非ニュートン流体
巨大なカエルの魔物――コケオオガエルが、鋭い歯をむき出しに宙を裂いて迫ってくる。
理一郎はメガネを押し上げてゾーンに入った。
魔物の攻撃パターンは、グラスランナーに似ている。ならば――。
その瞬間、視界に方程式が浮かんだ。
x(t)=x₀+vt
等速直線運動の式だ。
まず速度をゼロにして、魔物の運動を停止させる。
「その理に、従え!」
停止した瞬間、理一郎は横に飛んで魔物の突撃を回避できる位置に逃れ、同時に今度は速度を秒速百メートルに書き換えた。
次の瞬間、コケオオガエルは猛烈な速度で地面に激突する。
その衝突エネルギーは、高さ五百メートルから落下したときの衝撃に匹敵する。コケオオガエルは自身の運動エネルギーで、文字通り圧潰した。
緑色の体液と粘液状の消化液が辺りにまき散らされ、周囲の植物を溶かしていく。理一郎は、毒物耐性を付与した白衣のおかげでなんとか難を逃れた。安くない買い物だったが、追加効果を付与しておいて良かったとつくづく思う。
――やりすぎだったか。
息を切らしながら、肉片となったコケオオガエルを見つめた。速度はあんなに速くしなくて良かったようだ。パラメーターを大きく書き換えるほど、体に負担がかかる。心臓が激しく鼓動している。
黒魔女と狩人は援護の体制を解いて、ただただ驚きの表情を浮かべている。エリーゼも息を呑んで目を輝かせていた。
「やっぱり、すごい魔法だねぇ」
黒魔女サマンサが艶っぽい声で近づいてきた。
「その魔法、もっと詳しく教えておくれよ。あたしにも使えるかしら?」
黒魔女の吐息が耳元をくすぐる。十代の体が敏感に反応し、思わず顔が赤らんでしまう。
「物理法則を操作している」
「ふーん? 物理法則? 難しいお勉強のことかしら?」
黒魔女は理一郎の周りをゆっくり回りながら、さらに妖艶にささやく。
「あなた、頭いいのね」
理一郎は言葉に詰まる。からかわれているのはわかるが、どう対応すればいいのか、さっぱりわからなかった。
「いい加減にしてください! 課題の途中ですよ!」
見かねたエリーゼが止めに入り、黒魔女をたしなめる。
「サマンサ、やめなよ」と少年狩人ジルバウもやってきて、「すごいなあ、物理法則を操るなんて聞いたことがないよ。君の魔法はほんとにびっくりだ」と理一郎の肩を叩いた。
理一郎は、実戦でもなんとか対処できそうだという自信とともに、クエストを再開した。
* * *
さらに奥へ進んでいくと、足元は湿地に近い状態になっていった。渡されていた地図によれば、ところどころに沼もあるらしい。腐葉土の積もった底なし沼もあるので、慎重に進んだ。ギルドの資料によれば、ホタルタケの適地はそういった沼の周辺だった。
しばらく歩くと、行く手に仄かな明るみが見えた。
さらに進むと朽ち木の向こうに、青白く明滅するキノコがあった。ホタルタケだ。
お椀型の傘も太めの軸も透き通り、生物発光の冷たい光を放っている。ずっと見ていたくなるほど幻想的だった。夜目を利かせる水薬の材料となり、暗闇の中での戦闘や探索に役立つ。
摘むと発光が止まってしまうらしい。少しためらったが、課題であればやむを得ない。慎重にナイフを入れる。
これで五種類のキノコがすべてそろった。
だが、さらに奥のほうに、より強い光が見えた。
群生しているのかもしれない。そうであれば、さぞ美しい光景だろう。そう思い、木々を縫い、倒木をくぐりながら、近づいていった。
だが、光の正体はホタルタケではなかった。
驚いたことに、全裸に近い女性が、青白い光に包まれてうずくまっていたのだ。
