新章『黒木厳 - 晴海トリトン Zタワー編』 第二話
第二話 なくなった充電器、残っていた責任
iPadは、見つかった。
正確に言えば、会社の備品であるiPadを、会社の人間が保管していることが分かった。
盗難ではなかった。
しかし、黒木厳は、それで一件落着とは考えなかった。
「本体は返却していただけるんだな」
情報システム部の席で、黒木は担当者に確認した。
「はい。産休中の社員の方が持っていらっしゃいました。会社に返却していただくよう、連絡を取っています」
「それはよかった。ところで、付属品は?」
担当者は、少しだけ間を置いた。
「充電器とLightningケーブルが、見当たらないそうです」
「本体はある。充電器とケーブルはない」
「そういうことになります」
黒木は、机の上に置かれた棚卸し表を見た。
たった一台のiPadである。
しかし、その一台をめぐって、所在確認、返却調整、付属品の確認、貸出記録の照合という作業が発生していた。
しかも、まだ棚卸しの途中だ。
「貸し出したときの記録は?」
「……それが、残っていません」
「貸出日も、貸出先も?」
「貸出先については、以前の担当者の記憶と、今回の確認で分かりました。ただ、正式な記録は見つかっていません」
黒木は、すぐには返事をしなかった。
会社の備品を借りた人が、付属品をなくした。
それだけを見れば、借りた側の管理責任が問題になる。
だが、会社側には、誰に何を貸したのかを確認できる記録がない。
貸し出した側の管理にも、問題があった可能性がある。
事実がそろわないうちに、誰かを叱るのは簡単だ。
しかし、叱ったところで、記録の不備が直るわけではない。
「まず、確認しよう」
黒木は言った。
「以前の担当者には、いつ、どんな経緯で貸し出したのかを確認する。本人にも、返却できるものと、なくなったものを分けて確認する。それから、会社の規程を調べよう」
「始末書については、どうしましょうか」
「必要かどうかは、そのあとだ。規程がどうなっているか。何を貸し出したのか。誰が何を管理することになっていたのか。そこを確認せずに決めることはできない」
黒木は、棚卸し表に目を落とした。
「それに、貸出記録がないこと自体、会社側の問題だからな」
担当者は、うなずいた。
黒木は、誰かをかばおうとしているわけではなかった。
反対に、誰かを責めることを急いでいるわけでもない。
まず事実をそろえる。
それが、危機対応の基本だった。
大規模なサイバー攻撃のときも、そうだった。
分かっていることと、分かっていないことを分ける。
確認できた事実と、推測を混同しない。
そして、責任を問うなら、何に対する責任なのかを明確にする。
相手が予備iPad一台になっても、原則を変える必要はなかった。
*
昼休みになった。
黒木は時計を見た。
午後も棚卸しを続ける予定だった。確認する端末は、まだ山ほど残っている。
ゆっくり食事をしている余裕はない。
晴海トリトンの昼食販売で、チキンのバインミーと烏龍茶を買った。
支払いは、手早く済ませた。
バインミーは、ベトナム風のサンドイッチだ。パンにチキンや野菜、香草などを挟んでいる。
片手で食べられる。
仕事の合間には、ありがたい。
黒木は席に戻り、包装を開いた。
スマートフォンが震えた。
Slackの通知だった。
AWSの契約更新に関する連絡である。
AWS――Amazon Web Services。
企業がサーバーやデータベース、ストレージなどを利用するためのクラウドサービスだ。
会社のシステムがクラウド上で動いているなら、契約の更新も、日々の運用を支える大切な仕事になる。
期限を見落とせば、契約条件の確認や予算の手続きに支障が出ることもある。
もっとも、通知が届いたからといって、黒木がその場で更新を決めるわけではない。
契約の担当部署、予算の責任者、承認者。それぞれの役割がある。
黒木は通知を確認し、必要な担当者と期限を整理することにした。
バインミーを一口かじった。
チキンの味がした。
仕事の通知も、サンドイッチの具のように、次から次へと挟まってくる。
「……昼休みくらい、静かに食べさせてくれ」
独り言を言ってみたが、Slackは返事をしなかった。
当然である。
チャットツールに昼休みの情緒を期待してはいけない。
黒木は烏龍茶を飲み、残りのバインミーを食べた。
昼休みは、予定どおり短かった。
*
午後、黒木は上司の席へ向かった。
「棚卸しの件、ご報告があります」
「どうぞ」
「所在不明になっていた予備iPadは、産休中の社員が保管していることを確認しました。返却を調整しています。ただし、充電器とLightningケーブルが見つからないとのことです」
「なるほど」
「貸出記録も残っていません。以前の担当者と本人に経緯を確認し、規程を調べたうえで、必要な対応を整理したいと考えています」
上司は、報告を聞き終えてから言った。
「分かりました。事実関係を確認して進めてください。規程上の対応が必要なら、そこも整理して報告を」
「承知しました」
黒木は、それ以上の判断を自分で先取りしなかった。
グループ全体の規程を変える立場ではない。
まして、誰にどのような処分を求めるかを、独断で決める立場でもなかった。
任された範囲で事実を確認し、必要な情報をまとめ、上司に報告する。
それが、今の黒木の仕事だった。
*
席に戻ると、黒木は棚卸し表を開いた。
問題のiPadは、モバイル端末管理システム、いわゆるMDMに登録されていた。
MDMは、会社が貸与するスマートフォンやタブレットを管理する仕組みだ。設定によっては、端末の状態を確認したり、遠隔ロックやデータ消去を実行したりできる。
ただし、MDMに登録されているからといって、端末の物理的な場所が必ず分かるわけではない。
今回も、端末が見つかったのは、管理システムが場所を教えてくれたからではなかった。
関係者に確認したからだ。
黒木は、管理画面の情報と、返却に関する連絡内容を照合した。
返却前の端末について、必要な確認事項を記録する。実物が戻ってきたら、本体と付属品の状態を確認し、資産台帳の情報を更新する。
ウイルスバスターのライセンス期限についても、別途、管理担当者と確認する必要があった。
端末の所在。
付属品の所在。
ライセンスの期限。
貸出記録。
どれも、同じ端末に関係する問題ではある。
しかし、同じ問題ではない。
一つずつ分けて、担当者と期限を明確にする必要があった。
黒木は、棚卸し表の備考欄に入力した。
――所在確認済み。返却調整中。付属品の所在確認。貸出記録の不備あり。
入力してから、一覧を見直した。
まだ、確認できていない端末が並んでいた。
この一台が片づいても、棚卸しは終わらない。
明日も、その先も続く。
会社のシステムを止めないためには、華々しい判断だけでなく、こうした地味な確認を積み重ねる必要がある。
黒木は、次の端末の管理番号を開いた。
画面には、利用者名が記載されていた。
その名前を見て、黒木は手を止めた。
今度は、退職済みの社員だった。
「……なるほど」
黒木は、静かに息を吐いた。
棚卸しは、まだ始まったばかりだった。




