第十四話 のり弁と、麦茶
第十四話 のり弁と、麦茶
青木タツオが、サイバーナイト株式会社の社長を辞任した。
ランサムウェア攻撃によるシステム障害。クライアントへの影響。情報管理体制の検証。原因究明と再発防止。
事件の全容は、まだ明らかになっていなかった。
青木自身が攻撃に関与したと確定したわけではない。しかし、経営の最高責任者として、今回の事態を重く受け止め、引責辞任を決断したのである。
後任社長の選定が始まった。
候補者の名前はいくつか挙がった。
だが、最終的に取締役会が白羽の矢を立てたのは、最高情報責任者の黒木厳だった。
危機のさなかに状況を整理し、身代金を支払わない方針を明確にし、復旧計画を立て、自ら記者会見に立った男。
誰かの責任にして逃げることなく、確認できた事実と未確認の事項を切り分けた男。
会社を立て直すには、黒木が適任だ。
そう考える者がいても、不思議ではなかった。
*
「社長就任を、引き受けてもらえないだろうか」
取締役からそう告げられたとき、黒木はすぐに答えた。
「お断りします」
相手が言葉を失った。
「……理由を聞かせてもらえるか」
「私が今、やるべきことは、社長の椅子に座ることではありません」
黒木は、机の上に置かれた資料を指した。
「今回の障害について、まだ原因究明が終わっていません。復旧も、再発防止策の検証も続いています。私が責任を持って進めるべき仕事が残っています」
「社長になれば、それも指揮できる」
「社長にならなければできない仕事ではありません。それに、役職が変われば、私が直接対応できる範囲も変わります」
黒木は淡々と続けた。
「社長には、会社全体を経営する仕事があります。私は、今の段階では、システムと危機対応の現場で、やるべきことをやりたいのです」
「出世に興味がない、と?」
「必要な仕事には興味があります。肩書そのものには、あまり」
取締役は、しばらく黒木を見ていた。
「君らしい答えだな」
「そうでしょうか」
「そうだと思うよ」
取締役は資料を閉じた。
「では、今後のことは、改めて相談しよう」
「承知しました」
*
その後、三つ巴物産ホールディングスから、黒木に出向の打診があった。
三つ巴物産は、サイバーナイトの株式を五パーセント保有している。
今回の事件を受け、グループ全体の情報システムと事業継続体制について、見直しを進める必要があった。
黒木には、現場での経験を生かしてほしいという。
出向先は、晴海トリトンに本社を置く三つ巴物産ホールディングス。
配属は、情報システム部。
役職は、副部長。
最高情報責任者から、副部長へ。
肩書だけを比べれば、華々しい出世とは言い難い。
しかし、黒木は条件を確認したうえで、出向を受け入れた。
仕事がある。
ならば、やる。
それだけだった。
*
晴海トリトン。
三つ巴物産ホールディングスの本社では、今日も出世争いが続いていた。
誰が次の役員候補なのか。
誰が、どの派閥に近いのか。
誰の発言が、誰の耳に入ったのか。
会議室では、表向きは穏やかな言葉が交わされながら、その裏で、見えないボールの奪い合いが繰り広げられている。
黒木厳は、その試合のルールを理解していた。
理解したうえで、あまり興味がなかった。
情報システム部の副部長として、黒木には仕事が山ほどあった。
グループ各社との調整。システム更新の稟議。障害対応の手順確認。会議への出席。
大きな案件を進めようとすれば、関係部署との調整が必要になる。調整が終われば、今度は別の部署から確認が入る。確認が終わるころには、最初の会議で決まったはずの話が、なぜか振り出しに戻っている。
晴海トリトンは、そういう場所だった。
*
正午。
黒木は、三つ巴物産の本社ビルを出た。
向かった先は、近くのマルエツである。
昼食を選び、会計を済ませる。
買ったのは、鮭のり弁。
飲み物は、麦茶。
黒木は店の前にあるベンチに腰を下ろした。
弁当の蓋を開ける。
海苔の下に、ご飯。
鮭の切り身。
ちくわの磯辺揚げ。
きんぴらごぼう。
漬物。
黒木は箸を割った。
鮭を一口。
ご飯を一口。
麦茶を飲む。
「……うまい」
それだけだった。
午前中の会議では、ある案件の責任部署が決まらなかった。
別の案件では、システムの更新よりも先に、更新を承認する会議の日程を決める必要があると言われた。
さらに別の案件では、情報システム部が対応すべき問題なのか、業務部門が対応すべき問題なのかを、まず検討することになった。
黒木は、それらをすべて覚えていた。
午後になれば、続きをやる。
必要なら、もう一度説明する。
決めるべきことは決める。
決められないことについては、何が障害になっているのかを確認する。
それだけだ。
鮭をもう一口食べた。
サイバーナイトでランサムウェア攻撃が発生したとき、黒木は最高情報責任者として記者会見に立った。
旧サーバーのデータを確認し、復旧計画を示した。
身代金を支払わない方針を説明した。
わからないことを、わかったふりはしなかった。
そして、復旧に必要な仕事を、一つずつ進めた。
あのときも、やるべきことは変わらなかった。
いまも、変わらない。
*
弁当が半分ほどになったころ、スマートフォンが震えた。
情報システム部からのメッセージだった。
午後の会議について、追加の資料を準備してほしいという。
黒木は画面を確認し、短く返信した。
承知しました。
それから、残りの弁当を食べた。
最後の鮭を、ご飯と一緒に口へ運ぶ。
麦茶を飲み干す。
弁当箱の蓋を閉じ、立ち上がった。
午後の仕事が待っている。
副部長という肩書に、不満がないわけではない。
もっと大きな権限があれば、早く進められる仕事もあるだろう。
しかし、権限がないことを理由に、できる仕事まで放り出すつもりはなかった。
できることを見つける。
障害を取り除く。
必要な人間を動かす。
そして、次へ進む。
黒木は、空になった麦茶の容器と弁当の容器を分別して捨てた。
晴海トリトンの高層階では、午後の会議が始まろうとしている。
そこでは、また誰かが、誰かの顔色をうかがうのだろう。
黒木は、ビルへ戻る道を歩き始めた。
かつて、サッカー部のセンターフォワードだった。
ゴール前で、いつまでもボールを持ち続ける選手ではなかった。
相手の守備が固ければ、別の道を探す。
味方がフリーなら、パスを出す。
シュートの機会が来れば、打つ。
外したら、次の機会をつくる。
試合が終わるまでは、何度でも。
仕事も同じだった。
黒木厳は、午後の仕事へ戻っていく。
鮭のり弁を食べた男が、また一つ、シュートを打ちにいく。
それでいい。
それが、黒木厳だった。




