新章『黒木厳 - 晴海トリトン Zタワー編』 第四話 Digital Reputation Management(デジタル・レピュテーション・マネジメント)
今回のテーマは、
Digital Reputation Management
(デジタル・レピュテーション・マネジメント)
です。
これは、インターネット上で企業や個人がどのように評価されているかを把握し、風評や炎上、誤情報などによる reputational risk(評判上のリスク)に対応しながら、信頼を守り、回復していくための取り組みを指します。
SNSに投稿された動画や写真は、投稿者が削除しても、スクリーンショットや転載によって残り続けることがあります。たった一つの投稿が、企業の信用、顧客との関係、取引先との契約、さらには経営判断にまで影響を及ぼすこともあります。
そのため、炎上が起きたときに必要なのは、単に投稿を削除したり、批判を抑え込んだりすることではありません。
何が起きたのかを確認する。被害の拡大を防ぐ。関係者に必要な説明を行う。そして、失われた信頼を取り戻すために、具体的な改善を進める。
情報システム部門、広報部門、法務部門、財務部門、そして経営陣が連携しなければならない場面もあります。
本作では、三つ巴物産HDの情報システム部に出向した黒木厳が、SNS投稿をきっかけとする危機に直面します。
技術的な問題を解決するだけでは、会社の危機は終わりません。
「何が起きたのか。誰が判断するのか。何を公表し、どのように責任を果たすのか。」
その過程を通じて、現代企業の危機管理と、デジタル時代における信頼の意味を描いていきます。
それでは、第四話「映ってはいけないもの、投稿から一時間の緊急MTG」を、ご確認ください。
第四話 映ってはいけないもの、投稿から一時間の緊急MTG
最初の投稿が公開されたのは、午前十時十二分だった。
動画は、短いものだった。
若い社員が、同僚と笑いながら仕事をしている。デスクの上には飲みかけのコーヒー。窓の外には、東京湾岸の高層ビル群。
何気ない職場の日常。
投稿した本人にとっては、それだけの動画だったのだろう。
だが、画面の奥にあるモニターには、取引先の企業名と、顧客に関する情報が映っていた。
小さな文字だった。
しかし、読めないほど小さくはなかった。
*
午前十時二十分。
三つ巴物産HD、情報システム部。
小林美咲が、いつもの問い合わせ対応をしていた。
「パスワードを忘れた、ですか……。はい、本人確認からご案内しますね」
電話を切ったところで、隣の中村彩がスマートフォンを見つめていることに気づいた。
「中村さん、どうしました?」
「小林さん。これ、うちの会社じゃないですか?」
「何がですか?」
「SNSの動画です。職場で撮ったらしいんですけど……」
彩の表情が変わった。
小林は画面をのぞき込んだ。
動画には、見覚えのある執務室が映っていた。
机の配置。窓の向こうの景色。壁際の収納棚。
そして、画面の奥にあるモニター。
「……これ、まずくないですか」
小林の声から、いつもの明るさが消えた。
「顧客情報が映っています」
彩が答えた。
「拡大したら、文字が読めます」
小林は、すぐに周囲を見回した。
「松井さんに確認しましょう。あと、佐伯部長にも報告したほうがいいです」
「はい」
彩は動画のURLと投稿時刻を記録した。画面の保存は、社内の手順に従って必要な範囲で行う。むやみに動画を転送して、情報の拡散を増やしてはいけない。
松井亮介が席を立った。
「どこに投稿されていますか?」
「公開アカウントです。コメントが、もう増えています」
松井は動画を確認し、短く息を吐いた。
「これは、通常の問い合わせとして扱う案件ではありませんね」
「はい」
彩がうなずいた。
「情報セキュリティ上のインシデントとして、報告します」
松井は、佐伯部長の席へ向かった。
*
午前十時三十五分。
情報システム部長の佐伯雅彦は、報告を受けると、すぐに動画を確認した。
表情が変わった。
「投稿者は、うちの社員だと確認できていますか?」
「現時点では、アカウントと映像から推測できる段階です。本人確認はまだです」
松井が答えた。
「映っている情報は?」
「顧客情報と見られる記載があります。どの範囲が読み取れるか、確認中です」
「分かりました。憶測で話を広げないでください。確認できた事実と、まだ分からないことを分けてください」
「承知しました」
佐伯は電話を取った。
「黒木さんにも連絡を。高瀬さんにも状況を共有してください。それから、広報と法務へ至急連絡をお願いします」
松井はうなずいた。
黒木厳は、そのとき別のフロアで、端末管理の確認事項を整理していた。
スマートフォンが震えた。
佐伯部長からだった。
「黒木さん、今すぐ会議室へ来てください。緊急案件です」
「承知しました。どのような案件でしょうか?」
「社員のSNS投稿に、顧客情報が映り込んでいる可能性があります。詳細は会議室で説明します」
「分かりました。すぐに向かいます」
黒木はノートを閉じた。
棚卸しの表には、未確認の端末がまだ残っていた。
しかし、今はそちらを続ける場面ではない。
黒木は、佐伯の指示に従って会議室へ向かった。
*
午前十時四十五分。
会議室には、佐伯、高瀬、松井、小林、中村、そして黒木が集まっていた。
広報部と法務部の担当者も、オンラインで参加することになっている。
佐伯が、会議を始めた。
「まず、事実を整理します。投稿者、投稿時刻、映り込んだ情報、現在の拡散状況。分かっていることから報告してください」
