第四話 バックアップは、約束ではない
【登場人物紹介】
◾️青木タツオ
57歳/サイバーナイト株式会社・社長
学生時代からラグビーを経験。
組織を率いること、仲間との結束、勝負どころでの決断を重んじる。
自分では「修羅場に強い経営者」だと思っている。
しかし、私生活の秘密が会社の危機に結びついたとき、経営者としての顔を保てるのか。
◾️ウー・シャオ(ウーシャオ)
32歳/青山の画廊店主
現代美術を扱う画廊の店長。
作品の価値を見極め、人の表情や言葉の変化にも敏感。
第四話 バックアップは、約束ではない
午前十一時四十分。
サイバーナイト株式会社、本社二十階。
会議室の壁面モニターには、社内システムの稼働状況が表示されていた。
赤、黄、灰色。
停止。影響調査中。未確認。
本来ならば、顧客への納品状況や物流の進捗を確認するために使われる画面だった。今は、会社そのものがどこまで動けるのかを示す、不完全な地図になっていた。
黒木厳は、テーブルの端に置かれた資料を見つめた。
「バックアップは、あります」
情報システム部門の佐伯直人が報告した。
「昨日のバックアップ処理については、成功した記録を確認できています。ただし、現時点では、保存されたデータの完全性と、実際に復元できるかどうかは検証中です」
青木タツオ社長が腕を組んだ。
「昨日までのデータがあるなら、戻せばいいんじゃないのか」
「戻すこと自体は、手順として可能かもしれません」
佐伯は慎重に言葉を選んだ。
「ですが、今の環境が安全だと確認できていません。バックアップへのアクセス経路が侵害されていないか、保存されたデータに異常がないか、復元先が安全か。その確認が必要です」
「バックアップまでやられている可能性があるのか」
「可能性を排除できていません」
会議室に沈黙が落ちた。
黒木は、その沈黙を埋めるために、安易な希望を口にするつもりはなかった。
バックアップが存在する。
それは、確かに重要な事実だった。
しかし、存在することと、使えることは違う。
使えることと、安全に使えることも違う。
そして、安全に復元できたとしても、昨日までの業務が完全に戻るとは限らない。
「まず、三つに分けて確認しましょう」
黒木は資料を一枚、会議の中央へ滑らせた。
「バックアップが残っているか。残っているデータを安全に復元できるか。復元したデータで、業務を正しく再開できるか。この三つは別々に扱います」
青木は資料に目を落とした。
「それで、いつ戻せる」
「現時点では、全システムの復旧時刻を約束できません」
「黒木君」
社長の声が、わずかに低くなった。
「顧客に説明しなければならないんだ。営業も物流も止まっている。いつまで待てばいいのか、それが分からなければ説明のしようがない」
「おっしゃるとおりです」
黒木は社長を見た。
「ですから、全システムの完全復旧日を一つの数字で示すのではなく、業務ごとに見通しを出します。何が止まっているのか。何が代替手段で動かせるのか。どのデータを確認すれば再開できるのか。そこを分けて報告します」
「つまり、まだ分からないということか」
「はい。まだ分からないことがあります。それを、分かったことにはできません」
青木は返事をしなかった。
黒木は、社長が求めているものを理解していた。
経営者が欲しいのは、安心できる数字だ。
顧客が欲しいのは、納期を守れるという約束だ。
社員が欲しいのは、明日も仕事ができるという見通しだ。
しかし、そのすべてを満たしたいからといって、確認していない数字を口にするわけにはいかなかった。
間違った約束は、あとから別の危機を生む。
午後零時五分。
会議室の隣に設けられた臨時対応スペースでは、高瀬美紀が外部の専門家と通話していた。
「はい。バックアップの保存先と、通常環境からのアクセス経路を分けて確認しています。復元作業は、元の環境に直接戻すのではなく、隔離した環境で検証する方向です」
通話を終えた高瀬は、佐伯のところへ向かった。
「相馬さんたち、午後には到着できるそうです」
相馬は、今回のインシデント対応を支援する外部チームの責任者だった。チームには、端末やログの分析を専門とする藤井も参加している。
「デジタルフォレンジックも、初動から入ってもらえるんですね」
佐伯が確認した。
「ええ。感染した可能性のある端末をどう保全するか、どのログを先に確保するか。復旧作業で証拠を失わないように、最初から連携します」
「助かります。こちらだけでは、千百人分の端末とサーバーを、全部同時に調べるのは無理です」
「だからこそ、優先順位をつけるんです」
高瀬は、ホワイトボードに書かれた項目を指した。
感染が疑われる端末。
認証ログ。
サーバーのイベント記録。
ネットワーク機器のログ。
バックアップへのアクセス履歴。
どれも重要だが、すべてを同じ順番で処理できるわけではない。保存期間の短い記録もあれば、端末を不用意に操作することで失われる可能性のある情報もある。
「復旧を急ぐことと、証拠を守ること。どちらか一方では駄目なんです」
高瀬は言った。
「両方を、同時に進める必要があります」
午後零時二十分。
黒木のもとへ、営業部門から新たな報告が届いた。
顧客への納品予定を確認するための共有ファイルが開けない。担当者は、手元に残っているメールや個別の記録を使って、出荷予定を再確認しているという。
「顧客への影響は?」
黒木が尋ねた。
白石恵が、手元のメモを確認した。
「一部の問い合わせに、回答が遅れています。ただし、現時点で顧客向けサービス全体が停止しているとは確認されていません。個別の影響は、営業とサポートで照合しています」
