新章『黒木厳 - 晴海トリトン Zタワー編』 第六話 Digital Reputation Management(デジタル・レピュテーション・マネジメント)
第六話 長い虹色のグミ、おいしかったね
午後四時四十分。
黒木厳のOutlookに、法務部門からWeb会議の招待通知が届いた。
件名は「SNS投稿事案に関する関係社員への聴き取り」。
主催は法務部門。人事部門が共同で参加する。
参加者には、佐伯部長の名前もあった。
黒木の参加区分は、今回もオブザーバーだった。
黒木は招待を承諾すると、ノートを開いた。
技術面で確認できている事項と、まだ確認できていない事項。それだけを手元に置いた。
自分から質問する予定はない。
社員の聴き取りを主導するのは、人事と法務だ。
黒木は、会議の開始を待った。
*
午後五時。
Web会議が始まった。
人事部門の担当者が、画面の向こうにいる社員に向かって、落ち着いた声で話しかけた。
「今日は、今回の動画投稿について、当時の状況を確認させてください。まず、動画を撮影したときのことを、覚えている範囲で説明していただけますか」
社員は、少し緊張しているようだった。
「はい。あの、休憩時間だったんです」
「休憩時間ですね」
「はい。晴海トリトンに、輸入菓子のお店があるじゃないですか。そこで、長い虹色のグミを買ったんです」
人事担当者は、うなずいた。
「長い虹色のグミ、ですか」
「そうなんです。色がきれいで、すごく長くて。珍しいなと思って」
社員の声が、少しだけ明るくなった。
「それで、同僚と一緒に食べてみたんです。みんなで、『これ、おいしいね』って。ちょっと面白かったので、スマートフォンで動画を撮りました」
法務担当者が、静かに尋ねた。
「撮影には、会社から貸与された端末ではなく、個人のスマートフォンを使用したのですね」
「はい。自分のスマートフォンです」
「撮影した場所は、どちらでしたか」
「社内の休憩スペースです」
「そのとき、周囲に業務用のパソコンやモニターはありましたか」
社員は、少し考えた。
「はい。近くにはあったと思います。でも、グミを撮っていたので、背景までは、あまり気にしていませんでした」
黒木は、マイクをミュートにしたまま、画面を見ていた。
特別なことをしていたわけではないのだろう。
休憩時間にお菓子を食べる。
同僚と感想を言い合う。
珍しいものを見つけたから、スマートフォンで撮影する。
どれも、日常の中にある行動だった。
だが、日常の行動だからといって、職場で何を撮影してもよいわけではない。
そこには、別の問題があった。
*
「撮影した動画は、どのように投稿したのですか」
人事担当者が尋ねた。
「そのまま、SNSに投稿しました」
「投稿する前に、動画の背景を確認しましたか」
社員は、うつむいた。
「……ちゃんとは、確認していませんでした」
「背景に、業務情報が映っている可能性については、考えましたか」
「いいえ。そこまで考えていませんでした」
少し間が空いた。
「本当に、そんなつもりじゃなかったんです」
社員は、顔を上げた。
「会社の情報を公開しようとか、誰かを困らせようとか、そういうつもりはありませんでした。ただ、グミがおいしかったから、みんなで食べているところを撮っただけで……」
声が、次第に小さくなっていった。
「こんなことになるとは、思っていませんでした」
法務担当者は、すぐには返事をしなかった。
悪意がなかったという説明は、事実確認において重要だ。
しかし、悪意がなければ、問題がなかったことになるわけでもない。
動画に何が映っていたのか。
第三者が情報を判読できたのか。
投稿した映像が、どこまで閲覧された可能性があるのか。
それらは、別に確認する必要がある。
そして、撮影や投稿に関する社内規程がどうなっていたのかも、調べなければならない。
「分かりました。投稿に至った経緯については、記録させていただきます」
法務担当者は、そう答えた。
