↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
" Cyber Crisis Management " 最高情報責任者・黒木 厳の責任 " UN POUR TOUS, TOUS POUR UN."   作者: 東曌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/36

新章『黒木厳 - 晴海トリトン Zタワー編』 第七話 Digital Reputation Management(デジタル・レピュテーション・マネジメント)

第七話 人を疑うためではなく


翌日 午後二時。


晴海トリトン、Zタワー。


三つ巴物産ホールディングスの情報システム部では、いつもどおりの業務が続いていた。


クラウド環境の運用確認。

ライセンスの更新。

社員からの問い合わせ。

月末に向けた予算資料の作成。


昨日まで緊急対応に追われていたことが、嘘のようだった。


黒木厳は、モニターに表示された作業一覧を一つずつ確認していた。


今回のSNS投稿に関する聞き取りは、すでに終わっている。


広報部門は、法務部門と調整したうえで、対外発表の準備を進めていた。


システム部門として確認できる範囲の事実も、佐伯部長に報告済みだった。


個人端末で撮影された動画について、システム部門が端末そのものを管理していたわけではない。


社内Wi-Fiの利用は確認事項の一つになったが、それだけで投稿内容や通信のすべてが分かるわけでもない。


黒木は、その区別を崩さないようにしていた。


分からないことを、分かったように説明しない。


できないことを、できると約束しない。


危機対応においては、そうした当たり前のことが、案外難しい。


「黒木さん」


声をかけてきたのは、佐伯雅彦部長だった。


「少し、よろしいですか」


「はい。もちろんです」


黒木は手を止めた。


佐伯は、手元の資料を机に置いた。


「今回の件ですが、会社として、何か再発防止策を考える必要がありますね」


「そうですね」


黒木は、そこで言葉を切った。


求められているのは、意見なのか。それとも、現状の確認なのか。


佐伯が続けるのを待った。


「個人端末の社内Wi-Fi接続を禁止する、という案も考えられます。ただ、それで今回のような投稿を防げるかというと、そうとも限らない」


「はい」


「モバイル回線を使えば、投稿自体はできますからね」


「おっしゃるとおりです」


佐伯は椅子に腰を下ろした。


「規則を増やせば、それで解決するというものでもない。かといって、何もしないわけにもいかない」


少し疲れた声だった。


今回の件で、誰か一人を責めれば済むのなら、話は簡単だったかもしれない。


しかし、社員に悪意があったという事実は確認されていない。


休憩時間に、同僚とお菓子を食べていた。


長い虹色のグミが面白くて、動画を撮った。


そして、何気なく投稿した。


本人にとっては、それだけのことだった。


その背景に、業務情報が映り込んでいた。


悪意がなかったことと、問題が起きたこと。


その二つは、同時に成立する。


「情報セキュリティ研修を、もう一度見直すのはどうでしょうか」


黒木は、佐伯の言葉を待ってから答えた。


「全社員を対象にしたWeb研修です。今回のような、個人端末での撮影やSNS投稿に伴う情報の映り込みも、具体例として扱えると思います」


「必須受講にする、ということですか」


「はい。ただ、私から申し上げられるのは、システム面での内容と実施方法についてです。受講義務や社内規程との整合性は、人事や法務とも相談する必要があると思います」


佐伯は小さくうなずいた。


「そうですね。研修を受けさせれば、すべて防げるというものでもありませんが」


「はい。人間ですから、見落としはあります。ただ、何に注意すればよいかを知っているのと、知らないのとでは、違いがあると思います」


「具体的には、どんな内容を?」


「例えば、写真や動画を投稿する前に、背景に業務画面や書類が映っていないか確認すること。会話や音声にも、社外に出してはいけない情報が含まれていないか確認すること。それから、問題に気づいた場合の報告先を明確にすることです」