その姿は美しく、幻想的で、まるで常闇の森の精のようだった。
――助けなければ。
ふいに湧いた衝動に突き動かされ、女に引き寄せられていった。
空気が次第に甘い匂いに変わり、意識を蕩かしていく。
突然、頬に強い痛みを感じ、我に返った。
「しっかりおし! ヒトマネキだよ! スライムの化け物さ!」
サマンサの風魔法で頬を殴られたのだ。
さっきまで女性の姿をしていた生き物が、巨大な粘性体へと変形しはじめた。
透明感のあるゼリー状の物体が、みるみるうちに膨張していく。体の中にはさまざまな生物の骨や消化されかけの肉塊が見えた。そして、無数の触手のような突起を伸ばし、理一郎を包み込もうとする。
理一郎はメガネのフレームを押し上げた。脳の情報処理速度が飛躍的に高まる。そのフル回転している頭で考える。
自分に向かってくる突起を、とにかく止めたい。
だが、ヒトマネキは、グラスランナーやコケオオガエルのようには運動していない。だから、同じ手は使えない。案の定、視界に運動方程式は浮かんでこなかった。
――ではなにが有効なのか。
理一郎は考えた。
この魔物は変形するが、形を留めることもできる。
粘りの緩い液体のような流動性を備えるが、その粘性は何らかの仕組みで変化する。
つまりヒトマネキは、『非ニュートン流体』だと考えて良いということだ。
――であれば。
τ = τ_y + η_p × γ_dot
視野に数式が浮かんだ。ビンガム方程式のビンガム塑性モデルだった。
歯磨き粉や泥、そしてスライムなど、非ニュートン流体を記述する基本的な構成式だ。
明滅しているのは降伏応力τy。非ニュートン流体は、この値を超えないと流れ出さない。つまり、降伏応力の数値を異常に大きくすれば、ヒトマネキは固まってしまい、流体として振る舞えなくなるということだ。
理一郎は降伏応力τyを十万倍に書き換えた。これでヒトマネキは、よほどの力が加わらない限り流れ出さなくなる。さらに塑性粘度ηpも引き上げ、たとえ流れようとしても、その動きを極限まで鈍らせた。
「その理に、従え!」
するとヒトマネキの内部の微小な高分子鎖やコロイド粒子の結びつきが、一瞬にして爆発的に増えた。高分子鎖の随所に一時的な結合部位が発生し、緊密化した結びつきが強固な網目ネットワークを形成する。ゼリーの中に網目の鉄骨が張り巡らされたようなものだ。
ヒトマネキは流動体としての性質を完全に失い、瞬時にガラスのように固まる。
同時に体液が流動しなくなり、代謝系が機能しなくなる。
半透明だった体がみるみるうちに白濁し、やがてボロボロと崩れていった。
「すごいぞ、リイチロウ!」
近くまで来ていたジルバウが手を叩いて感心する。
「それのほんとの名前はグラトニースライムっていうんだ。獲物の心を読んで、獲物が近寄りたくなる姿に擬態して狩りをするんだよ。人を襲うときはたいてい人に化けるから、別名ヒトマネキさ」
本来の生息地はもっと奥地で、試験区域での遭遇はギルドにも予定外だった。一般的には火魔法で灼くか、氷魔法で凍らせて倒すか、あるいは近寄らないのが最良の対策だという。
「そんな倒し方、初めて見た!」
ジルバウが駆け寄ってきたが、理一郎は思わずしゃがみ込んでしまった。脳のエネルギー切れだ。
「大丈夫かい?」とジルバウ。
理一郎はうなずきながら、氷砂糖を口に入れた。痺れるような甘さがエネルギー切れの脳に染み渡っていく。
同時に今の出来事を振り返る余裕も生まれた。
――あの時、なぜあの方程式が浮かんだのだろう?
