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" Cyber Crisis Management " 最高情報責任者・黒木 厳の責任 " UN POUR TOUS, TOUS POUR UN."   作者: 東曌


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第十二話 夜間飛行の残り香

第十二話 夜間飛行の残り香



 午前十時二十分。


 サイバーナイト株式会社の対策本部には、昨日までとは違う緊張が漂っていた。


 青山の画廊から、ウー・シャオの姿が消えた。


 彼女の本名は、エミリー・キンスキー。


 ロシア国籍。


 公安の説明によれば、中国側とロシア側の双方に情報を渡していた疑いがあるという。


 ダブルエージェント。


 映画や小説の中にしか存在しないと思っていた言葉が、現実の事件に入り込んできた。


「黒木さん。追加の調査結果が出ました」


 デジタル・フォレンジック担当の相馬が、大型モニターに認証記録を表示した。


「暗号化が始まる前に、通常とは異なる認証が記録されています。青木社長のアカウントに関連するものです」


 青木タツオは、表情を硬くした。


「また、私のアカウントか」


「はい。ただし、アカウントが使われたことと、社長ご本人が操作したことは同じではありません。現時点では、誰が操作したのか、どの端末から接続したのか、そして暗号化に直接つながったのかを、それぞれ調べています」


「つまり、私がやったと決まったわけではない」


「決まっていません。しかし、記録に残っている以上、無視することもできません」


 青木は口を閉じた。


 黒木厳は、二人のやり取りを見ていた。


 青木を守るために、記録を軽く扱うことはできない。


 青木を疑うために、記録以上のことを語ることもできない。


 その両方を避けながら、事実を積み上げる。それが、最高情報責任者としての黒木の仕事だった。


「外部へのデータ送信は?」


「確認できた通信記録を調べています。ファイルが暗号化されたことと、データが持ち出されたことは別です。現時点では、持ち出しの有無を断定できません」


「分かりました。確認できたこと、確認できていないこと、今後確認することを分けて報告してください」


 黒木は、モニターを見つめた。


 そこに並んでいるのは、認証、接続、操作、通信の記録だ。


 人間の名前が表示されていたとしても、その人間が何を考え、何を意図していたかまでは分からない。


     *


「エミリー・キンスキーについて、公安から追加の説明がありました」


 担当者が資料を置いた。


「彼女が複数の情報源に接触していた可能性があるそうです。ただし、今回のランサムウェア攻撃との直接的な関係は、まだ確認されていません」


「諜報活動の疑いと、今回のサイバー攻撃は分けて考える必要がある、ということですね」


 黒木が確認した。


「はい」


「彼女が青木社長と親しかったことも、攻撃を実行した証拠にはならない。逆に、彼女自身が端末を操作していなかったとしても、情報を渡した可能性まで消えるわけではない」


 青木が、低い声で言った。


「私は、彼女をそんな人間だとは思わなかった」


 怒りというより、困惑に近い声だった。


 黒木は、すぐには返事をしなかった。


「社長。彼女と話した内容を、覚えている範囲で整理していただけますか。会社の仕事や契約、取引先、システムのことなど、何気ない会話も含めてです」


「私は、会社の機密を渡したつもりはない」


「その点を疑っているから聞くのではありません。どのような情報が外に出た可能性があるのかを確認するためです」


 青木は、しばらく黙っていた。


「……分かった。思い出せることは話そう」


「思い出せないことを、無理に埋める必要はありません。事実と推測を分けて整理しましょう」


 黒木は、そう付け加えた。


 記憶は、ログではない。


 人は後から何度も思い返すうちに、実際にあったことと、そうだったかもしれないことを混同する。


 だからこそ、思い出せないことを、思い出せないままにしておく必要がある。


     *


 その日の夜。


 青木は帰宅すると、マンションの郵便受けを開けた。


 広告のチラシと、公共料金の案内。その奥に、白い封筒が一通だけ入っていた。


 宛名はない。


 差出人の名前も、住所も、切手もなかった。


 誰かが直接、投函したのだろう。


 青木は封筒を持って部屋に上がった。


 リビングのテーブルに置き、しばらく眺めたあと、慎重に封を開ける。


 中に入っていたのは、白い便箋が一枚だけだった。


