常闇《テネブリス》の森の試練
「理一郎くん、朝ごはんできたよ!」
教導クエスト当日の朝、階下からアリアの声が聞こえてきた。
「理解した。今行く」
階段を下りると、食堂にはアリアが用意した朝食が並んでいた。パンと卵、燻製肉、新鮮な果物、そして香り高い紅茶。
「おはよう。今日は力が出そうな物を用意したから、しっかり食べていってね」
アリアの気遣いが、理一郎を体の中から温かくする。
「今朝も美味そうだ。アリアは実に料理上手だな」
アリアと暮らすうちに、理一郎の口調や態度もだいぶ柔らかくなってきた。
「ありがとう。お母さんが忙しくて、小さい頃から手伝ってたからかな」
アリアは少し照れくさそうに答えた。
二人で食事を始めると、アリアが尋ねてきた。
「ねえ理一郎くん、今日は教導依頼の日だよね。大丈夫そう?」
「準備はできている」理一郎はギルドでもらった書類をテーブルに置いた。「ここに書いてあることはすべて覚えた」
「頑張ったね」
他人からストレートに褒められるのは、なんとなくむずがゆかった。
「本番に活かせるといいのだが」
「理一郎くんなら大丈夫だよ」
食事を終え、片付けを済ませると、理一郎がアリアに訊いた。
「珈琲を入れるが、アリアは不要か?」
元の世界の理一郎は、カフェインやニコチン、アルコールなど、さまざまな合法化学物質に依存していた。体が若返ってからは喫煙や飲酒に対する衝動は消えたが、珈琲への欲求は消えなかった。だから、この世界にもあると聞いた時には安堵した。ただ、アリアは紅茶派なので、淹れるのはいつも一人分だった。
「うん。もう学校に行く時間だから。戸締まり、お願いね」
アリアは革かばんを肩にかけて玄関に向かったが、突然足を止めた。
「あっ! 課題を入れ忘れちゃった」
彼女はあわてて階段を駆け上がっていく。
理一郎は、せめて見送りぐらいはしようと、頃合いを見計らって玄関ホールに出た。
その時、階段の上から「きゃーっ!」というアリアの悲鳴が響いた。
あわてて振り返った理一郎の目に、階段から転げ落ちようとするアリアの姿が映る。
メガネを押し上げると一瞬にして意識が研ぎ澄まされ、ゾーンに入った。
x(t)=x₀+vt
F=ma
視界に二つの式が同時に浮かび上がる。等速直線運動の式と、ニュートンの第二法則。
――まず、vをゼロに。続けて、aもゼロに固定。
すでに加わっている落下速度を消し、新たな加速も封じる。
「その理に、従え!」
その途端、見えない手に支えられたように、アリアの体が宙に浮かんだまま静止する。彼女はまるで時間が止まったかのように、半空に浮かんでいた。
――早く受け止めなければ。
物理学魔法にはまだまだ未知数が多い。この事象改変が、いつまで保つか分からない。
理一郎はもつれそうになる足に鞭を打ち、無我夢中で階段を二段飛ばしで駆け上がり、浮かんだままのアリアに腕を回した。
魔法を解除すると、アリアの重みが腕に伝わってきた。想像以上にやわらかく、そして温かい。彼女から漂う甘い香りに、不覚にも鼓動が速まる。
「あ……ありがとう」
その小さな声に我に返った理一郎は、慎重に階段を降り、玄関ホールに立った。
ゆっくりとアリアを地面に下ろす。
アリアの頬は真っ赤だった。彼女は理一郎から少し離れると、スカートの乱れを整える。
「ご、ごめんね。大事な日なのに迷惑かけちゃって。でもほんとに助かった」
「心配するな。君と特訓した成果だ。けがはないか?」
「うん、大丈夫」
お互いの視線がすれ違い、微妙な沈黙が流れる。
「じゃあ、行ってくるね」
アリアは玄関ドアに手をかけた。
「ああ」
「あ、ちょっと待って」
アリアが理一郎の前に向き直り、彼の白衣の袖口に手を伸ばした。
「袖、少し汚れてるかも」
言いながら、彼女の指先が袖口の布地をなぞる。ただのほこりを払う動作にしては妙にゆっくりと、小さな円を描くように動いた。
「よし、これで大丈夫。じゃあ、行ってくるね」
ドアを開けたアリアは、一歩踏み出したところで足を止めた。
