第三話 ピコ、ピコ、ピコ――そして身代金要求
### 第三話 ピコ、ピコ、ピコ――そして身代金要求
午前十時七分。
サイバーナイト株式会社の情報システム部門に、緊急の報告が届いた。
『複数の端末で、身代金要求とみられる画面を確認しました』
佐伯直人は、メッセージを読み終えると、すぐに高瀬美紀の席へ向かった。
「高瀬さん。身代金要求の画面が出たそうです」
「確認できた端末は?」
「今、一覧を作っています。ファイルの暗号化らしき動きも複数の端末で確認されています」
高瀬は、開いていた画面を切り替えた。
「対象端末を隔離できているか、確認してください。すでに接続制限をかけた端末も、実際に通信が止まっているかを確認したいです」
「わかりました」
「それから、表示された画面を記録してください。身代金要求の文面、識別番号、指定された期限。端末の状態を不用意に変えないように」
佐伯は、すぐに担当者へ連絡した。
画面に表示されたメッセージは、単なる警告ではなかった。
ファイルを暗号化したこと。
元に戻したければ、指定された方法で連絡すること。
支払いには期限があること。
要求された金額や支払い方法の詳細は、まだ確認中だった。
だが、相手が何を求めているのかは明らかだった。
金銭と引き換えに、業務データを取り戻せる可能性をちらつかせる。
ランサムウェアによる攻撃である疑いが、急速に強まっていた。
*
午前十時十二分。
黒木厳は、情報システム部門からの報告を受け、会議室へ戻った。
会議には、佐伯直人、高瀬美紀、総務の中村、法務担当者、広報担当者、主要業務システムの責任者が集まっていた。
経営陣にも、緊急事態として報告が入っている。
黒木は、資料を机に置いた。
「現状を整理します。複数の端末で異常なファイル変更が発生している。身代金要求とみられる画面も確認された。ここまでは、事実として報告を受けています」
佐伯がうなずいた。
「はい。暗号化を疑わせる動きは確認されています。ただし、全端末の状況はまだ把握できていません」
「顧客向けサービスは?」
「影響を確認中です。社内の共有ファイルや一部の業務システムでは問題が出ていますが、顧客向けサービス全体が停止したとは、まだ確認できていません」
「情報の持ち出しは?」
高瀬が答えた。
「現時点では、確認できていません。ただし、持ち出しがなかったと判断できる段階でもありません」
黒木は、その回答を聞いてから、全員を見渡した。
「わかりました。暗号化の被害と、情報流出の可能性は分けて調べましょう。ファイルが暗号化されたことだけで、情報が外部へ送信されたとは限りません。一方で、暗号化されたからといって、外部への送信がなかったとも言えません」
法務担当者が、メモを取った。
「対外的な説明でも、その区別が必要ですね」
「そうです。確認できていないことを、安心させるために断定しないでください」
黒木は、次の項目に目を移した。
「バックアップの状況は?」
佐伯が資料を開いた。
「現時点で確認できている最後の正常なバックアップは、前日分です。ただし、バックアップ自体が今回の影響を受けていないか、実際に復元できるかは、まだ確認できていません」
「バックアップの保存先は、本番環境と分離されていますか」
「構成を確認しています。バックアップ管理用の認証情報や接続経路も含めて調査が必要です」
黒木はうなずいた。
「では、バックアップが存在することと、安全に復元できることを、同じ意味で扱わないでください。まず保全し、安全性を確認する。復元試験は、隔離した環境で行いましょう」
誰も、すぐには答えなかった。
バックアップがある。
その一言は、危機に直面した組織にとって、大きな安心材料になる。
しかし、実際に復元できなければ、業務は戻らない。
バックアップまで侵害されていれば、復旧の計画そのものを見直さなければならない。
データを戻せたとしても、侵入経路や危険な設定を残したまま本番環境へ接続すれば、再び被害を受ける可能性がある。
バックアップは、過去のデータを残すための仕組みだ。
未来の安全を自動的に保証する仕組みではない。
*
午前十時二十分。
身代金要求の画面について、追加の報告が届いた。
攻撃者は、指定された方法で連絡するよう求めていた。支払いには期限が設定されているらしい。
期限を過ぎれば、復号に必要な情報を渡さない。
あるいは、要求額を引き上げる。
そうした脅しが含まれている可能性があった。
広報担当者が、慎重に口を開いた。
