動き始めた時間
「あれ? なにかあったのかな?」
少年狩人ジルバウの声で、理一郎は目が覚めた。
馬車の揺れは〝ゆりかごのよう〟とはとても言えなかったが、疲れが一気に出て、いつの間にか御者席で寝落ちしてしまっていた。
馬車は、冒険者組合へ戻るため、中央広場を一周する中央環状通りへ入ろうとしていた。
路面鉄道も走る学都のメインストリートだ。普段から人通りの多い場所だが、その日は様子が違っていた。
ジルバウが気にしているのは中央広場だ。
「みんな、なにを見てるんだろう?」
王立アカデミア魔法院キャンパスの一部になっているため、もともと人通りの多い場所だが、いつも以上に人が集まっていた。
学生はもちろん商人、職人、貴族まで、さまざまな身なりの人々が入り交じり、皆が一様に心配そうな表情で一点を見ている。視線の先には大時計塔があった。
「どうしたんでしょう?」
エリーゼも御者席に出てきた。
「心配です。様子を見に行かせていただけますか?」
「おやおや、お節介なお嬢さんだこと。困りごとの解決は冒険者の仕事だけど、頼まれたわけでもないのにねえ」とサマンサ。
馬車を降りた一行は、群衆の中を大時計塔のほうに向かった。普段ならにぎやかな声が飛び交うはずの場所だが、今は不安げなささやき声だけが聞こえてくる。
大時計塔は五階建てビルほどの高さで、簡素だが威厳に満ちた姿でそびえ立っている。王立アカデミア開校以来、街のシンボルとして正確に時を刻み続けてきた。
「わ! 時計が止まってる!」
ジルバウが指さした。
大時計の針が動いていない。
学都の人々には、時の流れそのものが止まったかのように感じられるほどの事件だった。
エリーゼが塔の管理人を務める老人を見つけ、駆け寄る。
「なにがあったんですか?」エリーゼの声には、冷静さの中にも切迫感が混じっていた。
老人は白髪交じりの髭をなでながら、深いため息をついて答えた。その表情には、自責の念と諦めが入り交じっている。
「小魔物除けの薬草を切らしていたせいで、リプトグロスが機械室に入り込んでしまったんじゃ。ネズミかなにかを追いかけていたらしい。捕まえようと粘液を吐いたのじゃろうな。それが、歯車にくっついてしまったんじゃよ」
理一郎がジルバウに訊く。
「リプトグロスとは?」
「人には害のない小型の魔物なんだけどね。口からべたべたするツバを吐いて獲物を捕まえるんだ。そのツバが厄介なんだよ。時間がたつと固まっちゃってさ」
口から吐いた粘液が歯車の間に入って固着してしまったということらしい。
「簡単には除去できないものなのか?」
今度は老人に訊いた。
「うむ」
老人はうなずいた。
「リプトグロスの胃液を使った薬液で取れるんじゃが、固まったのが仕掛けの奥のかなり入り組んだ場所でな。途中の機械をばらさなければ手も届かんのじゃよ。大仕事になるじゃろう。機械室を解体せにゃならんかもしれん」
その言葉に、周囲から落胆の声が上がる。大時計塔は学都の象徴であり、時を告げる建築物以上の意味を持っていた。
「ああ、わしが粗相をしたばかりに、大変なことになってしまった……」
老人が頭を抱える。
エリーゼが老人の肩に手をかけた。
「中を見せていただけませんか? なにか方法があるかもしれません」
老人は少し躊躇したが、力なくうなずいた。
「まあ、冒険者組合の方々なら……」
* * *
一行は大時計塔の螺旋階段を上り、さまざまなサイズの歯車や振り子が複雑に組み合わされた機械室に入った。
「その奥じゃ」
老人の指さすほうを見る。機械の隙間から、固着した粘液が見えた。拳二つ分ほどの塊が機械仕掛けの奥のほうに付着し、複数の歯車を覆っている。ホースや管を伸ばして薬液を塗布できる状態でもない。
「これは厄介だねえ」
サマンサがつぶやいた。普段の軽薄さは影を潜め、声には真剣さがにじんでいた。
黒魔女は風魔法での除去を試みたが、風の刃は粘着物に傷一つ付けられない。
「ものは試しでやってみたけど、やっぱりだめねえ」
理一郎は隙間から粘液の塊をじっと見つめながら考えた。その目には、科学者ならではの分析的な光が宿っている。
――この場合、物理学魔法は発動できるのだろうか。
理一郎の物理学魔法は、自らが危機的状況になった時に発動してきた。果たして今回のような場合はどうなのだろう。切羽詰まった状況でなくとも発動するのだろうか。
試しに精神を集中し、あの粘着物を除去したいと願ってメガネを押し上げた。
すると、拍子抜けする程あっさりとゾーンに入ることができた。
――いけるのか。
魔物の粘液を除去する方法はいくつか思いついた。
粘弾性体としてマクスウェルモデルで粘性係数を小さくして水のように液体化する?
いや、したたり落ちた粘液が別の機械に付着して固形化してしまう可能性もあるし、後片付けの問題が残る。
では、昇華させて気化するのはどうか? 相転移条件を書き換えて常温一気圧で昇華するようにすれば?
