第二話 止まった社内、動いているSlack
第二話 止まった社内、動いているSlack
午前九時二十分。
サイバーナイト株式会社の情報システム部門では、電話の呼び出し音が続いていた。
最初は、一台のパソコンに表示されたセキュリティ警告だった。
それが二台になり、三台になった。
そして、社員から寄せられる問い合わせの内容が、少しずつ変わり始めた。
「ファイルが開けません」
「共有フォルダにアクセスできないんですが」
「昨日まで使えていたシステムが、急にエラーを返すようになりました」
佐伯直人は、受話器を肩に挟んだまま、別の画面を確認していた。
「すみません。いったん操作を止めてください。再起動もしないで、そのままお待ちください」
電話を切る。
次の着信。
また、別の社員からだった。
佐伯は、机の端に置かれたメモを見た。端末番号、利用者名、異常が発生した時刻。手書きの記録が、すでに何枚も重なっていた。
社内の端末管理システムを確認したい。
だが、その管理画面自体が正常に動作しているかどうか、確信が持てなかった。
異常が起きている環境から、異常を調べる。
それだけでも、慎重な判断が必要だった。
「高瀬さん、検知状況は?」
佐伯が声をかけると、高瀬美紀が画面から目を離さずに答えた。
「複数端末で、不審なファイル変更の記録が出ています。まだ全体はつかめていません。ただ、一台ずつ個別に発生している問題として扱うのは危険です」
「ネットワークは?」
「影響範囲を確認しながら、対象を限定して接続制限をかけています。全部を一度に切るべきかどうかは、業務への影響も含めて判断が必要です」
佐伯はうなずいた。
無闇に接続を続ければ、被害が広がるかもしれない。
一方で、何も考えずにすべてを切断すれば、必要な調査記録が取得できなくなったり、正常な業務まで止めたりする可能性がある。
状況に応じた隔離と、証拠の保全。
その両方を考えなければならなかった。
高瀬が、別のログを開いた。
「佐伯さん。これ、確認してください」
画面には、複数の端末で発生した不審な動作の記録が並んでいた。
「黒木さんの端末と、時刻が近い?」
「一部は近いです。ただし、同じ原因だとは、まだ言えません」
「USBが関係している可能性は?」
「調べます。でも、接続された直後に警告が出たことだけでは、原因と断定できません」
高瀬は言葉を区切った。
「順番と因果関係は、別です」
佐伯は、その言葉を聞いて小さくうなずいた。
今、最も避けなければならないのは、最初に目についたものを原因と決めつけることだった。
調査は始まったばかりだった。
*
午前九時二十七分。
黒木厳のパソコンには、佐伯からの返信が届いていた。
『複数端末で異常が確認されています。現在、影響範囲を調査中です。引き続き、端末の操作を止めてください』
黒木は、画面を見つめた。
一台だけの問題ではない。
その可能性が、現実になり始めていた。
彼は社内チャットを開いた。
サイバーナイト株式会社では、社内連絡にSlackを利用していた。日常の業務連絡、プロジェクトの相談、障害発生時の情報共有。部署ごとのチャンネルがあり、必要に応じて関係者を集めることができる。
今、そのSlackが動いていた。
情報システム部門の緊急チャンネルには、短い報告が次々と投稿されていた。
『複数端末で不審なファイル変更を確認』
『共有フォルダへのアクセスに異常』
『対象端末の操作停止を案内中』
『影響範囲は未確定』
黒木は、最後の一行を見てから、画面の右上にある時計を確認した。
午前九時二十九分。
まだ、発生からそれほど時間は経っていない。
だが、情報が増える速度に、全体像の把握が追いついていなかった。
彼は緊急チャンネルに書き込んだ。
『現時点で確認できている事実と、推測を分けて報告してください。原因を断定するのは、証拠を確認してからで構いません。影響範囲と、業務への影響を優先して整理してください』
送信すると、すぐに既読がついた。
黒木は、もう一度、社内の業務システムにアクセスしようとした。
勤怠管理。
経費精算。
社内ポータル。
いずれも、正常に表示されないか、接続エラーになった。
彼は、画面を閉じた。
システムが使えない。
