第一話 サイバーナイト株式会社の朝
【登場人物紹介】
◾️黒木 厳 46歳
サイバーナイト株式会社・最高情報責任者(CIO)。
学生時代はサッカー部のセンターフォワードとしてプレーした。
現在は、会社全体の情報システム戦略と危機対応を担う。技術者としてすべてを自力で解決するのではなく、専門家の分析を経営判断につなげ、会社としての責任を引き受ける立場にある。
三年前、旅行先での不慮の交通事故によって妻と娘を亡くした。今もその喪失を抱えながら、仕事を続けている。
◾️佐伯 直人
サイバーナイト株式会社・情報システム部門の技術者。
社内端末やシステムの異常を現場で確認し、ログの保全や影響範囲の調査に取り組む。危機のなかでも技術的な事実と推測を区別し、黒木の判断を支える。
◾️高瀬 美紀
サイバーナイト株式会社・セキュリティ運用担当。
セキュリティ警告や端末の異常を追い、複数の記録を照合しながら、何が起きたのかを探る。小さな違和感を見逃さず、確証のない段階で結論を急がない。
◾️佐伯 ノボル(さえき・のぼる)
サイバーナイト株式会社・営業担当。
顧客訪問の途中で会社支給のノートパソコンを持参していないことに気づき、私物のMicrosoft Surfaceから会社の環境へアクセスしたことが、調査の焦点の一つとなる。
しかし、個人端末を使ったという事実だけで、彼が攻撃の実行者だと決まるわけではない。彼の行動記録と端末に残された痕跡は、事件の経緯を解き明かす重要な手がかりとなっていく。
◾️白石 恵
社内の利用部門と顧客への影響を意識する立場の人物。
技術者がシステムの復旧を急ぐ一方で、現場の社員や顧客が実際に何に困っているのかを問い続ける。復旧作業の向こう側にある、人々の仕事と暮らしを見失わないための存在。
◾️中村
人事・総務部門の責任者。
社員への連絡、勤務状況の確認、在宅勤務者や休職・休暇中の社員への対応などを調整する。危機対応が技術部門だけでは完結しないことを、組織運営の側から示す。
◾️相馬
外部のインシデント対応・デジタルフォレンジックチームの責任者。
端末やネットワークに残された証拠を分析し、侵入経路や被害の実態を調査する。断定できる事実と、まだ立証されていない仮説を明確に分ける。
◾️藤井
外部専門チームのデジタルフォレンジック担当者。
端末に残されたファイル、実行履歴、通信記録などを調べ、異なる証拠の時刻や内容を照合する。断片的な記録をつなぎ、攻撃の経緯を明らかにしていく。
◾️青木タツオ
57歳/サイバーナイト株式会社・社長
学生時代からラグビーを経験。
組織を率いること、仲間との結束、勝負どころでの決断を重んじる。
自分では「修羅場に強い経営者」だと思っている。
しかし、私生活の秘密が会社の危機に結びついたとき、経営者としての顔を保てるのか。
◾️ウー・シャオ(ウーシャオ)
32歳/青山の画廊店主
現代美術を扱う画廊の店長。
作品の価値を見極め、人の表情や言葉の変化にも敏感。
◾️サイバーナイト株式会社の社員たち
約千百人の社員。
情報システム部門、営業、開発、運用、管理部門。それぞれが異なる立場から危機に直面する。システム停止によって影響を受けるのは、パソコンやサーバーだけではない。社員の仕事、顧客との約束、そして日々の暮らしそのものなのだ。
# Cyber Crisis Management
## ――最高情報責任者・黒木 厳の責任
### 第一話 サイバーナイト株式会社の朝
東京都港区六本木。
泉ガーデンタワーの一角に、サイバーナイト株式会社の本社はあった。
従業員、およそ千百人。
日本企業向けの業務システムを開発し、保守し、運用する中堅IT企業である。受発注、在庫管理、物流、販売管理、会計連携。企業活動に欠かせない、しかし普段は誰も意識しないシステムを、顧客に代わって動かし続ける。それが同社の仕事だった。
華やかな最先端技術を世間に売り込む会社ではない。