 文字はない。


 署名もない。


 何かを書きかけて消した跡さえ、見当たらなかった。


 ただ、便箋を取り出したとき、かすかな香りがした。


 青木の指が止まった。


 知っている香りだった。


 フランスの老舗フレグランスメゾン、ゲラン。


 その香水――**「夜間飛行(Vol de Nuit)」**。


 ウー・シャオがまとっていた香りだった。


 青木は、便箋を見つめた。


 青山の画廊。


 整然と並べられたイースターエッグ。


 壁に掛けられたモディリアーニのリトグラフ。


 赤いピンヒール。


 そして、彼女の微笑み。


 公安から聞かされた名前が、頭の中によみがえる。


 エミリー・キンスキー。


 彼女は、いったい何者だったのか。


 自分と過ごした時間も、すべて計算されたものだったのだろうか。


 青木には、分からなかった。


 便箋には何も書かれていない。


 それなのに、頭の中にはいくつもの言葉が浮かんだ。


 ――さようなら。


 ――忘れないで。


 ――信じて。


 青木は、ゆっくりと便箋を裏返した。


 裏にも、何もなかった。


 香りだけが残っている。


 ゲランの「夜間飛行」。


 その名は、夜の空を飛ぶ者たちの孤独と危険を思わせた。


 彼女は、何を伝えようとしているのだろう。


 そもそも、彼女がこれを送ったのだろうか。


 香水を知っている者なら、同じ香りを残すことはできる。


 この封筒だけで、送り主を特定することはできない。


 青木は、便箋を封筒に戻した。


 感情に任せて捨てるわけにはいかなかった。


 事件に関係する可能性がある以上、発見した場所と時刻を記録し、封筒も便箋も、そのまま保管する必要がある。


 彼はスマートフォンを取り出し、黒木にメッセージを送った。


『自宅の郵便受けに、差出人の分からない封筒が入っていました。中には白紙の便箋が一枚。ウー・シャオが使っていた香水と同じ香りがします。事件に関係する可能性があるため、保管しています』


 送信してから、青木は便箋の入った封筒を見た。


 黒木から返信が届いた。


『連絡ありがとうございます。封筒と便箋は、そのまま保管してください。送り主については、現時点では判断できません。公安にも共有しましょう』


 青木は、画面を閉じた。


 黒木は、彼女が送ったとは言わなかった。


 彼女が送っていないとも言わなかった。


 ただ、事実を記録し、確かめるよう求めた。


 それが正しい対応なのだろう。


 しかし、胸の奥に残る疑念までは、消えなかった。


 彼女からの別れなのか。


 警告なのか。


 それとも、誰かが彼女の名を借りて仕掛けた、新たな罠なのか。


 白い便箋には、何も書かれていない。


 答えは、どこにもなかった。


     *


 翌朝、黒木は対策本部で、相馬から報告を受けていた。


「社長から連絡がありました。差出人不明の封筒が届いたそうです。中には白紙の便箋。ウー・シャオが使っていたものと同じ香水の香りがする、と」


「現物は保管している?」


「はい。社長には、できるだけ触れずに保管するよう伝えています。公安にも共有する予定です」


「香りが同じというだけでは、彼女が送った証拠にはならない」


「承知しています」


「ただし、無関係だと決めつけることもできない。発見状況を記録し、必要に応じて適切な手続きで確認してもらいましょう」


 黒木は、資料に目を落とした。


 エミリー・キンスキー。


 青木社長のアカウントに残る、通常とは異なる認証記録。


 暗号化が始まる前の不審な操作。


 そして、差出人のない白い封筒。


 これらが、一本の線でつながっているのかどうか。


 まだ、分からない。


 しかし、ひとつだけ確かなことがあった。


 この事件は、ランサムウェアを復旧させれば終わるものではない。


 誰が何をしたのか。


 どの情報が、どこへ渡ったのか。


 そして、会社の仕組みのどこに弱点があったのか。


 それを明らかにしなければ、同じことが繰り返される。


 黒木は、社内パンフレットの表紙を思い出した。


 **UN POUR TOUS, TOUS POUR UN.**


 一人は皆のために。


 皆は一人のために。


 仲間を信じることは大切だ。


 だが、信じることは、確認を省略する理由にはならない。


 黒木は、モニターに並ぶログへ視線を戻した。


 夜間飛行の香りは、誰かの記憶に残る。


 だが、事件の真相を明らかにするのは、香りでも、疑念でもない。


 積み重ねられた事実だけだった。

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