「なるほど」


「禁止事項を並べるだけではなく、なぜ注意が必要なのか、実際にどう確認すればよいのかを説明する。そういう研修にしたいですね」


佐伯は資料に目を落とした。


「分かりました。まずは、関係部門と相談しましょう。高瀬さんにも、実施費用と運用面を確認してもらいます」


「承知しました」


話は、そこで終わった。


黒木は席に戻り、作業一覧を開いた。


特別な命令が下されたわけではない。


大規模なシステム改修が決まったわけでもない。


ただ、今回の出来事を受けて、会社として何ができるのか。その一つが、見えてきただけだった。


     *


午後三時半。


情報システム部の小会議室。


佐伯、高瀬由美、黒木の三人が集まっていた。


議題は、情報セキュリティ研修の見直しについて。


高瀬は、資料を確認しながら尋ねた。


「Web研修にするなら、既存の研修システムを使えますか?」


「候補はあります。既存の仕組みで実施できるか、受講状況を記録できるか、確認します」


黒木は答えた。


「費用は?」


「新規のシステム導入を前提にする必要はないと思います。まずは既存環境で実施できるかを確認し、そのうえで必要な費用を整理します」


「受講期限を設けて、未受講者には通知する。そこまでできますか」


「仕組みとして対応できるか、担当者に確認します。受講状況の管理を人事側で行うのか、情報システム部門で支援するのかも、整理したほうがよいと思います」


高瀬はペンを置いた。


「分かりました。費用と責任者を明確にしましょう。研修を始めてから、誰が管理するのか分からない、というのは困りますから」


「おっしゃるとおりです」


黒木はうなずいた。


佐伯が二人を見た。


「では、まずは実施案を作りましょう。研修の内容は情報システム部門でたたき台を用意し、人事と法務に確認を依頼する。実施方法と費用を整理したうえで、改めて判断します」


「承知しました」


黒木は手帳に記した。


研修案の作成。

既存システムの確認。

受講状況の管理方法。

関係部門との調整。


どれも、目立つ仕事ではない。


しかし、実施するなら、誰が担当し、どのように運用し、どこに記録を残すのかまで決めなければならない。


「ところで」


高瀬が顔を上げた。


「今回の件で、個人端末を全面的に禁止する必要はありますか?」


佐伯はすぐには答えなかった。


黒木も、口を挟まなかった。


それは、情報システム部門だけで決める話ではない。


やがて佐伯が言った。


「現時点では、全面禁止を前提にする必要はないと考えています。まずは既存の規則を確認し、今回の問題に対して必要な対策を整理しましょう」


「分かりました」


高瀬は納得したように資料を閉じた。


それ以上、議論は続かなかった。


     *


午後五時。


黒木は、研修案の作成に取りかかっていた。


最初のページには、こんな見出しを置いた。


**「情報セキュリティは、特別な人だけの仕事ではありません」**


その下に、短い事例を並べる。


休憩中に撮影した写真に、社内資料が映っていた。


会議の録音に、社外秘の情報が含まれていた。


何気なく投稿した動画の背景に、顧客の名前が見えていた。


どれも、悪意がなくても起こり得ることだった。


黒木は、文章を読み返した。


「不注意な投稿は、重大な情報漏洩につながります」


そう書いてから、少し考え、文面を修正した。


「写真や動画を投稿する際は、背景や音声に業務情報が含まれていないか確認しましょう」


脅すような言葉より、具体的に何をすればよいのかが分かる言葉のほうがいい。


もちろん、それだけで事故を防げるわけではない。


それでも、社員が自分で気づく機会を増やすことはできる。


黒木は、研修案の最後に、問い合わせ先と報告先を記載した。


もし、誤って情報を投稿してしまったら。


もし、社外に出てはいけない情報が映っていることに気づいたら。


隠そうとせず、速やかに会社へ報告する。


早く分かれば、会社として対応できることも増える。


そうした内容を、短い文章にまとめていった。


     *


帰宅前。


黒木は、保存した資料をもう一度確認した。


今回の一件で、会社は社員を疑うようになったのだろうか。


そうではないと、黒木は思いたかった。


誰かが休憩時間にお菓子を食べること。


同僚と笑い合うこと。


面白いものを見つけて、誰かに教えたくなること。


そんな日常まで、会社が管理する必要はない。


ただ、会社には守らなければならない情報がある。


社員の日常を守ることと、会社の情報を守ること。


その二つを、対立させずに済む方法を考える。


それが、今回の仕事なのかもしれなかった。


黒木はパソコンを閉じた。


研修案は、まだ完成していない。


人事や法務との調整も、これからだ。


すぐに結果が出る仕事ではない。


それでも、誰かを疑うための規則を増やすのではなく、誰もが失敗の可能性に気づき、必要なときには助けを求められる仕組みを作る。


そういう仕事なら、やる意味がある。


晴海トリトンの外では、夕方の光がビルの窓に反射していた。


明日もまた、社員たちは仕事をし、休憩を取り、同僚と話すだろう。


そして、誰かが何気なく「これ、おいしいね」と笑うかもしれない。


その日常を、必要以上に窮屈にしないこと。


守るべきものを守りながら、普通に働ける場所を保つこと。


黒木厳は、明日もまた、そのための仕事を続けるつもりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。