新章『黒木厳 - 晴海トリトン Zタワー編』 第十話 ポート番号解放は、致しません
今回のお話には、「ISP」と「ポート番号」という言葉が登場します。
少しだけ、説明させてください。
◾️ ISPとは?
ISPは、インターネット・サービス・プロバイダーの略です。家庭のインターネット回線を、インターネットにつなぐサービスを提供する事業者のことです。
今回のお話では、社員の自宅で利用している、地元のケーブルテレビ系ISPが登場します。
◾️ポート番号とは?
コンピューターがネットワーク通信をするとき、通信先のサービスを識別するために使われる番号です。
たとえば、同じ建物にいくつもの部屋があるように、コンピューターの通信にも、用途に応じた行き先があります。ポート番号は、その行き先を識別するための目印の一つです。
企業では、セキュリティを守るため、通信できるポート番号や通信の条件を制限している場合があります。
ただし、ポート番号を許可すれば必ず安全に通信できる、というわけではありません。どの通信を許可するかは、会社のセキュリティ要件やリスクを踏まえて判断する必要があります。
今回のお話は、こうした会社側の通信制限と、社員の自宅のインターネット環境が関係する出来事です。
少し地味な話かもしれません。
けれど、会社の情報システム部門では、セキュリティを守ることと、社員が仕事をできる環境を整えること、その両方が求められます。
それでは、黒木厳の仕事を、どうぞお読みください。
第十一話 ポート番号解放は、致しません。
五十ギガの向こう側
晴海トリトン、Zタワー。
三つ巴物産ホールディングスの情報システム部では、月例の部内会議が終わったあとも、何人かが席を立たずにいた。
議題は、社用スマートフォンの通信容量についてだった。
「在宅勤務中に、会社のiPhoneの通信容量を使い切ってしまったそうです」
小林美咲が、問い合わせの内容を説明した。
「契約は五十ギガです。本人からは、容量を増やしてほしいという要望が来ています」
高瀬由美が、手元の資料に目を落とした。
「五十ギガを使い切った、ですか」
「はい」
「何に使ったのか、確認は取れていますか?」
「自宅で業務をする際、社用iPhoneのテザリングを使っていたそうです。パソコンのシステム更新なども、その回線経由で行っていたとのことです」
高瀬は、すぐには返事をしなかった。
「まず、利用状況を確認しましょう。通信容量を増やせば解決するのか、それとも別の問題なのか。そこを分けないと、判断できません」
部長の佐伯雅彦が頷いた。
「そうですね。黒木さん、どう思いますか」
黒木厳は、資料から顔を上げた。
「五十ギガという数字だけでは、判断できないと思います。何に、どのくらい使ったのか。それと、そもそも、なぜ自宅のWi-Fiを使わずにテザリングしていたのか。その二つを確認したいです」
「自宅の回線に問題があるということでしょうか」
「その可能性もあります。ただ、今の段階では分かりません」
黒木はそう答え、担当者に確認を依頼した。
通信容量の話は、数字だけを見れば簡単に思える。
五十ギガを使い切った。
ならば、もっと大きな容量に変更すればよい。
しかし、企業の情報システム部門では、数字だけで結論を出すことはできない。
なぜ、その容量が必要になったのか。
会社が用意している仕組みで対応できないのか。
そして、対応するために、何を変更しなければならないのか。
その日の午後、確認結果が届いた。
小林が黒木の席にやってきた。
「黒木さん、少しよろしいですか」
「はい。どうしました?」
「自宅の回線は、地元のケーブルテレビ系のISPだそうです。それで、会社の業務システムに接続しようとすると、必要な通信が通らないとのことでした」
「接続そのものができないのですか。それとも、特定の業務通信だけができないのですか」
「そこは、正確に分けて確認したほうがよさそうです。少なくとも、会社の業務に必要な通信が、自宅のWi-Fi経由では成立しなかった。そのため、社用iPhoneのテザリングを使っていたようです」
黒木は頷いた。
「会社側の通信制限との関係も確認しましょう。自宅の回線が悪いと決めつけることはできませんから」
小林は、少し表情を引き締めた。
「はい。確認します」
しばらくして、担当者から追加の報告が入った。
問題は、単純な通信容量の不足だけではなかった。
会社側では、セキュリティ上の理由から、許可する通信やポート番号に制限を設けていた。
その制限を簡単に解除することはできない。
会社のネットワークを守るために必要な措置であり、個別の社員から要望があったからといって、安易に例外を認めるわけにはいかなかった。
黒木は、報告を読みながら考えた。
社員は在宅勤務をするために、会社の用意した端末を使っている。
しかし、自宅の回線から必要な業務通信ができない。
そのため、会社のスマートフォンをテザリングに使う。
