新章『黒木厳 - 晴海トリトン Zタワー編』 第八話 Chatbot(自動会話プログラム)
第九話 Chatbot(自動会話プログラム)
便利にする側、使う側
月曜日、午前十時。
晴海トリトン、Zタワー。
三つ巴物産ホールディングス、情報システム部の定例ミーティングは、問い合わせ対応の改善案について話し合っていた。
「問い合わせの一次受付を、チャットボットにできないかと思っています」
山本悠斗の提案に、小林美咲と中村彩が賛同した。
パスワードのリセット方法。
アカウントのロック解除。
社内システムへのログイン方法。
同じような質問が、毎日のように届く。
そのたびに担当者が内容を確認し、必要な情報を聞き、回答する。簡単な問い合わせであっても、件数が重なれば、それなりの時間を取られる。
「まずは、Microsoft 365の既存環境で実現できる方法を調べたいです」
山本は続けた。
「新しいシステムを契約する前に、今ある機能でできることを確認します。対象も、最初はよくある問い合わせに絞りたいと考えています」
高瀬由美が確認した。
「既存のライセンスで利用できる範囲なら、追加費用を抑えられる可能性がありますね。ただ、使う機能によって条件が違うので、そこは確認してください」
「はい」
佐伯雅彦部長が全員を見渡した。
「では、次の段階に進みましょう。社員向けのWeb説明会を開くことを想定して、説明資料を作成してください」
若手たちが顔を上げた。
「山本さんと松井さんは、仕組みと利用方法。小林さんと中村さんは、現場の問い合わせ対応がどう変わるのか。佐藤さんは、利用する社員の立場から、分かりにくい点や不安に感じる点を整理してください」
「承知しました」
四人が答えた。
佐伯は、少し間を置いて付け加えた。
「ただし、導入が決まったわけではありません。説明会では、検討している内容と、まだ決まっていないことを分けて説明できるようにしてください」
「はい」
「それから、便利になるという説明だけでは不十分です。社員から質問や異論が出ることも想定して、回答を準備しておきましょう」
黒木厳は、黙って聞いていた。
提案を出した若手たちに、今度は自分たちの言葉で説明する機会が与えられた。
それは、単に資料を作る仕事ではなかった。
何を解決したいのか。
誰にとって便利になるのか。
何が変わり、何が変わらないのか。
自分たちの提案を、利用する側の視点から考え直す作業でもあった。
*
翌日、午後二時。
情報システム部の小会議室。
テーブルの上には、若手たちが作成した説明資料の初稿が並んでいた。
タイトルは、
**「社内問い合わせの一次受付に関する改善案」**
最初のページには、チャットボットを導入する目的が記されている。
「よくある問い合わせへの案内を効率化し、個別対応が必要な相談に、より多くの時間を確保する」
小林が説明した。
「問い合わせをなくしたいわけではないんです。同じ説明を繰り返す時間を減らして、その分、個別に確認が必要な相談に時間を使いたいんです」
「そこは、きちんと書いておいたほうがいいですね」
黒木が言った。
「チャットボットの導入が、ヘルプデスクの人員削減を目的にしていると受け取られたら、本来の目的が伝わりませんから」
中村が資料に一行追加した。
「有人対応をなくすものではなく、一次受付を補助する仕組み、と明記します」
「そうですね」
黒木はうなずいた。
山本が次のページを表示した。
「利用イメージは、こうです。社員が質問を入力すると、あらかじめ用意した案内を表示します。案内だけで解決しない場合は、従来の問い合わせ窓口につなぎます」
松井が補足した。
「最初から、何でも答えられる仕組みにはしません。回答内容を確認できるものに限定します。アカウントや権限の変更など、個別の判断が必要なものは、人が対応する前提です」
「個人情報の扱いは?」
黒木が尋ねた。
「そこも整理しています。パスワードなどの秘密情報を入力しないよう、利用画面に注意を表示する案です。ただ、実際にどこまで入力制御できるかは、採用する仕組みを確認する必要があります」
「分かりました。できることと、注意を呼びかけることは、分けて説明してください」
山本はメモを取った。
高瀬が費用に関するページを確認した。