それ自体は、障害が発生した会社なら起こり得ることだ。
問題は、どこまで使えないのかだった。
受発注は動いているのか。
在庫の照会はできるのか。
物流拠点への出荷指示は送れているのか。
販売管理と会計連携は、正常な状態を保っているのか。
社内の情報共有が止まることと、顧客に提供している業務サービスが止まることは、同じではない。
しかし、どちらか一方だけを確認して安心することもできなかった。
黒木は、佐伯にメッセージを送った。
『社内システムと、顧客向けサービスの状況を分けて確認してほしい。顧客への影響は、確認できた範囲と未確認の範囲を明確にしてくれ』
数秒後、返信が届いた。
『承知しました。各システムの担当者に確認します』
黒木は椅子の背にもたれた。
まだ、身代金要求の画面は出ていない。
侵入経路もわからない。
データが外部に持ち出されたのかどうかも、わからない。
わからないことが多い。
だからこそ、わかっていることを正確に扱わなければならなかった。
*
午前九時三十五分。
最初に業務への影響を報告してきたのは、物流システムの担当者だった。
『倉庫側から、在庫照会の応答が遅いとの連絡が来ています。現時点では、システム全体が停止しているかどうかは未確認です』
続いて、営業部門から報告が入った。
『顧客への見積書作成に使う共有ファイルにアクセスできない社員がいます』
さらに、経理部門。
『一部の担当者から、会計関連のファイルが開けないとの問い合わせがありました』
どの報告も、被害の全体像を示すものではなかった。
しかし、それぞれの部署で、普段どおりの仕事ができなくなり始めていることは明らかだった。
黒木は、緊急対応のためのオンライン会議を設定するよう指示した。
招集するのは、情報システム部門、セキュリティ運用担当、主要業務システムの責任者、総務、広報、法務、そして経営陣。
通常の会議室予約システムは使えなかった。
そのため、空いている会議室を総務が確認し、参加者にはSlackで集合場所を伝えた。
会議の案内を出すためのシステムが使えない。
それでも、Slackは動いている。
黒木は、そこに一つの危うさを感じていた。
動いているものがあると、人は安心する。
連絡ができる。
メッセージが届く。
会議を開ける。
だから、まだ何とかなると思ってしまう。
だが、Slackが使えることは、社内のすべてのシステムが安全であることを意味しない。
逆に、Slackが使えなくなったとしても、それだけで会社の全システムが停止したと決まるわけでもない。
必要なのは、一つひとつの機能について、何が動き、何が止まり、何が安全と確認され、何がまだわからないのかを把握することだった。
黒木は、会議室へ向かう前に、情報システム部門へ短いメッセージを送った。
『Slackは緊急連絡手段として使う。ただし、業務システムの代替として扱わないこと。必要な連絡記録は残し、機密情報や調査資料の共有先は、セキュリティ担当の指示に従ってください』
送信ボタンを押す。
画面には、すぐに複数の反応が表示された。
黒木は、パソコンを閉じた。
*
午前九時四十二分。
緊急会議が始まった。
黒木は、会議室の前方に立った。
集まった社員たちの表情は硬かった。
情報システム部門の佐伯直人は、ノートを手にしている。高瀬美紀は、セキュリティ運用の状況を整理した資料を用意していた。総務の中村は、社員への連絡と業務継続の調整について報告できるよう準備していた。
黒木は、全員を見渡した。
「まず、確認したいことがあります」
誰も口を挟まなかった。
「現時点で、原因はわかっていません。影響範囲も確定していません。データが持ち出されたかどうかも、まだ判断できない。ここまでは、よろしいですね」
佐伯がうなずいた。
高瀬も、短く答えた。
「はい」
「では、わからないことを、わかったように報告するのはやめましょう。推測は推測として報告してください。重大な可能性を見落とさないことと、確証のないことを断定しないこと。その両方が必要です」
黒木は、資料を机に置いた。
「次に、業務への影響です。社内のシステムが使えないことと、顧客向けのサービスが使えないことは分けて確認します。出荷、受発注、在庫、会計。それぞれの責任者から、確認できた事実を報告してください」
