新章『黒木厳 - 晴海トリトン Zタワー編』 第三話
第三話 月島の鉄板、もちめんたい もんじゃ焼き
その日の棚卸しも、終わらなかった。
もちろん、一日で終わるとは思っていない。
三つ巴物産HDの情報システム部が管理する端末は、パソコン、スマートフォン、タブレットと多岐にわたる。グループ会社や部署によって使い方も異なり、管理を始めた時期も、担当者も違う。
台帳と現物を照合し、利用者を確認し、返却済みかどうかを調べる。
単純に見える仕事だが、確認を進めるほど、分からないことが増えていく。
黒木厳は、壁の時計を見た。
午後六時を少し回っていた。
「今日は、いったんここまでにしましょう」
向かいの席で作業していた山本悠斗が顔を上げた。
「明日も続きますか?」
「ええ。確認できていない端末が、まだ残っていますから」
「ですよね……」
山本は、画面に目を戻した。
二十七歳。入社三年目。クラウド運用を担当し、CISSPの正式認定も取得している。技術的な知識が豊富で、手作業を見つけると、自動化できないかと考えるタイプだった。
ただし、巨大企業の情報システム部には、技術だけでは片づかない事情がある。
黒木はパソコンを閉じた。
「ところで、皆さん。今夜、予定はありますか?」
小林美咲が、すぐに顔を上げた。
「あります!」
「何でしょう?」
「お腹が空いています」
隣の中村彩が吹き出した。
「それは予定じゃなくて、現在の状態ですよ、小林さん」
「いいえ。私にとっては、最優先事項です」
周囲から笑いが起きた。
黒木も笑った。
「それなら、月島へ行きませんか。もんじゃ焼きでも食べながら、少し話をしましょう」
「月島ですか?」
松井亮介が尋ねた。
「はい。ここから歩いて行けますから」
「いいですね。久しぶりです」
山本も、少し表情を明るくした。
「黒木さん、もんじゃ焼き、お好きなんですか?」
「ええ。好きですよ。ただ、焼くのが上手かどうかは別ですが」
「安心しました。僕も、あまり自信がありません」
山本が言うと、小林が笑った。
「情報セキュリティの国際資格を持っていても、もんじゃ焼きは別なんですね」
「それは、別の専門分野ですから」
山本は、真面目な顔で答えた。
また笑いが起きた。
入社一年目の佐藤陸は、少し遠慮がちに黒木を見た。
「僕も、ご一緒してよろしいんでしょうか?」
「もちろんです、佐藤さん。皆さんで行きましょう」
「ありがとうございます」
陸は、ほっとしたように笑った。
黒木は、その様子を見ながら思った。
仕事の指示を出すだけでは、分からないことがある。
この人たちは、普段、何を考えているのだろう。
何に困り、何を諦め、何を変えたいと思っているのだろう。
今夜は、それを聞いてみたかった。
*
晴海トリトンを出て、月島へ向かった。
歩きながら、話題は自然と仕事以外のことになった。
小林は最近見たドラマの話をし、中村は休日に友人と出かけた店の話をした。松井は新しく買ったキーボードについて語り、山本は資格取得後も勉強を続けているという。
「佐藤さんは、最近、何か勉強していますか?」
黒木が尋ねた。
「はい。情報セキュリティ関係の本を買いました。ただ、まだ最初のほうしか読めていません」
「お仕事もありますからね。少しずつでいいと思いますよ」
「ありがとうございます」
「私も、資格の勉強を始めたころは、思うように進みませんでした」
黒木は続けた。
「仕事で覚えることと、教科書で覚えることは、同じではありませんから」
陸は、うなずいた。
黒木自身、経験を積んだからといって、何でも分かるわけではないと知っている。
サイバー危機への対応には経験が役立った。
しかし、三つ巴物産HDの社内事情については、まだ学ぶことが多い。
知っていることと、知らないこと。
経験してきたことと、これから学ぶこと。
それを混同しないことが大切だった。
やがて、一行は目的の店に着いた。
**もんじゃ焼き フミちゃん。**
店内には鉄板の熱気があり、香ばしい匂いが漂っていた。
奥から、年配の女性が顔を出した。
「いらっしゃい。何人?」
「八人です」
黒木が答えた。
「八人ね。じゃあ、こっちへどうぞ」
女将は慣れた手つきで席を案内した。
女将の、フミさん
店を切り盛りする姿には、長年の経験がにじんでいた。客の人数を確かめ、席を整え、注文を聞く。無駄な動きがない。
「初めてのお客さんもいるの?」
「はい。私たちは、初めてです」
黒木が答えた。
「じゃあ、もち明太子がおすすめだよ。人気があるからね」
「では、それをお願いします」
「飲み物は?」
「ビールをお願いします。ほかの皆さんも、それぞれ好きなものをどうぞ」
「はいよ」
フミさんは注文を聞くと、厨房へ戻っていった。
席に着いた山本が、店内を見回した。
「いい雰囲気ですね」
「そうですね」
黒木は、鉄板の周囲を見ながら答えた。
「注文を聞いて、材料を用意して、焼き方を説明して。お客さんが多くても、仕事の流れができていますね」
彩が、すかさず言った。
「黒木さん、もう仕事の分析を始めていませんか?」
「いえ、感心しているだけですよ」
