閉じた。
「もう一つ。ウー・シャオ氏が使用していた画廊について、何かご存じですか」
「青山にある画廊です。何度か行ったことがあります」
「最近、彼女と連絡は取れていますか」
青木は携帯電話を取り出した。
「昨日までは……」
言いかけて、画面を見た。
メッセージの返信はない。
最後に送った連絡も、既読になっていなかった。
「……今は、返事がありません」
公安の男は、その言葉を記録した。
「分かりました。ご協力ありがとうございます。何か思い出されたことがあれば、ご連絡ください」
二人は立ち上がり、社長室を後にした。
扉が閉まる。
青木は、しばらく動かなかった。
*
「黒木君」
青木が、低い声で呼んだ。
「私は、騙されたんだろうか」
黒木は、すぐには答えなかった。
「その可能性はあります。ただ、今の段階では分かりません」
「一年近く、付き合っていたんだぞ」
青木の声には、怒りよりも戸惑いがあった。
「彼女が何を考えていたのか、私は何も知らなかったのかもしれない」
「社長」
黒木は、机の上に置かれた資料に目を落とした。
「彼女との個人的な関係と、会社の情報管理については、分けて考える必要があります」
「分かっている」
「もし、仕事の話から会社の情報が外部に伝わっていたのなら、どの情報が、いつ、誰に渡ったのかを確認しなければなりません。社長が何を意図していたかという問題と、情報が実際にどう使われたかという問題は、同じではありません」
青木は、目を閉じた。
「……私は、会社を守るつもりだった」
「そのつもりだったことと、守れたかどうかは別です」
黒木は言葉を選びながら続けた。
「だからこそ、事実を確認しましょう」
青木は返事をしなかった。
黒木も、それ以上は何も言わなかった。
*
その頃、青山の画廊では、別の異変が起きていた。
午前十時過ぎ。
関係者からの連絡を受けた調査担当者が、画廊の前に立っていた。
入口の扉は閉まっていた。
看板は外され、ガラス越しに見える店内には、何もなかった。
昨日まで、棚に整然と並んでいたイースターエッグ。
壁に美しく配置されていたモディリアーニのリトグラフ。
客を迎えていた受付台。
そのすべてが消えていた。
調査担当者は、扉の前から店内を見渡した。
照明は落ちている。
人の気配もない。
画廊は、もぬけの殻だった。
もちろん、これだけでエミリーが何かの犯罪に関与したと断定できるわけではない。
画廊を閉めること自体は、犯罪ではない。
しかし、公安が身元を確認しようとした翌朝、彼女の居場所が分からなくなった。
その事実は、無視できなかった。
赤いピンヒールの女は、もうそこにはいなかった。
*
午前十時四十分。
黒木は、対策会議室でフォレンジック調査チームの報告を受けていた。
「社長のアカウントについては、通常とは異なる接続元からのアクセス記録が確認されています。ただし、記録だけでは、実際に誰が操作したのかまでは特定できません」
相馬が説明した。
「ウー・シャオ氏が使用していたミラーリング機器については?」
「現時点では、暗号化の直接原因だと示す証拠はありません。機器が使われたことと、攻撃が発生したことを、時系列だけで結びつけることはできません」
「では、攻撃者がロシア側とつながっている可能性は?」
「技術的な痕跡を調べています。ただし、接続元の情報だけで、実行者の国籍や所属を確定することはできません。通信経路が偽装されている可能性もあります」
黒木はうなずいた。
「分かりました。確認できた事実と、まだ確認できていないことを分けて報告してください」
相馬は続けた。
「もう一つ。タノメチャウとの接続について、関連する認証記録と通信記録を照合しています。現時点では、同社のシステムへの侵入が成功したと断定できる証拠はありません。ただし、影響がなかったとも、まだ言い切れません」
「引き続き調べてください。三ツ巴物産ホールディングス側の調査とも、必要な範囲で照合できるようにしましょう」
「承知しました」
報告が終わると、会議室には短い沈黙が落ちた。
黒木は、ノートに三つの項目を書いた。
エミリー・キンスキーの諜報活動。
サイバーナイトへの侵入経路。
会社の情報が外部に渡った可能性。
互いに関係しているかもしれない。
しかし、まだ一つの線にはなっていなかった。
*
黒木は窓の外を見た。
青山の画廊から、女は消えた。
公安は、彼女がダブルエージェントだった可能性を調べている。
そして、サイバーナイトでは、今も社員たちが復旧作業を続けていた。
ファイルは戻っていない。
取引先への影響も、すべては把握できていない。
会社を守るためには、攻撃者を特定する必要がある。
だが、それだけでは足りない。
もし青木が彼女を信じて情報を話していたのなら、なぜ、その情報が会社の外に出ても問題ないと思えたのか。
もしエミリーが誰かに利用されていたのなら、彼女自身は、どこまで計画を知っていたのか。
そして、ロシア側とつながる人物が本当に攻撃を実行したのなら、なぜサイバーナイトが狙われたのか。
まだ、答えはない。
黒木はノートの最後に、一行を書き加えた。
――人間の正体を知ることと、事件の真相を知ることは、同じではない。
彼はペンを置いた。
会社を守るために必要なのは、疑うことだけではない。
疑ったことを、証拠で確かめることだった。




