Digital Transformation 第三話 営業部定例ミーティング、現場の声を聞く 改訂版
DXにおけるCRM、顧客との関係を記録する意味
DXという言葉を聞くと、最新のシステムを導入したり、AIを活用したりすることを思い浮かべる人は多いだろう。
しかし、デジタル技術を導入すること自体が、DXの目的ではない。デジタル技術を活用して業務のあり方を見直し、顧客への価値提供や企業の仕事の進め方を変えていくことが重要なのである。
今回の物語で取り上げるのは、CRMである。
CRMとは、Customer Relationship Managementの略で、日本語では「顧客関係管理」と呼ばれる。
・顧客の基本情報
・過去の商談
・問い合わせ
・購入履歴
・提案内容
・次の対応予定など
を管理し、顧客との関係を継続的に把握するための考え方であり、その実践を支える仕組みでもある。
たとえば、ある営業パーソンが顧客と商談をしたとする。
顧客が何を求めていたのか、どのような提案をしたのか、何が課題として残ったのか、次にいつ連絡するのか。
こうした情報が適切に記録されていれば、次回の商談をより円滑に進められる。担当者が異動したり、別の社員が引き継いだりした場合にも、顧客との関係を一から作り直す必要がなくなる。
CRMは、顧客情報を保存するためだけのものではない。
営業活動の状況を把握し、対応の漏れを防ぎ、顧客のニーズを理解し、経営判断に必要な情報を得るためにも活用できる。
ただし、ここで一つ、重要な問題がある。
CRMに情報を入力するのは、人間だということだ。
・入力画面がわかりにくい。
・似たような項目がいくつもある。
・メールやチャットに書かれた内容を、別の画面に何度も入力しなければならない。
・記録に時間がかかる一方で、入力した情報がどのように使われているのかが現場には見えない。
こうした状況が続けば、営業パーソンは入力を後回しにし、記録が不完全になり、やがてシステムそのものが使われなくなる可能性がある。
高額なライセンスを契約し、立派なシステムを導入しても、必要な情報が記録されず、現場の仕事も改善されないのであれば、導入した意味を問い直さなければならない。
だからこそ、DXでは「どの製品を導入するか」だけでなく、
・「どの情報が本当に必要なのか」
・「誰が何のために使うのか」
・「どうすれば現場が無理なく正確に記録できるのか」を考える必要がある。
近年では、Slackのようなコミュニケーションツールや、AIによる要約・情報整理を活用し、営業記録の作成を支援する方法も考えられる。
たとえば、商談後のメールやチャットから必要な情報を整理し、CRMへの入力を補助する仕組みである。
ただし、AIが生成した情報の正確性を確認すること、顧客情報へのアクセス権限を適切に管理すること、重要な記録を追跡できるようにすることは欠かせない。
また、コミュニケーションツールやAIが、CRMのすべての機能を自動的に代替できるわけでもない。
大切なのは、特定の製品を守ることでも、流行の技術に飛びつくことでもない。
顧客との関係を適切に管理し、営業パーソンが顧客と向き合う時間を確保し、会社が必要な情報を正確に活用できる仕組みを作ること。
それが、今回の物語で考えていくCRMとDXの課題である。
最高情報責任者・黒木厳は、使われなくなったシステムを前に、何を問い直すのだろうか。
システムを変えるのか。
業務を変えるのか。それとも、両方を変える必要があるのか。
答えは、現場の声の中にある。
第三話 営業部定例ミーティング、現場の声を聞く
営業部の定例ミーティングは、毎週月曜日の午前九時に始まる。
その日、会議室の大型モニターには、いつもの営業部員たちの顔に加えて、二つのWeb参加者が表示されていた。
最高情報責任者、黒木厳。
そして、システム部の藪内マコトである。
黒木は営業部長に事前に伝えていた。
「今日は、こちらから説明をするために参加するのではありません。営業記録の入力に、どのような負担がかかっているのか、現場の皆さんの意見を聞きたい。通常の定例ミーティングの進行を優先してください」
営業部長は、その意図を理解していた。
「承知しました。今日はお二人にオブザーバーとして参加していただきます。皆さんも、普段感じていることを率直に話してください。ただし、特定の製品を廃止することが決まったわけではありません。現状を把握するための意見交換です」
午前九時。定例ミーティングが始まった。
最初は通常の営業報告だった。先週の商談、今週の訪問予定、見積もりの提出状況、契約の見込み。営業部員たちは手際よく報告を進めていく。
黒木は、口を挟まなかった。
画面の向こうで、藪内も黙ってメモを取っている。
ひと通りの報告が終わると、営業部長が話題を切り替えた。
「ここからは、営業記録の入力についてです。現在、Salesforceへの入力に時間がかかるという声が上がっています。今日は、具体的にどのような作業が負担になっているのかを聞かせてください」
最初に発言したのは、武中ユウトだった。
「正直に言うと、商談そのものより、商談が終わったあとの記録に時間を取られることがあります」
「どんなところに時間がかかるんだ?」
営業部長が尋ねた。
「顧客情報、商談の進捗、活動履歴、次のアクション。それぞれ必要なのはわかります。でも、画面を移動して項目を探し、同じような情報を何度か入力することがあります。急いでいるときは後回しにして、夕方にまとめて入力することもあります」
「入力に、どれくらいかかる?」
「内容によりますが、一件あたり十分以上かかることもあります」
武中は、少し考えてから付け加えた。
「もちろん、記録を残すこと自体に反対しているわけではありません。前回の商談内容が残っていなければ、次の担当者も困ります。ただ、入力のために時間を使いすぎている気がします」