松井が説明した。
「午前十時十二分に公開された動画です。執務室と思われる場所で撮影され、背景のモニターに顧客情報と見られる表示があります。現在、公開状態が続いており、コメントや転載が増えています」
「顧客情報と断定できる段階ですか?」
法務部の担当者がオンラインで尋ねた。
「画面上には顧客名と見られる文字列があります。ただし、正式な記録と照合中です」
松井は、慎重に答えた。
黒木が続けた。
「現時点で、外部の第三者がどこまで情報を読み取れたか、また動画以外に情報が流出したかどうかは、確認できていません。まずは、映像に含まれる情報の範囲と、影響を受ける可能性のある顧客を特定する必要があります」
佐伯がうなずいた。
「投稿者への連絡は?」
「まだです。本人の特定と連絡経路を確認しています」
小林が答えた。
「分かりました。投稿者を責めることより、まず拡散の抑制と事実確認を優先します。ただし、証拠を消さないよう、必要な記録を確保してください」
黒木は、佐伯の言葉を聞きながら、対応事項をノートに書き出した。
投稿の状態確認。
証拠保全。
情報の特定。
投稿者への連絡。
社内の報告経路。
顧客への影響評価。
広報対応。
法的な確認。
それぞれが別の仕事に見えても、時間は待ってくれない。
*
午前十一時十二分。
投稿から、ちょうど一時間が経過した。
会議室のモニターに、広報部から共有されたニュースページが表示された。
Yahoo!ニュースのトピックスに、関連する記事が掲載されていた。
記事の見出しには、企業名と、顧客情報が映り込んだ動画に関する文言があった。
会議室が静まり返った。
高瀬由美が、ゆっくり口を開いた。
「もう、ここまで広がったんですね」
広報部の担当者が答えた。
「はい。SNS上の反応が急増しています。報道機関からも問い合わせが入り始めています」
「顧客への影響は?」
高瀬が尋ねた。
「現在、法務部と情報システム部で確認中です。現段階では、影響範囲を確定できていません」
「分かりました。費用や取引への影響も含めて、確認できた事実を整理してください。ただし、数字が出る前に損失額を決めつけることは避けましょう」
高瀬は、手元の資料に目を落とした。
財務の立場から、影響を把握する必要がある。
しかし、今はまだ、金額を計算できる段階ではなかった。
広報部の担当者が言った。
「公式コメントを求められています。何か発表しなければ、会社が沈黙していると受け止められる可能性があります」
法務部の担当者が応じた。
「ただし、確認できていないことを断定するのは避けるべきです。情報の性質と影響範囲を確認しながら、文面を検討しましょう」
佐伯が、黒木を見た。
「黒木さん。技術面では、どこまで説明できますか?」
黒木は、ノートを確認してから答えた。
「映像に情報が含まれている可能性は確認できています。ただし、読み取れる情報の範囲、第三者による保存や転載の状況、ほかの情報へのアクセスの有無については、調査中です。現時点で、被害が限定的だとも、広範囲に及んでいるとも断定できません」
「分かりました。その線で、確認できた事実を広報と法務へ共有してください」
「承知しました」
黒木は、発表内容そのものを独断で決めることはしなかった。
技術的な事実を整理すること。
不明な点を明確にすること。
そして、判断に必要な情報を、決める権限のある人たちへ届けること。
それが、今の自分の役割だった。
*
午前十一時二十五分。
広報部から、最初のコメント案が送られてきた。
会議室のモニターに文章が表示される。
佐伯が読み上げた。
「『当社は、SNS上に投稿された動画について確認を進めております。動画に当社の業務情報が映り込んでいる可能性を認識しており、現在、事実関係と影響範囲を調査しております』」
広報部の担当者が続けた。
「この後に、顧客情報の取り扱いに関するお詫びを入れるかどうか、法務と検討しています」
黒木は、少し考えてから発言した。
「技術部門から申し上げると、現時点で確認できていることと、まだ確認できていないことを明確に分けるのがよいと思います。情報が流出していないと誤解される表現も、逆に被害が確定したと受け取られる表現も避ける必要があります」
「そのとおりですね」
広報部の担当者が答えた。
「技術面の確認事項を、文面に反映させます」
佐伯は、全員を見回した。
「これは情報システム部だけの問題ではありません。広報、法務、関係部署と連携して対応します。各担当は、確認できた事実を速やかに共有してください。判断が必要な事項は、担当者だけで決めず、責任者に上げてください」
全員がうなずいた。
緊急MTGは、まだ終わらない。
投稿は一時間でニュースになった。
しかし、会社が何を把握し、何をすべきかを判断するには、まだ確認しなければならないことが残っている。
削除を依頼すれば終わり、という問題ではない。
動画が消えても、スクリーンショットが残るかもしれない。
謝罪文を出しても、顧客の不安がすぐに消えるわけではない。
そして、会社が守るべきものは、ネット上の評判だけではなかった。
情報を預けてくれた顧客との信頼。
働いている社員の生活。
会社としての説明責任。
そのすべてが、いま試されていた。
黒木は、ノートの最後に一行を書いた。
**「事実を確認する。影響を抑える。説明責任を果たす。順番を間違えない。」**
晴海トリトンの窓の外では、東京湾岸の街が、いつもと変わらず動いていた。
だが、三つ巴物産HDの会議室では、いつもの日常が、もう一つの局面に入っていた。