「ここに『追加費用なしで導入可能』と書いてありますが、まだ断定しないほうがいいですね」
「既存のMicrosoft 365を使うつもりでしたが、機能によって条件が違うんですよね」
山本が答えた。
「そうです。既存契約の範囲で実現できる可能性はありますが、確認が終わるまでは、『既存環境での実現方法を確認中』としておきましょう」
「分かりました」
資料の文言が修正された。
導入費用は、確認中。
利用できる機能も、確認中。
運用担当者についても、今後の調整事項。
決まっていないことを、決まったように書かない。
それだけでも、資料の印象は変わった。
*
「もう一つ、考えておきたいことがあります」
黒木が言った。
「説明会で、社員から反対意見が出たら、どう答えますか」
若手たちが顔を見合わせた。
「便利になるのに、反対する人がいるでしょうか」
山本が言った。
その言葉に、中村が少し笑った。
「山本さん、そこは甘いと思います」
「え?」
「私だって、チャットボットで何度も選択肢を選ばされて、結局解決しなかったら、最初から人に聞きたかったと思いますよ」
小林もうなずいた。
「急いでいるときに、チャットボットの案内を何ページも読まされるのは困りますね」
「なるほど……」
山本は腕を組んだ。
「じゃあ、有人対応に切り替えられることを、最初から説明しておく必要がありますね」
「はい。それから、チャットボットが対応できない質問まで、無理に答えさせないことも大事だと思います」
松井が言った。
佐藤は、利用者向けの説明文を読み返していた。
「問い合わせの内容が記録されるのか、誰が見るのか、という質問も出るかもしれません」
「そうですね」
黒木が答えた。
「利用者が不安に感じることを、面倒な質問として扱わないでください。説明する側にとっては当たり前でも、使う側には分からないことがあります」
佐伯が資料を閉じた。
「よろしい。説明会の資料には、導入のメリットだけでなく、想定される質問と回答も用意してください。まだ決まっていないことは、検討中と説明する。社員から出た意見は、記録して今後の判断材料にしましょう」
「承知しました」
若手たちは答えた。
会議が終わるころには、初稿にあった「問い合わせ対応を効率化します」という一文だけでは、説明が足りないことが分かっていた。
何を効率化するのか。
その結果、誰の仕事がどう変わるのか。
社員が困ったとき、これまでどおり人に相談できるのか。
費用や運用の責任者は、どうなるのか。
説明資料を作ることで、提案そのものに足りなかった部分が見えてきた。
*
その日の夕方。
黒木は、佐伯から頼まれた確認事項を整理していた。
既存のMicrosoft 365環境で利用できる機能。
必要となるライセンス条件。
問い合わせ内容の記録とアクセス権限。
回答内容の更新担当者。
有人対応への切り替え方法。
どれも、導入前に確認しておくべきことだった。
黒木は、資料の末尾に一行を追加した。
**「チャットボットは、社員の相談相手をなくすためのものではない」**
その文を見て、しばらく考えた。
少し強い表現かもしれない。
黒木は書き直した。
**「チャットボットは、定型的な問い合わせの一次受付を補助するものであり、個別の判断や相談が必要な場合は、従来の窓口で対応する」**
これなら、目的が明確だった。
人にしかできない仕事まで、機械に任せる必要はない。
反対に、機械で案内できることを、毎回人が一から説明する必要もない。
大切なのは、どちらか一方を選ぶことではなく、それぞれの役割を考えることだった。
黒木は資料を保存した。
社員向けWeb説明会の日程は、まだ確定していない。
導入するかどうかも、決まっていない。
これから社員の意見を聞き、機能を確認し、運用方法を整理していく。
一つの提案が、少しずつ具体的な仕事に変わり始めていた。
黒木は、パソコンの画面を閉じた。
明日もまた、問い合わせは届くだろう。
その問い合わせを受けながら、若手たちは新しい仕組みについて考える。
そして、説明会では、利用する社員たちが自分たちの意見を伝える。
会社の仕組みは、誰か一人の思いつきだけでは決まらない。
提案する人がいて、使う人がいて、判断する人がいる。
その間をつなぐことも、情報システム部門の仕事だった。