物流システムの担当者が、手を挙げた。
「在庫照会に遅延が出ています。出荷指示については、現時点で全拠点の状況を確認できていません」
「確認できていない拠点は、どこですか」
「現在、担当者に問い合わせています」
「では、その担当者と確認期限を決めてください。確認できないこと自体も、報告に含めてください」
黒木は、次の担当者に視線を移した。
会議は、静かに進んだ。
誰も、簡単な答えを持っていなかった。
しかし、何を確認すべきかは、少しずつ明らかになっていった。
会議の途中、高瀬が口を開いた。
「USBメモリについてですが、現時点では、原因と断定できません。接続時刻と警告の時刻は記録されています。ただ、それだけでは、ファイルが実行されたのか、別の経路から異常が始まったのかはわかりません」
「わかりました」
黒木は答えた。
「USBの調査は続けてください。ただし、USBだけを調べれば原因がわかると決めつけないでください。認証記録、端末の動作、ネットワークの記録も含めて確認しましょう」
高瀬は、うなずいた。
黒木は、会議室の時計を見た。
午前九時五十分。
まだ、事件の全貌は見えない。
だが、会社として何を優先するべきかは、少しずつ形になりつつあった。
被害の拡大を抑えること。
証拠を保全すること。
業務への影響を確認すること。
そして、社員と顧客に、確認できた事実を伝えること。
黒木は、最後にこう告げた。
「この段階で、誰か一人を原因と決めつけるつもりはありません。必要なのは、犯人探しを急ぐことではなく、何が起きているのかを正確に知ることです」
その言葉に、会議室の空気がわずかに変わった。
誰もが不安を抱えていた。
自分の担当するシステムは大丈夫なのか。
顧客に迷惑をかけていないか。
自分の操作が、何かの原因になったのではないか。
そんな思いが、誰の胸にもなかったとは言えない。
黒木は、それを理解していた。
だからこそ、最初から誰かを責めることはしなかった。
*
午前十時を少し過ぎた頃。
会議室を出た黒木の携帯端末が、短く振動した。
情報システム部門からの緊急連絡だった。
『複数の端末で、ファイルの暗号化を疑わせる異常が確認されています。身代金要求とみられるメッセージが表示された端末もあります。現在、確認を進めています』
黒木は、足を止めた。
暗号化。
身代金要求。
その二つの言葉は、単なるシステム障害とは違う可能性を示していた。
ランサムウェア。
頭の中に、その言葉が浮かんだ。
だが、まだ、すべてを断定できるわけではない。
彼はすぐに返信した。
『対象端末を記録し、指示のない再起動や初期化は行わないでください。証拠を保全しながら、影響範囲を確認してください。外部専門家への相談も準備します』
送信したあと、黒木は窓の外を見た。
東京の街は、いつもと変わらなかった。
道路を走る車。
駅へ向かう人々。
ビルの中で、今日の仕事を始めた無数の会社員たち。
彼らの多くは、自分が使っているシステムが、どのような仕組みで動いているのかを知らない。
知らなくても、仕事ができる。
それが、システムを運用する側の目指す日常だった。
だが、その日常を支える仕組みが止まれば、人々の仕事も止まる。
そして、顧客との約束も、社員の暮らしも、少しずつ影響を受け始める。
黒木は、携帯端末を握り直した。
彼は、まだ犯人を知らない。
侵入経路も、被害の全容も、復旧までに必要な時間もわからない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
これは、パソコン数台の不具合として片づけられる問題ではない。
サイバーナイト株式会社は、会社全体として危機に向き合わなければならなくなったのだ。
午前十時七分。
社内の緊急チャンネルに、新しいメッセージが投稿された。
『身代金要求とみられる画面を確認。情報システム部門は、対象端末の隔離と証拠保全を継続中』
黒木は、その文章を最後まで読んだ。
そして、次に何を決めるべきかを考え始めた。
会社の朝は、まだ終わっていなかった。
だが、いつもの朝では、もうなかった。