結果として、五十ギガの通信容量を使い切った。
社員の要求だけを見れば、通信容量を増やしてほしいという話になる。
だが、原因をたどれば、その前に確認しなければならないことがある。
「佐伯部長」
黒木は、部長席に向かった。
「今回の件ですが、通信容量の増量だけで解決する問題ではなさそうです」
「というと?」
「会社側のセキュリティ制限によって、自宅の回線から必要な業務通信ができず、テザリングに頼っていたようです」
佐伯は報告資料に目を通した。
「なるほど。では、制限を変更すればよいという話ですか」
「いえ。そこは慎重に考える必要があります」
黒木は言葉を選んだ。
「セキュリティ上の制限ですから、在宅勤務を成立させるためだけに、安易にポート番号を許可するわけにはいきません。許可できるかどうかは、通信の内容やリスクを確認したうえで判断すべきです」
「そうですね」
「一方で、本人がテザリングを使っていた理由も分かりました。単純に、使いすぎたから容量を増やせばよい、という話でもありません」
佐伯は椅子の背にもたれた。
「では、どうしますか」
「まずは、現行のセキュリティ要件を維持することを前提に、対応できる方法があるか確認します。ただ、契約の変更や端末の追加が必要になる場合は、費用や手配の問題もあります」
「分かりました。高瀬さんとも相談しましょう」
高瀬が資料を受け取り、確認した。
「法人契約の通信容量を変更するとなると、個人の要望だけで決めるわけにはいきません。契約全体への影響もありますし、追加のiPhoneをすぐに用意できるとも限りません」
「はい」
「それに、セキュリティ上の制限を変更するのであれば、通信容量とは別の判断になります。こちらも簡単には認められません」
黒木は頷いた。
「その点は、私も同じ考えです」
高瀬は、資料を閉じた。
「では、本人には、現状の環境では対応できないことを説明する必要がありますね」
「そうですね。ただ、仕事を続けるための方法も、一緒に考えたいと思います」
黒木はそう答えた。
できない理由を説明するだけなら、難しくはない。
セキュリティ上、許可できない。
契約上、すぐには変更できない。
端末も、すぐには用意できない。
どれも、事実だった。
だが、事実を並べるだけでは、仕事は進まない。
翌日、黒木は佐伯と相談したうえで、人事総務に連絡した。
在宅勤務の環境が整わず、現状のままでは業務に支障が出る社員について、どう対応するか。
人事総務の担当者は事情を確認し、関係者との調整を進めた。
その結果、当面は出社して業務を行ってもらうことになった。
黒木は、本人への説明に必要な情報を整理した。
セキュリティ制限を解除することはできない。
通信容量の増量や端末の追加も、すぐには対応できない。
そのため、現状では出社して業務を行ってほしい。
伝えるべきことは、明確だった。
ただし、相手の事情を聞かずに、会社の都合だけを押しつけるような説明にはしたくなかった。
黒木は、説明の文面を何度か読み返した。
そして、最後に余計な言葉を削った。
必要なことを、正確に伝える。
それが、こういう場面では一番難しい。
数日後、小林が黒木の席にやってきた。
「今回の件、ひとまず出社で対応することになりましたね」
「はい」
「通信容量を増やすだけなら、もっと簡単だったのかもしれませんね」
黒木は、少し考えてから答えた。
「そうかもしれません。ただ、容量を増やせば、根本的な問題が解決するとは限りません」
「セキュリティの制限もありますしね」
「ええ。守るべきものがありますから」
黒木は、モニターに目を向けた。
情報システム部門の仕事は、何かを便利にすることだけではない。
何を許可し、何を許可しないのか。
どこまで対応できて、どこから先は別の方法を考えるべきなのか。
その境界を見極めながら、会社の業務が止まらないようにする。
そのためには、技術だけでなく、契約や費用、組織の判断も必要になる。
「黒木さん」
小林が尋ねた。
「今回の件、これで終わりでしょうか」
「当面の対応としては、そうですね。ただ、在宅勤務の環境については、今後も確認する必要があると思います」
「分かりました」
小林は自分の席へ戻っていった。
黒木は、机の上の資料を整えた。
五十ギガ。
数字だけなら、通信容量の問題に見える。
だが、その数字の向こう側には、セキュリティの制約があり、契約の条件があり、働く人の事情がある。
どれか一つだけを見て判断すれば、別の何かを見落としてしまう。
だからといって、すべての要望をかなえられるわけでもない。
守るべきものを守りながら、現実にできる方法を探す。
情報システム部門の仕事とは、そういうことの繰り返しだった。
黒木は、次の会議の資料を開いた。
そこには、また別の課題が並んでいた。
派手な仕事ではない。
けれど、誰かが考え、誰かが調整しなければ、会社は動かない。
黒木は、静かに資料を読み始めた。