顧客企業の担当者から電話がかかってくる。
「昨日まで動いていたんですが」
その一言から、誰かの長い一日が始まる。
画面に表示されるエラーメッセージ。処理されない注文。更新されない在庫数。倉庫で待機するトラック。締め処理が終わらない経理部門。
サイバーナイト株式会社の社員たちは、そうした問題を一つずつ解決し、顧客の日常を元に戻してきた。
システムが正常に動いているとき、彼らの仕事は目立たない。
だが、止まったときには、誰もが彼らを探す。
それが、この会社の商売だった。
社名の由来については、社史に詳しい説明がある。
創業者が掲げたという「騎士の精神」。顧客を守り、約束を守り、技術によって社会に奉仕する――。
会社案内にも、採用パンフレットにも、社内ポータルにも、その理念は繰り返し登場する。
ただし、社員の誰かが社名を口にするたびに、社内で本物の騎士を探す者はいなかった。
甲冑を着た社員もいなければ、馬で通勤する役員もいない。
いるのは、オフィスカジュアルの服装でパソコンに向かう技術者たちと、顧客訪問のためにスーツを着た営業社員たち。そして、会議の予定を調整し、請求書を確認し、障害報告書の文言を何度も修正する、ごく普通の会社員たちである。
社名だけが、少しばかり勇ましかった。
もっとも、社内の誰も、それを問題にしてはいなかった。
サイバーナイト株式会社は、社名のわりに堅実な会社だった。
ただ一つ、全社的に進められている大きな変更があった。
社内グループウェアの移行である。
長年使用してきたMicrosoft 365から、Google Workspaceへ。
部門ごとに移行作業が進み、旧環境を利用する社員もいれば、新環境で仕事をする社員もいる。メール、予定表、ファイル共有、会議の設定。毎日使う道具を入れ替える作業は、思いのほか細かな調整を必要とした。
移行プロジェクトの担当者たちは、会議のたびに進捗を報告していた。
アカウントの切り替えはどこまで進んだか。
アクセス権限は正しく引き継がれているか。
共有ファイルの移行漏れはないか。
問い合わせ窓口は機能しているか。
それらは重要な問題だった。
しかし、会社の受発注や在庫管理を担う基幹業務システムと、社内の情報共有に使うグループウェアは、別の仕組みである。
グループウェアの移行が進んでいるからといって、基幹システムまで同じ環境に移されるわけではない。
社内の誰もが、その区別を毎日意識していたわけではなかったが。
そして、この朝。
その違いを、会社全体が否応なく思い知らされることになる。
*
午前八時四十分。
泉ガーデンタワーの高層階にある役員フロアに、一人の男が現れた。
黒木厳、四十六歳。
サイバーナイト株式会社の最高情報責任者、CIOである。
黒木は、ゼニアのスーツを着ていた。
手にはオロビアンコのバッグ。足元にはグッチの革靴。
服装に無頓着な人間から見れば、どれも必要以上に気を遣った装いだったかもしれない。
黒木自身は、そう考えていなかった。
仕事をする以上、相手にどう見られるかも仕事の一部である。
少なくとも彼は、そう信じていた。
だからといって、部下にも同じブランドを求めるわけではない。社員の服装は原則としてオフィスカジュアルであり、営業職は顧客訪問に合わせてスーツを着る。それでよかった。
自分の流儀を、他人の義務にする必要はない。
黒木はバッグをデスク脇に置き、パソコンを起動した。
メールを確認する。
前日の障害報告。
システム開発部門からの進捗連絡。
グループウェア移行プロジェクトの定例報告。
そして、経営会議の資料。
彼は画面を順番に確認し、気になる項目に印をつけていった。
特別なことは何もない。
会社の情報システムを預かる人間にとって、こうした確認は日常だった。
黒木は、技術者ではなかったわけではない。システムの構造も、運用の難しさも、開発現場の事情も理解していた。