「分かりました。確認できた影響だけを、まず整理してください」
黒木は続けた。
「復旧していないことと、顧客のデータが失われたことは、同じではありません。逆に、顧客向けサービスが動いているからといって、影響がないとも言えません」
白石はうなずいた。
「問い合わせ窓口には、確認できていないことを断定しないよう共有します」
「お願いします。次の更新時刻も決めてください。情報が増えていなくても、次にいつ報告するかは伝えましょう」
危機の最中、人は空白を嫌う。
何も分からない時間が続けば、不安は憶測を生む。
だからといって、空白を推測で埋めてはいけない。
黒木は、顧客への説明にも、社内への連絡にも、同じ原則を適用することにした。
午後一時。
相馬と藤井が到着した。
会議室に入ると、相馬は簡単に挨拶を済ませ、すぐに状況説明を求めた。
「最初に確認したいのは、現在までに何が確定しているかです。原因についての推測は、あとで構いません」
黒木は佐伯に目を向けた。
佐伯は、用意していた資料をモニターに映した。
「複数の端末で異常なファイル変更が発生しています。身代金要求の画面も確認しました。バックアップ処理が前日に成功した記録はありますが、バックアップ自体の安全性と復元可能性は未確認です」
「顧客向けサービスは?」
藤井が尋ねた。
白石が答えた。
「一部の業務に遅延があります。顧客向けサービスへの影響は、個別に確認中です。現時点で、すべてのサービスが停止したとは言えません」
「データの持ち出しを示す証拠は?」
「まだ確認できていません。ただし、持ち出しがなかったと断定できる段階でもありません」
藤井はその回答をメモした。
「分かりました。では、現時点で確認できていることと、未確認のことを分けたまま調査を進めます」
相馬は、黒木に向き直った。
「復旧を優先するシステムについて、経営側の順位づけはありますか」
「あります。ただし、技術的に安全だと確認できない環境へ、業務を戻すことはしません」
黒木は、優先順位を書いた資料を渡した。
「顧客への影響、業務上の緊急性、代替手段の有無。この三つで優先順位を決めています。技術的に復旧可能かどうかは、皆さんの調査結果を踏まえて判断します」
「承知しました」
相馬は資料を受け取った。
「こちらからは、確認できた事実、技術的な評価、未解決の事項を分けて報告します。原因や関係者について、証拠が示していないことまで断定することはしません」
黒木はうなずいた。
それでよかった。
調査チームが果たすべき役割は、経営者に都合のよい結論を用意することではない。
記録を守り、分析し、事実を示すことだ。
その事実を受け取って、会社として何を決めるのか。
それは黒木の仕事だった。
午後一時三十五分。
藤井は、保全対象の一覧を確認しながら、佐伯に尋ねた。
「端末管理の台帳は、現在も参照できますか」
「社内の管理システムが停止しているので、通常の方法ではアクセスできません。バックアップや別の記録から復元できるか確認しています」
「では、社員名簿、購入・貸与記録、認証ログなど、別の資料を確保してください。すべての端末を一度に調べるのではなく、影響が確認された端末から優先して整理します」
「分かりました」
藤井は続けた。
「端末の所在を確認するためだけに、異常が出た機器を起動し直すことは避けてください。現状を記録し、誰がいつ引き渡したのか分かるようにしておきたい」
高瀬が、壁際のホワイトボードに新しい項目を書き加えた。
端末識別情報。
保全担当者。
引き渡し時刻。
保管場所。
操作履歴。
一つずつ確認するだけでも、時間がかかる。
だが、約千百人の社員が使用する端末を、所在も状態も曖昧なまま扱うわけにはいかなかった。
黒木は、書き加えられていく項目を見つめた。
システムが止まると、普段は見えないものが見える。
誰が何を管理していたのか。
何が記録されていたのか。
どこまでを把握できていたのか。
そして、どこから先は、会社が把握できていなかったのか。
障害は、コンピューターの中だけで起きているのではなかった。
会社の管理体制そのものにも、確認すべきことが残っていた。
午後二時。
黒木は窓際に立ち、六本木の街を見下ろした。
スマートフォンには、社内からの報告が次々に届いている。
復旧作業の進捗。
顧客への問い合わせ。
営業部門からの追加確認。
バックアップの検証状況。
どれも、すぐに片づくものではなかった。
三年前、妻と娘を交通事故で失ったとき、黒木は、自分がどれだけ努力しても取り戻せないものがあることを知った。
その記憶を、今ここで持ち出すつもりはなかった。
目の前にいる社員たちも、それぞれの生活を持っている。顧客にも、守るべき仕事がある。
だからこそ、希望だけを語ることも、恐怖だけを語ることも、彼にはできなかった。
黒木は机に戻り、次の経営会議で報告する項目を整理した。
現時点の被害範囲。
バックアップの検証状況。
優先業務の復旧見通し。
顧客への影響。
調査によって確認できた事実と、まだ確認できていない事項。
最後に、彼は一行を加えた。
復旧の見通しは、確認できた事実に基づいて更新する。未確認の事項を、確定事項として説明しない。
黒木はペンを置いた。
バックアップは、約束ではない。
ログも、約束ではない。
それらは、過去に何が行われたかを確かめるための記録だ。
記録を集め、確かめ、そこから何を判断するか。
その仕事は、まだ始まったばかりだった。