「仮に身代金を支払わなかった場合、復旧が大幅に遅れる可能性はありますか」
佐伯は、少し考えてから答えた。
「可能性はあります。ただ、支払えば必ず復号できるとは限りません。復号ツールが提供されても、すべてのデータを正常に戻せる保証はありません」
高瀬も続けた。
「それに、支払いによって情報が削除される保証もありません。もし情報が持ち出されていた場合、支払ったからといって、その情報が外部に残らないとは限りません」
法務担当者が、黒木を見た。
「経営判断が必要になりますね」
「もちろんです」
黒木は答えた。
「ただし、今ここで、支払うか支払わないかだけを先に決めるつもりはありません」
彼は、ホワイトボードに三つの項目を書いた。
一つ目。
**業務をどこまで復旧できるか。**
二つ目。
**データと情報の安全性を、どこまで確認できるか。**
三つ目。
**復旧に必要な時間と、顧客や社員への影響をどう抑えるか。**
「この三つを整理しなければ、経営判断の材料が足りません。身代金要求の期限だけを見て、会社の将来を決めるわけにはいかない」
黒木は、ペンを置いた。
「復旧の選択肢を整理してください。バックアップからの復元、影響を受けていない環境の確認、業務を限定した暫定運用。費用と時間だけではなく、安全性と業務への影響も比較します」
佐伯が答えた。
「承知しました」
「外部のインシデント対応専門家にも連絡してください。自社だけで調査できる範囲には限界があります。証拠保全と原因調査を並行して進めたい」
黒木は、会議室にいる全員に言った。
「今は、焦って決めることより、正しく決められる状態を作ることが先です」
*
午前十時三十分。
情報システム部門の一角では、端末から断続的に警告音が鳴っていた。
ピコ。
ピコ、ピコ。
短い電子音が、静かなオフィスに響く。
誰かが、音の鳴る端末へ近づきかけた。
「触らないでください」
高瀬の声が飛んだ。
「まず、担当者に確認してください。勝手に再起動したり、ファイルを削除したりしないで」
社員は、慌てて手を引っ込めた。
警告音そのものに、特別な意味があるわけではない。
音が鳴ったからといって、どこまで被害が広がったのかがわかるわけでもない。
それでも、人は音に反応する。
何かが起きている。
何かをしなければならない。
そう思って、動きたくなる。
しかし、危機の現場では、何もしないことが正しい場合もある。
不用意な操作が証拠を変えてしまうこともあれば、再接続によって被害を広げてしまう可能性もある。
高瀬は、端末の状態を確認しながら、担当者に記録を取るよう指示した。
検知時刻。
端末の識別情報。
表示されたメッセージ。
その時点で確認できたファイルの状態。
後から検証できるように、記録を残していく。
佐伯は、少し離れた場所で、社内端末の状況を整理していた。
何台が影響を受けているのか。
どのシステムに関連しているのか。
どの端末が隔離済みで、どの端末が確認待ちなのか。
情報は、まだ足りない。
それでも、一つずつ整理するしかなかった。
*
午前十時四十五分。
黒木は、経営陣との緊急会議に参加していた。
社長は、報告資料に目を落としたまま尋ねた。
「復旧まで、どれくらいかかる」
黒木は、すぐには答えなかった。
答えたくなかったのではない。
今、確かな根拠をもって答えられる数字がなかったからだ。
「現時点では、全体の復旧時期を確約できません。影響範囲も、バックアップの安全性も、まだ確認中です」
「三日後に、主要業務を再開できる可能性は?」
「優先する業務を限定し、安全性を確認したうえで再開する目標は検討できます。ただし、主要業務の一部再開と、すべてのシステムの完全復旧は別です」
社長は、顔を上げた。
「顧客には、どう説明する」
「確認できた障害と、現在調査している範囲を説明します。顧客向けサービスへの影響は、個別に確認します。情報流出についても、確認できるまでは断定しません」
会議室に沈黙が落ちた。
誰もが、もっと明快な説明を求めていた。
何が起きたのか。
どれだけの被害があるのか。
いつ復旧するのか。
しかし、まだわからないことを、わかったように語るわけにはいかなかった。
黒木は、社長に向き直った。
「今、根拠のない復旧日を公表すれば、その約束自体が顧客への新たなリスクになります。まず、確認できた情報を整理し、次の報告時刻を決めます」
社長は、しばらく考えたあと、うなずいた。
「わかった。事実を優先しよう」