だが、今の彼の仕事は、自分一人でプログラムを書き、障害を修正することではない。
何に投資するのか。
どのリスクを許容するのか。
どこまでを社内で担い、どこからを外部の専門家に任せるのか。
そして、問題が起きたとき、誰が判断し、誰が説明し、誰が責任を負うのか。
それを決めることが、CIOである黒木の役割だった。
彼には、もう一つ、学生時代から変わらない習慣があった。
物事を、少し離れたところから眺めること。
サッカー部に所属していた頃、黒木のポジションはセンターフォワードだった。
ゴールを狙う位置である。
相手ディフェンダーの動き、味方の走り出すタイミング、ボールが出てくる場所。ほんの一瞬の判断が、得点になるか、決定機を逃すかを左右する。
彼は、ゴール前で迷わない選手だった。
もちろん、いつも得点できたわけではない。
シュートを外す日もあった。相手に徹底してマークされ、ほとんどボールに触れられない試合もあった。
それでも、次のチャンスが来れば、またゴールを狙った。
センターフォワードは、失敗をなかったことにはできない。
失敗したあと、次のプレーをどうするかが問われる。
四十六歳になった黒木は、時折、仕事にも似たところがあると思っていた。
ただし、会社の危機はサッカーとは違う。
失点したからといって、すぐに試合をやり直せるわけではない。相手が誰なのかさえ、わからないこともある。
そして、ゴールを決めるように、自分一人の力で解決できる問題ばかりでもなかった。
黒木は、そこを忘れないようにしていた。
*
午前九時十二分。
黒木は、取引先から受け取ったUSBメモリを手にしていた。
中には、打ち合わせで使用する提案資料が入っていると聞いていた。
メールで送付できない容量なのか、先方の社内規定によるものなのか。詳しい事情までは聞いていなかった。
彼は、USBメモリのラベルを一度確認した。
取引先の社名と、資料名。
特に不審な点はなかった。
黒木は、それをパソコンに接続した。
画面にファイル一覧が表示される。
提案書。
見積書。
参考資料。
どれも、会議で使うファイルとして不自然ではなかった。
黒木は提案書を開いた。
最初のページが表示された。
会社のロゴ。案件名。日付。
見慣れた形式の資料だった。
そのとき、画面が一瞬だけ止まった。
マウスの矢印が動かなくなる。
黒木は、手を止めた。
ほんの一、二秒。
やがて画面が動き始めた。
次の瞬間、画面の隅に通知が表示された。
――不審な動作を検知しました。管理者に通知しました。
黒木は、通知を読み直した。
不審な動作。
管理者に通知。
その二つの言葉が、画面の上で静かに並んでいた。
彼はマウスから手を離した。
数秒後、社内チャットにメッセージが届いた。
送信者は、情報システム部門の佐伯直人だった。
『黒木さん、その端末で操作を続けないでください。USBメモリも抜かず、そのままにしてください。担当者が確認します』
黒木は、すぐに返信した。
『了解。こちらでは操作を止めた。何を検知した?』
返信は、すぐには来なかった。
黒木は画面を見つめた。
これまでにも、セキュリティ製品が警告を出したことはあった。誤検知もあれば、実際に対処が必要な事象もある。
警告が表示されたというだけで、重大な侵害が起きたと決まるわけではない。
だが、無視してよいという意味でもなかった。
彼は、もう一度だけ通知を確認した。
そして、パソコンにもUSBメモリにも触れず、佐伯からの連絡を待った。
その頃、情報システム部門では、別の端末についても異常の報告が上がり始めていた。
まだ、誰も全体像を知らなかった。
USBメモリが原因なのか。
黒木の端末だけの問題なのか。
それとも、すでに社内の別の場所で何かが起きているのか。
この時点で、確かなことは一つしかなかった。
サイバーナイト株式会社の、いつもと変わらない朝が、いつもどおりには終わらないかもしれない。
黒木厳は、まだそのことを知らなかった。