黒木は、そこで初めて口を開いた。
「ありがとうございます。今のお話は、記録が不要だという意味ではなく、必要な記録を残すための操作に負担がかかっている、という理解でよろしいですか」
「はい。そのとおりです」
黒木は短くうなずき、藪内に視線を向けた。
藪内はメモに線を引いた。
記録の必要性と、入力方法の問題。
この二つを混同してはいけない。
別の営業部員が発言した。
「私の場合は、顧客とのメールやSlackで話が進んでいるので、そこから必要な情報を拾ってSalesforceに入力します。商談のあとに、メールを探し直すこともあります」
「同じ情報を、複数の場所に記録しているということですか」
藪内が尋ねた。
「そうですね。全部が同じではありませんが、重複する部分はあります。見積もりの金額や提出期限など、間違えられない情報もありますから、確認しながら入力しています」
「その確認は必要です。ただ、確認するために情報を何度も探し直す必要があるのかは、調べる余地がありそうですね」
藪内はそう答え、さらにメモを取った。
営業部長が、別の質問をした。
「Salesforceに入力した情報は、役に立っていますか?」
今度は、すぐには答えが返ってこなかった。
しばらくして、ベテランの営業部員が口を開いた。
「役に立つ情報はあります。担当者が変わったときや、しばらく連絡していなかった顧客に対応するときには、過去の記録が助けになります」
「では、入力した情報が、十分に活用されていないと感じることもありますか?」
「あります。入力したあと、誰がどのように使っているのか、よくわからない項目もあります。必要だから入力しているのだろうとは思いますが、使い道が見えないと、どうしても優先順位が下がります」
黒木は、その言葉を聞いて、少し姿勢を正した。
入力する側は、必要な情報だと説明されているから入力する。
しかし、その情報を利用する側が、何に使っているのかを十分に説明できていないとしたら。
問題は、画面の使い勝手だけではない。
「一つ、確認させてください」
黒木が言った。
「営業記録の入力項目について、営業部として、何が必須で、何が任意なのか。それぞれの項目が、どの業務や経営判断に使われているのか。皆さんは明確に説明できますか」
営業部長は、すぐには答えなかった。
「必須項目については把握しています。ただ、すべての項目について、利用目的まで整理できているかと言われると、確認が必要です」
「わかりました。今日、ここで答えを出す必要はありません。むしろ、確認が必要だとわかったことが重要です」
黒木は、責めるような口調ではなく、淡々と続けた。
「必要な情報を残すことと、すべての情報を同じ方法で入力させることは別です。経営に必要な記録、顧客対応に必要な記録、監査や契約管理のために必要な記録。それぞれの目的を整理してから、入力方法を考えたいと思います」
藪内も発言した。
「システム部としても、現行のSalesforceで改善できる部分があるのか、入力方法を変えられるのか、ほかのCRMを検討すべきなのか、まだ判断していません。まず、現在の業務を正確に把握したいと考えています」
「Slack AIを使えば、入力作業を減らせる可能性はありますか?」
若手の営業部員が尋ねた。
「可能性はあります」
藪内は答えた。
「たとえば、Slackやメールにある商談情報をAIが要約し、CRMの項目に合わせて整理する方法です。ただし、AIが作った内容を、そのまま正しい記録として登録するのは危険です。顧客名、金額、契約条件、期限などは確認が必要ですし、情報へのアクセス権限や記録の監査も考えなければなりません」
「つまり、AIを入れれば、全部解決するわけではないんですね」
「そうです。AIを使うこと自体が目的ではありません。皆さんの入力作業を減らしながら、必要な情報を正確に残すことが目的です」
営業部長は、ここで話をまとめた。
「それでは、営業部として、入力の負担、重複している作業、使われている情報、改善してほしい点を整理します。できれば、実際にどの作業に何分かかっているのかも確認しましょう。個人の感想だけでなく、業務の実態として取りまとめます」
「お願いします」
黒木はうなずいた。
「特定の製品を残すための調査でも、廃止するための調査でもありません。必要な機能を確認し、その機能を最も合理的な方法で提供できる仕組みを考える。そのための調査です」
ミーティングが終わると、Web会議の画面から営業部員たちの顔が一人ずつ消えていった。
藪内は、手元のメモを見直した。
入力に時間がかかる。
同じ情報を何度も探す。
入力した情報の利用目的が見えない。
そして、営業部自身も、すべての入力項目の目的を説明できるわけではない。
彼は、これまでSalesforceの画面や機能ばかりを問題にしていたことに気づいた。
画面を改善すれば、入力時間は短くなるかもしれない。しかし、そもそも必要のない項目まで入力させているなら、画面を改善するだけでは不十分だ。
「黒木さん。これは、単純な製品比較では済まなくなりそうですね」
「最初から、そういうつもりだ」
黒木は答えた。
「システムの問題に見えても、業務の問題かもしれない。業務の問題に見えても、管理の仕組みの問題かもしれない。だから、現場の声を聞くんだ」
藪内は、調査資料の表題を修正した。
営業記録業務の負担軽減に関する調査・改善起案。
その下に、新しい項目を追加した。
**入力時間の実測と、各入力項目の利用目的の確認。**
Salesforceを残すか、別のCRMへ移行するか。
その判断は、まだ先だった。
だが、会社が何を改善しなければならないのかは、少しずつ見え始めていた。




