新章『黒木厳 - 晴海トリトン Zタワー編』 第七話 Digital Reputation Management(デジタル・レピュテーション・マネジメント)
第七話 人を疑うためではなく
翌日 午後二時。
晴海トリトン、Zタワー。
三つ巴物産ホールディングスの情報システム部では、いつもどおりの業務が続いていた。
クラウド環境の運用確認。
ライセンスの更新。
社員からの問い合わせ。
月末に向けた予算資料の作成。
昨日まで緊急対応に追われていたことが、嘘のようだった。
黒木厳は、モニターに表示された作業一覧を一つずつ確認していた。
今回のSNS投稿に関する聞き取りは、すでに終わっている。
広報部門は、法務部門と調整したうえで、対外発表の準備を進めていた。
システム部門として確認できる範囲の事実も、佐伯部長に報告済みだった。
個人端末で撮影された動画について、システム部門が端末そのものを管理していたわけではない。
社内Wi-Fiの利用は確認事項の一つになったが、それだけで投稿内容や通信のすべてが分かるわけでもない。
黒木は、その区別を崩さないようにしていた。
分からないことを、分かったように説明しない。
できないことを、できると約束しない。
危機対応においては、そうした当たり前のことが、案外難しい。
「黒木さん」
声をかけてきたのは、佐伯雅彦部長だった。
「少し、よろしいですか」
「はい。もちろんです」
黒木は手を止めた。
佐伯は、手元の資料を机に置いた。
「今回の件ですが、会社として、何か再発防止策を考える必要がありますね」
「そうですね」
黒木は、そこで言葉を切った。
求められているのは、意見なのか。それとも、現状の確認なのか。
佐伯が続けるのを待った。
「個人端末の社内Wi-Fi接続を禁止する、という案も考えられます。ただ、それで今回のような投稿を防げるかというと、そうとも限らない」
「はい」
「モバイル回線を使えば、投稿自体はできますからね」
「おっしゃるとおりです」
佐伯は椅子に腰を下ろした。
「規則を増やせば、それで解決するというものでもない。かといって、何もしないわけにもいかない」
少し疲れた声だった。
今回の件で、誰か一人を責めれば済むのなら、話は簡単だったかもしれない。
しかし、社員に悪意があったという事実は確認されていない。
休憩時間に、同僚とお菓子を食べていた。
長い虹色のグミが面白くて、動画を撮った。
そして、何気なく投稿した。
本人にとっては、それだけのことだった。
その背景に、業務情報が映り込んでいた。
悪意がなかったことと、問題が起きたこと。
その二つは、同時に成立する。
「情報セキュリティ研修を、もう一度見直すのはどうでしょうか」
黒木は、佐伯の言葉を待ってから答えた。
「全社員を対象にしたWeb研修です。今回のような、個人端末での撮影やSNS投稿に伴う情報の映り込みも、具体例として扱えると思います」
「必須受講にする、ということですか」
「はい。ただ、私から申し上げられるのは、システム面での内容と実施方法についてです。受講義務や社内規程との整合性は、人事や法務とも相談する必要があると思います」
佐伯は小さくうなずいた。
「そうですね。研修を受けさせれば、すべて防げるというものでもありませんが」
「はい。人間ですから、見落としはあります。ただ、何に注意すればよいかを知っているのと、知らないのとでは、違いがあると思います」
「具体的には、どんな内容を?」
「例えば、写真や動画を投稿する前に、背景に業務画面や書類が映っていないか確認すること。会話や音声にも、社外に出してはいけない情報が含まれていないか確認すること。それから、問題に気づいた場合の報告先を明確にすることです」
「なるほど」
「禁止事項を並べるだけではなく、なぜ注意が必要なのか、実際にどう確認すればよいのかを説明する。そういう研修にしたいですね」
佐伯は資料に目を落とした。
「分かりました。まずは、関係部門と相談しましょう。高瀬さんにも、実施費用と運用面を確認してもらいます」
「承知しました」
話は、そこで終わった。
黒木は席に戻り、作業一覧を開いた。
特別な命令が下されたわけではない。
大規模なシステム改修が決まったわけでもない。
ただ、今回の出来事を受けて、会社として何ができるのか。その一つが、見えてきただけだった。
*
午後三時半。
情報システム部の小会議室。
佐伯、高瀬由美、黒木の三人が集まっていた。
議題は、情報セキュリティ研修の見直しについて。