高速移動する魔物に対しては、速度を殺せる運動方程式だった。ヒトマネキに対しては、非ニュートン流体を固形化できるビンガム方程式だ。状況や相手に応じた方程式が思い浮かぶのは間違いない。
だが、ほかにも応用できそうな方程式がいろいろある中で、なぜあの方程式だったのか――。
自分が直観的に選んでいるのか。あるいは自分の意志とは無関係に選ばれるのか。
もっと言えば、どの方程式を使うか、自分で決められるのだろうか――。
使えるようになったとは言え、まだまだわからないことだらけであることに、理一郎は改めて気づかされた。
「あなた、やっぱりいいわねえ」黒魔女のサマンサが近づいてきた。
「キノコも集めたし、教導依頼は合格よ。ジル坊もそれでいいわよね」
「ジル坊は止めてって言ってるじゃん。もちろんリイチロウは合格だよ。文句の付けようがないもん。最初から三級ぐらいでもいいんじゃないの」
「そういうわけにはいかないんですよ」とエリーゼ。
「でも、ヒトマネキが裸の女に擬態するなんてねぇ。やっぱりお年頃なのかしら?」
サマンサが理一郎の腕を掴み、胸を押し当てながら立たせた。
「たまたまだ」
理一郎は体を離しながら言い訳をする。
「ふうん。たまたまねえ」
サマンサはなおも理一郎に絡もうとするが、エリーゼが割って入った。
「グラトニースライムについて情報共有していなかったことは、組合の手落ちです。事前探索した時にはいなかったので、注意喚起をしていませんでした。お詫びします。討伐報酬を上乗せさせていただきますので、ご容赦ください」
理一郎は軽くうなずいた。
「教官が二人とも認めましたので、この教導依頼は合格です。おめでとうございます」
エリーゼが手を差し出してきた。理一郎はその手を握り「ありがとう」と答えた。
「それにしても、理一郎さんの魔法には驚かされました。これからの活躍が楽しみです。では戻って組合で手続きをしましょう」
* * *
理一郎は動き出した幌馬車から常闇の森を振り返る。
森は、自信を与えてくれた。
今日の経験は、この世界でこれから暮らしていくための礎になる。理一郎はそう確信していた。さらに、この先どんな世界が開けていくのか、ワクワクするような期待を与えてくれた。
そうした感じ方には、理一郎自身が驚いた。
「次は二人きりで来ないこと? もっといろいろ教えてあげられるわよ?」
いつの間にか黒魔女サマンサが密着するように隣に座り、耳元でささやいた。
サマンサの狙いは、理一郎を自分のパーティーに入れることだ。たわいのない話の合間に、思わずドギマギしてしまう言葉を投げかけ、ときにボディータッチも仕掛け、誘惑してくる。
女性経験に乏しい理一郎には、サマンサの真意がわからない。
――誘われているのか? それとも試されているのか?
いずれにしても、軽率は避けるべきだろう。救いを求めようとエリーゼを見る。だが、仕事熱心な彼女は、馬車の揺れに抗いながら、なんと今日の報告書を書きはじめていた。
助け船を出してくれたのは、馬車を操っている少年狩人ジルバウだった。
「リイチロウ、こっちにおいでよ」と御者席に誘う。
二つ返事でジルバウの隣に移動した。
「思ったより早く終わったから、この分なら夕方前には着くよ」とジルバウ。
ジルバウは十三歳。もともと人なつっこい性格だ。歳が近く、しかも物理学魔法にも興味津々なので、理一郎と親しくなりたくて仕方ない。
「サマンサに気に入られちゃったね」
「そのようだ」
「あんな活躍を見せられたらね。しかも扱いやすそうな男の子の新人なんて、サマンサにはいいカモだよ」
「君も彼女のお気に入りか」
「カモにされた一人だよ。いつもからかわれてる。そうじゃなければ小言ばっかり」
「そうなのか」
「母ちゃんとか姉ちゃんて、そういう感じなのかな。じいちゃんしかいないから、よくわからないんだ」
「二人暮らしなのか」
「じいちゃんは村にいる。学都はにぎやかすぎるってさ。でも、森のことはじいちゃんに叩き込まれたよ。獣道の見つけ方も、風の匂いの読み方も、鳥が騒ぐ時はなにがいるかも」
「なるほど」
「だから、おいらは難しいことはわかんないけどさ。森で食ってけるだけの狩人には、ちゃんとなりたいんだ」
「君は十分に専門家だ。自分の領域を持っている」
ジルバウは手綱を軽く引きながら、少し照れくさそうに笑った。
「そうそう。駅馬車に赤毛の女の子がいたでしょ」
「ああ、炎使いか」
「彼女とは幼なじみなんだ。あの子の一家で村に避暑に来ている間、よく森で遊んだよ」
「そうなのか」
それからジルバウに問われるまま、物理学魔法について話した。そうすることで、発動の機序を振り返るなど、客観的に出来事を整理することもできた。
そうする中、理一郎はふと、ある懸念をいだいた。
今のところ、周辺環境を巻き込むような大規模事象改変の魔法は現れていない。だが――。
――もしも、あの方程式が浮かんでしまったら?
アインシュタインのあの美しく簡潔な方程式が目の前に現れたら?
その時、自分はどうするだろう……。