いや、これもだめだ。昇華の際に周辺環境から熱を奪って局所的に急冷してしまい、機械仕掛けに悪影響を及ぼす恐れがある。
高速回転する頭の中でさまざまな思考実験を繰り返し、コンマ二秒後に一つの結論にたどり着いた。粘液を凝集させている分子間の引力を、逆向きに変えてしまうというアイデアだった。
視野に、方程式が現れた。
V(r) = 4ε [(σ/r)^12 - (σ/r)^6]
レナード―ジョーンズ・ポテンシャルの式だ。
この式は分子間に働く引力と斥力のバランスを表現している。
第一項のC12/r^12は短距離の強い斥力項。
第二項の-C6/r^6は長距離の引力項を表す。物質の凝集を支えているのは、この引力項だ。
明滅しているのはC6。引力の強さを決める係数だ。
これを負の値に反転させれば、本来分子同士を引き寄せるはずの長距離相互作用が、逆に押し離す力に転じる。
C6の符号を反転させて唱える。
「その理に、従え!」
粘液の分子を束ねていた引力が、一瞬にして強い斥力に変わった。同時に粘液が微粒子となって霧状に舞った。分子間の斥力によって粘液が一気に解離したのだ。
「なんと!」老管理人が思わず驚きの声を上げる。
「終わったのか?」
理一郎が首を振った。
「まだだ。掃除が済んでない。サマンサ、風魔法で塵を吹き飛ばせるか?」
理一郎が問うと、サマンサは「当たり前じゃない」とでも言うように指を鳴らす。
小さな竜巻が起こり、霧状になった粘液の粒子を窓の外へ吸い出していく。
「おお! すっかり元通りじゃ。もうよいのじゃな?」
理一郎が軽くうなずくと、老人は恐る恐る仕掛けを再起動させた。
歯車が何事もなかったかのようにスムーズに回る。針が動き、大時計塔が再び学都の時を刻みはじめた。
「やった!」
その場の全員が歓喜した。
老管理人が、大時計塔の鐘を鳴り響かせた。それに応えるかのように、大時計塔を囲んでいた群衆が歓声を上げる。
ジルバウが、「おいら、みんなに説明してくる!」と階段を駆け降りていった。
理一郎は、今の物理学魔法について考察した。
分子レベルの相互作用を理解し、そのバランスを操れば物質の状態は自在に変えられる。ならば、今の魔法でどんな魔物も倒してしまえるはずだ。
だが、ヒトマネキの時にはその方程式が思い浮かばなかった。
――たぶん、イメージできなかったからだ。
あれほど大きな対象の分子間力を操作できるとは、思えなかったからだろう。
――可能か不可能かは、直観で無意識に判断しているらしい。
理一郎は、そう考えた。
――だとすれば。
物理学魔法は、好きなように使えるわけでもないということか。それとも経験を積めば、やがて好きな方程式を思い浮かべることができるようになるのだろうか。
* * *
時計塔から出てきた理一郎たちは、待ち構えていた群衆から大きな拍手で迎えられた。
(よかった! 時計塔がまた動き出した!)
(まだアカデミアの学生のようだが、たいした魔法だ)
(兄ちゃん、ありがとうな!)
ジルバウが理一郎の活躍を伝えていたため、人々は口々に感謝の言葉を浴びせかけてきた。その喜びの声は、広場全体に響き渡った。
「すごいわねえ」
サマンサが耳元でささやいた。
「あなた、町の英雄になっちゃったわよ」
からかうような口調だったが、本物の感嘆の色が混じっていた。
「今日は驚かされてばかりだよ! リイチロウの魔法ならどんなことでもできちゃいそうじゃん!」
ジルバウも手放しで褒めちぎる。
だが、理一郎は戸惑っていた。人から褒められることに慣れていないのだ。どう反応していいかわからない。ただぶっきらぼうに「なんでもはできないさ」と応えるだけだった。
エリーゼが理一郎の肩を優しく叩きながら言った。
「素晴らしい活躍でした。では、戻りましょう。正式な冒険者証をお渡しします」
声が弾んでいた。自分が担当する冒険者の活躍が誇らしいのだ。
人々の賞賛を背に、一行は冒険者ギルドへと向かった。
* * *
ギルドに到着すると、エリーゼはてきぱきと手続きを進めた。その動きは、まさにプロフェッショナルだ。
「はい、これが正式な冒険者証です。理一郎さんは特例として四級と認定されました。サマンサさん、ジルバウさんの口添えがあり、組合長もそれを承認しました」
エリーゼから手渡された冒険者証は、想像以上にずっしりと重かった。
「おめでとう」
サマンサが艶っぽく笑う。声には、いつもの軽薄さが戻っていた。
「これで正式に仲間入りね。では歓迎会を始めましょ」
サマンサは理一郎の手を引き、広間に隣接している食堂に連れていこうとする。
「いや、でも、アリアが待ってるから……」
断ろうとする理一郎の背中を誰かが平手で叩いた。バシッといい音がする。
振り返ると、ふくよかな、まさに肝っ玉母さんと呼ぶのがふさわしい五十代の女性が立っていた。食堂を仕切っているメリッサだ。皆からはただ「おばさん」と呼ばれている。
「なに言ってんだい、坊や! 歓迎会は新人さんの通過儀礼さ! アルタイルさんのとこのアリアちゃんには連絡してあるから、追っ付け来るだろうよ。さあさあ、あたしが腕を振るったんだ。断れるなんて思わないことさね!」
メリッサは、有無を言わさず理一郎の腕を掴んで食堂に連れていった。