「このあと、社内規程や情報管理上のルールについても確認します。現時点で、処分などを決めているわけではありません。まずは事実関係を整理することが目的です」
社員は、小さくうなずいた。
*
聴き取りは、さらに続いた。
会社から、社内での撮影やSNS投稿について、どのような説明を受けていたのか。
情報管理に関する研修を受けたことがあるか。
休憩スペースでの撮影について、具体的な注意を受けたことがあるか。
質問は、順番に進んでいった。
社員は、覚えている範囲で答えた。
明確に禁止されていると認識していたわけではない。
だからといって、社内で撮影することが何でも許されると思っていたわけでもない。
そもそも、そこまで深く考えたことがなかった。
それが、本人の説明だった。
黒木は、黙って聞いていた。
規則がなければ、すべての行為が許されるわけではない。
一方で、明確な規則がない行為について、後から都合よく禁止されていたことにするのも適切ではない。
処分できるかどうかと、再発防止のために何を整えるべきか。
それは、分けて考える必要がある。
黒木は、そうした論点を頭の中で整理していた。
ただし、会議の場で、それを口にすることはなかった。
今日は、人事と法務が事実を確認する場だった。
黒木は、その役割を尊重した。
*
午後三時四十分。
人事担当者が、最後に尋ねた。
「今回の件について、何か伝えておきたいことはありますか」
社員は、少し迷ってから答えた。
「……会社に迷惑をかけるつもりはありませんでした」
そして、続けた。
「休憩時間に、みんなでお菓子を食べていただけなんです。あのグミ、本当においしかったんです」
その言葉には、言い訳というよりも、戸惑いがにじんでいた。
本人にとっては、ほんの短い休憩時間だった。
仕事の合間に、同僚と珍しいお菓子を食べる。
おいしいね、と笑う。
その時間まで、悪いことだったことにされるのだろうか。
そんな不安も、あったのかもしれない。
「お話しいただき、ありがとうございました」
人事担当者は、そう言って聴き取りを終えた。
法務担当者は、今後、社内規程との照合と、動画に映り込んだ情報の確認を進めると説明した。
誰も、その場で懲戒処分を決めなかった。
それでよかった。
事実を確認する前に、結論を出す必要はない。
*
Web会議が終了した。
黒木は、ノートを見返した。
長い虹色のグミ。
休憩時間。
個人のスマートフォン。
社内での撮影。
SNSへの投稿。
そして、背景に映り込んだ可能性のある業務情報。
どれも、同じ問題ではなかった。
休憩時間に、お菓子を食べて笑うことは悪くない。
仕事をしていれば、息抜きは必要だ。
毎日、緊張感を保ち、あらゆる危険を予測し、何をするにも規則を確認しなければならないとしたら、人は疲れてしまう。
正常性バイアスは、誰にでも働く。
普段どおりに過ごしたい。
いつもと同じように、問題なく終わると思いたい。
今回の社員も、そうだったのかもしれない。
ただし、正常性バイアスがあるからといって、危険への対策を諦めるわけにはいかない。
必要なのは、あらゆる行動を禁止することではない。
守るべき情報を明確にし、社員が迷わず判断できるルールを整え、必要な教育と仕組みを用意することだ。
黒木は、ノートを閉じた。
彼は、社員を裁く立場ではない。
処分を決める立場でもない。
今日の聴き取りで、ひとつだけ分かったことがあった。
この社員は、会社の信用を傷つけようとして、虹色のグミを撮影したわけではなかった。
だからといって、今回の問題が消えるわけでもない。
会社には、確認すべきことが残っている。
そして、整えるべき仕組みも。
黒木は、次の業務に取りかかった。
晴海トリトンのどこかでは、今日も誰かが休憩時間にお菓子を食べているだろう。
その人たちが、明日も安心して「おいしいね」と笑えるように。
それを守ることも、会社が考えるべきことの一つなのかもしれなかった。