「情報システム部でも、それくらい感心してほしいです」
「していますよ。皆さんの仕事ぶりには、感心しています」
黒木が穏やかに答えると、小林が笑った。
「今の、録音しておきたいですね」
「録音しなくても、必要なら何度でも申し上げますよ」
「本当ですか? では、明日の朝礼でもお願いします」
「それは、少し考えさせてください」
みんなが笑った。
そこへ、フミさんが材料とビールを運んできた。
「はい、もち明太子。焼き方、分かる?」
全員が、微妙な顔をした。
「……一応」
黒木が答えた。
フミさんは、その顔を見て笑った。
「じゃあ、最初は見てなさい。焦がしたら、もったいないからね」
手際よく材料を広げ、鉄板の上で焼き始める。
情報システム部の面々は、しばらく黙って、その手元を見ていた。
*
もち明太子もんじゃが焼け始めると、ビールのグラスも運ばれてきた。
最初は、仕事以外の話をしていた。
しかし、鉄板を囲んでいるうちに、話題は少しずつ職場へ戻っていった。
「黒木さん、少し聞いていただいてもいいですか?」
最初に口を開いたのは、小林だった。
「もちろんです。どうしました?」
「ヘルプデスクの問い合わせなんですけど、何でもかんでも『至急』なんですよ」
「すべてですか?」
「はい。パソコンが動かない。プリンターが動かない。パスワードを忘れた。資料が開けない。全部、至急です」
「それは、大変ですね」
「しかも、こちらが対応している間に、別の人から催促が来るんです。『まだですか』って」
彩が、すぐに続けた。
「問い合わせた人は、自分の仕事が止まっているので、焦っているんですよね。でも、対応する側にも、順番がありますから」
「そうですね」
黒木はうなずいた。
「緊急度を判断する基準は、決まっているんですか?」
小林は、少し考えた。
「一応、あります。ただ、部署によって事情が違いますし、役職の高い方から直接連絡が来ることもあります」
「なるほど」
「しかも、対応が終わったころに、『もう直りました』と連絡が来ることもあります」
彩が言った。
「こちらは確認のために、また記録を更新するんです。直ったなら、直ったと連絡していただければいいのに」
松井が、ビールを置いた。
「クラウド運用も似ています。契約更新の通知が来ると、利用状況を確認して、契約条件を調べて、予算や承認の手続きを確認する必要があります。でも、周囲からは、通知が来た時点で終わったように見えることもあるんです」
「分かります」
小林が言った。
「問い合わせを受けた時点で、対応が終わったと思われることもありますから」
黒木は、話を聞きながら考えた。
それぞれの仕事には、外から見えない作業がある。
問い合わせに答えるまでの確認。
契約を更新するまでの調整。
端末を返却してもらうまでの連絡。
記録を直すための照合。
成果だけを見れば、ほんの数分の仕事に見えるかもしれない。
しかし、その前後には、目に見えない時間が積み重なっていた。
「皆さんの仕事が、どこで止まりやすいのか、少し整理したほうがよさそうですね」
黒木が言うと、高瀬由美が口を開いた。
「整理することには賛成です。ただし、対応時間を増やすなら、人員や費用も考えなければなりません」
「おっしゃるとおりです」
黒木は答えた。
「まずは、何に時間がかかっているのかを把握する必要があります。実態が分からないままでは、必要な人員も、仕組みの改善も検討できませんから」
高瀬は、納得したようにうなずいた。
「その順番なら、私も賛成です」
小林が、ため息をつくように笑った。
「よかった。今日のグチが、少しは仕事の役に立ちそうです」
「グチというのは、現場の状況を知る手がかりでもありますからね」
黒木が言うと、彩が笑った。
「では、これからは『現場状況報告』と呼びましょうか」
「それだと、報告書を作ることになりそうですね」
松井が言った。
「やめてください。紙が増えます」
小林が即座に返し、また笑いが起きた。
*
話題は、端末管理に移った。
「今日のiPadの件ですが」
田辺が、少し申し訳なさそうに口を開いた。
「貸出記録が残っていなかったことは、私も問題だと思っています」
「ありがとうございます。まずは、当時の経緯を確認しましょう」
黒木は答えた。
「誰か一人の責任と決めつける前に、どのような手順で貸し出していたのか、記録を残す仕組みがあったのかを確認する必要があります」
「はい」
「そのうえで、今後、同じことが起きないようにできるかを考えたいと思います」
山本が、身を乗り出した。
「貸出の申請をフォーム化して、台帳に自動反映させることはできると思います」
「技術的には可能だと思います」
黒木は、そう答えた。
「ただ、誰が承認するのか、誰が台帳を管理するのか、返却時にはどう確認するのか。そこも含めて検討したいですね」
「はい。僕も、そこを整理してみます」
「ありがとうございます。担当者の方とも相談しながら進めてください」
山本は、うなずいた。
技術的に可能なことを、現場で使える仕組みにする。
そのためには、利用する人、管理する人、承認する人、それぞれの立場を考える必要がある。