黒木は、わずかに息を吐いた。
それは、危機が解決に向かったという意味ではなかった。
ようやく、何を基準に判断するかが共有されたというだけだった。
*
午前十一時。
広報担当者が、対外説明の草案を作成していた。
文面は、簡潔なものだった。
社内システムの一部で障害が発生していること。
原因と影響範囲を調査していること。
顧客向けサービスへの影響を確認していること。
復旧の見通しについては、確認でき次第、改めて案内すること。
黒木は、その文章を読んだ。
「このままでよいと思います。ただ、問い合わせ窓口と、次回の情報更新予定を明記してください」
「承知しました」
「それから、情報流出がないとは書かないでください。現時点で確認できていないことと、発生していないことは違います」
広報担当者は、草案を修正した。
社内では、社員向けの案内も準備されていた。
不審な警告を見た場合は、端末の操作を止めること。
独自に再起動や初期化を行わないこと。
USBメモリなどの外部媒体を、指示なく接続しないこと。
会社が指定する方法以外で、業務データをコピーしたり、別の端末へ移したりしないこと。
ただし、社員が不安から勝手な判断をしないよう、問い合わせ先も併せて案内する必要があった。
中村は、人事・総務部門として、各部署の責任者へ連絡を進めていた。
出社している社員だけではない。
在宅勤務中の社員もいる。
外出中の営業社員もいる。
休暇中や、育児・介護などの事情で通常の連絡にすぐ応じられない社員もいる。
千百人の社員に、同じ情報を、適切な方法で伝える。
それもまた、危機対応の一部だった。
*
午前十一時二十分。
黒木は、窓際に立っていた。
机の上には、まだ確認途中の報告資料が積まれている。
バックアップの状態。
端末の影響範囲。
顧客向けサービスの稼働状況。
身代金要求の内容。
外部専門家への連絡状況。
どれも、結論が出たわけではなかった。
彼は、ポケットから携帯端末を取り出した。
画面には、社内チャットの通知が並んでいる。
その中に、家族からの連絡はなかった。
三年前から、そうだった。
旅行先での不慮の交通事故によって、妻と娘を失って以来、黒木の生活は大きく変わった。
以前なら、仕事が長引く日でも、帰宅すれば家族がいた。
今日の出来事を話すこともできた。
娘が学校で何をしたのか、妻がどんなことを考えているのか。仕事とは関係のない話を聞き、時には返事をしながら、頭の中の仕事を少しずつ手放していく。
今は、帰宅しても静かな部屋があるだけだった。
黒木は、携帯端末の画面を消した。
悲しみがなくなったわけではない。
ただ、毎日を生きていくために、仕事を続けていた。
そして今、彼の判断を待っている人々がいる。
千百人の社員。
取引先の担当者。
システムの復旧を待つ顧客。
彼らにも、それぞれの暮らしがある。
黒木は、窓から視線を戻した。
身代金を支払えば、すべてが解決するわけではない。
バックアップがあれば、すぐに元へ戻れるわけでもない。
技術的な原因を突き止めたとしても、それだけで会社が元どおりになるわけではない。
必要なのは、証拠を集め、影響を確認し、選択肢を比較し、判断を重ねることだった。
そして、その判断の結果を、自分の名前で引き受けることだった。
黒木は、机に戻った。
次の報告会議まで、あと二十分。
まだ、やるべきことは山ほど残っていた。
パソコンの画面には、新しいメッセージが届いていた。
『バックアップの保存先と管理経路について、追加確認が必要です』
黒木は、短く返信した。
『確認を続けてください。安全性が確認できるまでは、復元先として扱わないでください』
送信ボタンを押す。
画面の向こうで、誰かが次の作業に取りかかる。
それが、危機対応というものだった。
誰か一人が英雄のように問題を解決するのではない。
それぞれの専門家が事実を集め、互いの判断を確認し、会社として一つずつ前へ進む。
黒木は、まだ知らなかった。
今回の事件が、どこから始まったのか。
誰が、何のために攻撃を仕掛けたのか。
そして、会社がどれほどの時間をかけて、日常を取り戻すことになるのか。
ただ、彼は一つのことを理解していた。
この危機を、身代金の金額だけで測ってはならない。
問われているのは、会社が何を失い、何を守り、どのように立ち直るのかということだった。
黒木厳は、次の会議へ向かった。
サイバーナイト株式会社の長い一日は、まだ始まったばかりだった。