高瀬は、資料を確認しながら尋ねた。
「Web研修にするなら、既存の研修システムを使えますか?」
「候補はあります。既存の仕組みで実施できるか、受講状況を記録できるか、確認します」
黒木は答えた。
「費用は?」
「新規のシステム導入を前提にする必要はないと思います。まずは既存環境で実施できるかを確認し、そのうえで必要な費用を整理します」
「受講期限を設けて、未受講者には通知する。そこまでできますか」
「仕組みとして対応できるか、担当者に確認します。受講状況の管理を人事側で行うのか、情報システム部門で支援するのかも、整理したほうがよいと思います」
高瀬はペンを置いた。
「分かりました。費用と責任者を明確にしましょう。研修を始めてから、誰が管理するのか分からない、というのは困りますから」
「おっしゃるとおりです」
黒木はうなずいた。
佐伯が二人を見た。
「では、まずは実施案を作りましょう。研修の内容は情報システム部門でたたき台を用意し、人事と法務に確認を依頼する。実施方法と費用を整理したうえで、改めて判断します」
「承知しました」
黒木は手帳に記した。
研修案の作成。
既存システムの確認。
受講状況の管理方法。
関係部門との調整。
どれも、目立つ仕事ではない。
しかし、実施するなら、誰が担当し、どのように運用し、どこに記録を残すのかまで決めなければならない。
「ところで」
高瀬が顔を上げた。
「今回の件で、個人端末を全面的に禁止する必要はありますか?」
佐伯はすぐには答えなかった。
黒木も、口を挟まなかった。
それは、情報システム部門だけで決める話ではない。
やがて佐伯が言った。
「現時点では、全面禁止を前提にする必要はないと考えています。まずは既存の規則を確認し、今回の問題に対して必要な対策を整理しましょう」
「分かりました」
高瀬は納得したように資料を閉じた。
それ以上、議論は続かなかった。
*
午後五時。
黒木は、研修案の作成に取りかかっていた。
最初のページには、こんな見出しを置いた。
**「情報セキュリティは、特別な人だけの仕事ではありません」**
その下に、短い事例を並べる。
休憩中に撮影した写真に、社内資料が映っていた。
会議の録音に、社外秘の情報が含まれていた。
何気なく投稿した動画の背景に、顧客の名前が見えていた。
どれも、悪意がなくても起こり得ることだった。
黒木は、文章を読み返した。
「不注意な投稿は、重大な情報漏洩につながります」
そう書いてから、少し考え、文面を修正した。
「写真や動画を投稿する際は、背景や音声に業務情報が含まれていないか確認しましょう」
脅すような言葉より、具体的に何をすればよいのかが分かる言葉のほうがいい。
もちろん、それだけで事故を防げるわけではない。
それでも、社員が自分で気づく機会を増やすことはできる。
黒木は、研修案の最後に、問い合わせ先と報告先を記載した。
もし、誤って情報を投稿してしまったら。
もし、社外に出てはいけない情報が映っていることに気づいたら。
隠そうとせず、速やかに会社へ報告する。
早く分かれば、会社として対応できることも増える。
そうした内容を、短い文章にまとめていった。
*
帰宅前。
黒木は、保存した資料をもう一度確認した。
今回の一件で、会社は社員を疑うようになったのだろうか。
そうではないと、黒木は思いたかった。
誰かが休憩時間にお菓子を食べること。
同僚と笑い合うこと。
面白いものを見つけて、誰かに教えたくなること。
そんな日常まで、会社が管理する必要はない。
ただ、会社には守らなければならない情報がある。
社員の日常を守ることと、会社の情報を守ること。
その二つを、対立させずに済む方法を考える。
それが、今回の仕事なのかもしれなかった。
黒木はパソコンを閉じた。
研修案は、まだ完成していない。
人事や法務との調整も、これからだ。
すぐに結果が出る仕事ではない。
それでも、誰かを疑うための規則を増やすのではなく、誰もが失敗の可能性に気づき、必要なときには助けを求められる仕組みを作る。
そういう仕事なら、やる意味がある。
晴海トリトンの外では、夕方の光がビルの窓に反射していた。
明日もまた、社員たちは仕事をし、休憩を取り、同僚と話すだろう。
そして、誰かが何気なく「これ、おいしいね」と笑うかもしれない。
その日常を、必要以上に窮屈にしないこと。
守るべきものを守りながら、普通に働ける場所を保つこと。
黒木厳は、明日もまた、そのための仕事を続けるつもりだった。