黒木は、山本の提案を否定したかったわけではない。
むしろ、若手の知識や発想は貴重だと思っていた。
ただし、実際に動かすためには、現場の事情を知る人たちと一緒に考えなければならない。
そのことを、山本にも少しずつ理解してもらいたかった。
*
しばらくして、佐藤陸が、おずおずと口を開いた。
「あの、黒木さん。私からも質問してよろしいでしょうか」
「もちろんです。どうぞ」
「台帳と現物が違っていた場合、どちらを正しいものとして扱えばいいのでしょうか」
周囲が静かになった。
陸は、続けた。
「台帳に書いてある内容を入力し直すことはできます。でも、現物と違っているとき、勝手に修正していいのか分からなくて」
「それは、大切な質問ですね」
黒木は、ゆっくり答えた。
「現物があるからといって、台帳をすべて勝手に書き換えていいわけではありません。台帳が古いのか、現物の利用状況が変わっているのか、それとも別の記録があるのか。確認する必要があります」
「はい」
「まずは、確認できた事実と、まだ確認できていないことを分けて記録してください。そのうえで、担当者に確認する。判断に迷ったら、独断で修正せずに相談してください」
「分かりました」
陸は、真剣な顔でうなずいた。
「それから、記録が間違っていたとしても、入力した人だけの責任とは限りません」
黒木は続けた。
「正しい情報が渡されていなかった可能性もありますし、記録を更新する手順が決まっていなかった可能性もあります。原因を確認してから、対応を考えましょう」
田辺が、静かにうなずいた。
陸は、少し安心したような顔をした。
黒木は、その表情を見て思った。
分からないことを質問できる環境は大切だ。
だが、質問に答えるだけでは十分ではない。
質問しなくても正しく仕事ができるよう、手順や記録の仕組みを整えることも必要なのだ。
*
もち明太子もんじゃは、いつの間にか、きれいに食べ終わっていた。
フミさんが、空いた皿を下げに来た。
「どうだった? おいしかった?」
「おいしかったです。ありがとうございます」
黒木が答えると、フミさんは笑った。
「よかったね。でも、ずいぶん仕事の話をしていたねえ」
黒木は、苦笑した。
「分かりますか」
「分かるよ。みんな、もんじゃを焼いているときより、話をしているときのほうが真剣だったもの」
「申し訳ありません」
「いいのよ。仕事はいろいろあるでしょう。うまくいくこともあれば、思いどおりにならないこともある。せめて、ご飯くらいはおいしく食べなきゃね」
フミさんは、空いた鉄板を見ながら言った。
「それに、こうやってみんなで食べに来られるのは、いいことだよ」
黒木は、その言葉にうなずいた。
「そうですね」
フミさんは、次の客を迎えるために席を離れた。
黒木は、店内を見回した。
誰かが仕事のグチを言う。
別の誰かが、それに共感する。
また別の誰かが、現実的な問題を指摘する。
話を聞くだけで、すべてが解決するわけではない。
それでも、普段は会議室でしか話さない人たちが、鉄板を囲み、本音を口にする。
そのことには、意味があるように思えた。
*
店を出ると、月島の夜風が心地よかった。
山本が、黒木の隣に並んだ。
「黒木さん、今日の話を少し整理してみたいと思います」
「どのあたりですか?」
「端末管理の自動化です。田辺さんの話も聞いたうえで、今の運用で何が問題なのか、まとめてみようと思います」
「いいですね。まずは課題の整理から始めましょう。現場の担当者とも相談しながら進めてください」
「分かりました」
山本は、うなずいた。
少し後ろでは、彩と小林が何かを話して笑っていた。松井は、陸にクラウド運用の仕事について説明している。高瀬は、佐伯部長と明日の予定を確認していた。
それぞれが、それぞれの仕事を抱えている。
不満もある。
改善したいこともある。
そして、誰もが、目の前の仕事を何とか回そうとしていた。
黒木は、歩きながら考えた。
サイバー攻撃のときは、危機が目に見えた。
被害があり、復旧の目標があり、対応すべき期限があった。
だが、日常の仕事には、はっきりした終わりがない。
台帳を直しても、次の端末が増える。
問い合わせを解決しても、次の問い合わせが来る。
契約を更新しても、翌年にはまた更新時期がやってくる。
それでも、誰かが続けなければならない。
会社が、明日も動くために。
「佐藤さん」
黒木は、前を歩く陸に声をかけた。
「はい?」
「今日の質問は、とてもよかったですよ」
「ありがとうございます」
「分からないことを、そのままにしない。それは大切なことです。これからも、疑問に思ったことは遠慮なく確認してください」
陸は、少し照れたように笑った。
「はい。そうします」
黒木も、穏やかにうなずいた。
明日も棚卸しは続く。
台帳には、まだ確認できていない端末が残っている。
今日の夜、会社を変えるような大きな決断が生まれたわけではない。
それでも、黒木は一つだけ確信していた。
「会社を支えているのは、システムだけではない。システムを動かす人間たちなのだ。」
そして、その人間たちの声は、会議室の外にもある。
この月島の鉄板の前にも。