ゆっくりと振り返り、柔らかな笑顔を見せながら小さく手を振った。
「頑張ってね」
理一郎も思わず手を上げ、その仕草に応えていた。
彼女の姿が見えなくなった後も、袖口にほんのりとした温かさが宿っていた。
* * *
教導クエストの舞台は、学都から幌馬車で二時間ほど南、「常闇の森」だった。
濃密に茂った木々に日光が地面まで届かず、昼なお暗闇が支配することから名付けられた森だ。
教官はバルタ街道の護衛を務めたパーティーから黒魔女と少年狩人。二人とも三級の冒険者だ。少年狩人は御者役も兼ねていた。
立会人は、学都冒険者組合の受付嬢エリーゼ。今日もギルドの制服だったが、いつものスカートではなくハンティングパンツをはいている。面倒見のよいお姉さんといった感じのエリーゼだが、四級冒険者の資格も持っているという。ギルドの受付嬢はただの事務職ではないようだ。
森への道は次第に狭くなっていった。両側から森が迫り、緑の壁の間を進んでいるような状態になる。それでも、道はそれなりに整備されていた。森は、水薬などの材料となる薬用植物の宝庫だからだ。
やがて密林の中にぽっかりと開かれた空き地で馬車が止まった。ここがテネブリスの森の入り口だった。空き地には簡易的な宿泊設備も整った作業小屋が建っている。
馬車から降りると、じめっとした空気が理一郎の顔にまとわりついた。
理一郎は落ち着くためゆっくりと深呼吸をした。湿った土の匂いが鼻腔に満ちる。
どこからともなく水の滴る音が聞こえてくる。それが、森の静寂をより際立たせていた。
「では、改めて課題の説明をします」
エリーゼが、きりっとした口調で話しはじめた。その真剣な眼差しに、思わず理一郎の背筋が伸びる。
通常、教導クエストは何人かの仮冒険者がパーティーを組んで課題に挑戦する。だが今回の参加者は、理一郎ただ一人だった。ギルドマスターは、理一郎の魔法を公にしたくないと考えたのだ。そのため、教官役もすでに物理学魔法を見たことのある駅馬車護衛パーティーの中から選ばれた。
「今回の課題は、五種類の薬用キノコを採取することです。対象となるのは、ミツタケ、ホタルタケ、チカラタケ、カゲタケ、オトタケです。それぞれ特徴的な外見と効能がありますので、慎重に見極めてください」
理一郎は、事前に渡されていた資料に目をやる。あまり良質でない紙に刷られていて、何度も読み込んだのでボロボロになりかけている。それぞれのキノコの形や大きさなどはすでに頭に入っていた。
エリーゼは一呼吸おいて続けた。
「ただし、重要な注意点が一つあります。常闇の森にはコケオオガエルという危険な魔物が生息しています。遭遇した場合は、適切に対処しなければなりません」
理一郎は緊張した面持ちでうなずいた。
「今回の教官役は、魔女のサマンサさんと狩人のジルバウさんです」
エリーゼの後ろで黒魔女サマンサが妖艶に微笑みながら手を振っている。相変わらず大きく胸元が開き、腰から裾にかけて大きくスリットの入った黒のロングドレスを着て、大きな魔女帽をかぶっている。肌は透き通るように白い。この森では上空からの視界共有は役立たないので、使い魔のカラスは連れていなかった。
褐色の肌ともじゃもじゃ髪のジルバウは、親しげに笑いかけてきた。歳が近いせいか、なんとなく理一郎に親近感をいだいている。軽装だが要所はしっかりと革の防具でカバーし、背中に愛用の弓を負っている。
「お二人は万が一の時は理一郎さんを助けます。でもその時点で課題は失敗です。よろしいですか? なにか質問はありますか?」
理一郎は「いいえ」と答えようとしたが、想像以上に緊張しているらしく喉がからからで、うまく声を出せる気がしなかった。ただ首を横に振った。
「では、始めてください。健闘を祈ります」
エリーゼの合図とともに、理一郎は森の中へと足を踏み入れた。
森の奥へと向かう後ろ姿を見送りながら、少年狩人ジルバウが誰に言うでもなくつぶやいた。
「大丈夫なのかな、あいつ。コケオオガエルは三等魔物じゃん。こんな難しい教導依頼なんて、学都の組合では初めてだよね」
黒魔女サマンサは、ジルバウのもじゃもじゃ髪をぽんぽんしながら応えた。
「それだけ大物ってことなのさ。ね? 受付のお嬢さん」
「エリーゼです。異例ですが、組合長のご判断ですから。さ、行きましょう。見失ってしまいます。ただし、本当にぎりぎりになるまでは手助けしないでくださいね」
狩人ジルバウを先頭に、三人は理一郎を追って森に入っていった。
* * *
森の中は苔むした巨木が立ち並び、厚く積もった腐葉土が足元に沈む。まだ完全な暗闇というわけではなく、木々の枝が織りなす天蓋がまるで緑の大聖堂のステンドグラスのように光を濾過し、神秘的な薄明かりを注いでいた。
だが奥に進むにつれ、暗がりと湿気は増していく。
ギルドが作成した資料はかなりの情報量だったが、生育環境などが事細かく記されていた。理一郎はそれを思い出しながら適地を探す。
しばらく歩くと、倒木の根元が目に入った。びっしりと生えた苔の中に、何かが黄金色に輝いている。近寄ると、甘い香りがした。しゃがみ込んで観察すると、傘に水滴のように蜜を付けたキノコがあった。資料は実に正確かつ有用だった。
その蜜は体力回復や傷の治癒を促す水薬の素材になる。ただし、未処理のまま口にすると少量でも酩酊してしまう。そのためか、獣や魔物に食い荒らされた跡はなかった。
――これは……ミツタケか。不思議なキノコがあるものだ。
もしも自分が生物学者だったら、この世界は研究テーマの宝庫だったろう。そんなことを思いながら、理一郎は小型ナイフで慎重に採取し、保存袋に入れる。
森の中をさらに進み、目を凝らしてキノコを探し続けた。
湿った空気が肌にまとわりつく。時折、正体不明の不気味な鳴き声が聞こえてきた。木々の間からわずかに差し込む薄明かりが枝の影を踊らせ、まるで森全体が生きているかのような錯覚を起こさせる。
そうこうしているうちに、カゲタケ、チカラタケ、オトタケも見つかった。
カゲタケは真っ黒なキノコで、気配を消すための水薬の原料になる。
傘に赤い無数の棘を生やしたチカラタケは、一時的に筋力と闘争心を高めるが、効果が切れると強い倦怠感に襲われるため、使いどころが難しい。
オトタケは傘の表面に電子回路のような模様があり、五感を鋭敏にする効能があり、探索や潜入に役立つ水薬の原料となる。
この時の理一郎は知らなかったが、どれも薬用キノコとしては特級品で、採取難易度の高さから、市場ではかなりの高値で取り引きされている。
「あとはホタルタケか」
そうつぶやいた瞬間――。
枝葉が不自然に揺れた。
資料にあった危険信号を思い出し、理一郎は反射的に身を引く。
次の瞬間、木の陰から巨大な影が飛び出してきた。
体長二メートル、体重百キロは優に超えるだろうという巨大なカエルのような魔物、コケオオガエルだ。
暗緑色の肌には苔やキノコが生えており、赤黒い眼が不気味に光っている。
カエルと名は付いているが、この魔物は舌で獲物を絡め取るのではなく、鋭い歯で噛み砕いて動きを封じ、丸呑みして強力な胃液で消化する。口からはその消化液がしたたり落ち、薄い煙を上げて腐葉土を溶かす。四肢には鋭い爪が生えており、樹皮を掻きむしった跡が周囲の木々に残されていた。
魔物は強力な後ろ足で大きく跳躍し、襲いかかってきた。その動きは予想以上に素早い。
「くっ!」
精一杯身を翻し、かろうじて避けたものの、爪が腕をかすめた。強度を高めた白衣のおかげで裂かれることはなかったが、危ないところだった。
コケオオガエルは着地するやいなや、再び跳躍の態勢に入る。
魔物の眼は理一郎を捉えている、その縦長の瞳孔を備えた目からは、何の思考も感情も読み取れない。決してコミュニケーションなどできないことを実感させる目だ。大きく開いた口から吐き出される息は、腐った肉の臭いがした。
コケオオガエルが、再び理一郎に向かって大きく跳躍した。
迫り来る圧倒的な質量と放物線の軌道を前にして、理一郎は静かに伊達メガネのフレームを押し上げた。




