学都ミレトス
アリアの家で暮らしはじめて、数日後の朝。
理一郎は、窓から差し込む朝日で目を覚ました。元の世界では考えられないほど、ゆったりとした朝だ。
先代大賢者の古い屋敷の、二階の奥。借りた予備の書斎には、壁一面に古い書物や巻物が積み重なっている。年代物の木机の上で、持ち込んだノートパソコンだけが、ひどく場違いに見えた。こちらでも起動はしたが、電気がないので連続しては使えない。データを失うのも怖く、当面は手を付けずにおくことにした。
窓辺に立ち、花の咲く庭を眺める。
わずか数日。それでも、この世界での日々は、慌ただしくも刺激に満ちていた。
優しい風景を眺めながら、学都に来てからの日々を思い返した。
* * *
午後早く、駅馬車はバルタ街道の東の終着点、学都西門に着いた。
人口約十万人、王国第有数の大都市だ。
そう聞いてはいたものの、せいぜい中世風の城塞都市だろうと、理一郎はどこかで高をくくっていた。だが、それは大きな間違いだった。
馬車から降りた瞬間、眼前にそそり立つ西門の威容に圧倒された。それは石造りの巨大建造物で、高さは十メートルをゆうに超えていた。防衛のための門というより、叡智と技術をモチーフとした芸術品だった。
門の前には入都審査を待つ長い行列ができ、道の両端にはずらりと露店が並んでいる。行き交う人々の中には、獣の耳を持つ者や頭そのものが獣の者もいた。エルフやドワーフらしき姿も見える。否応なく、ここが異世界なのだと実感させられた。
学都は、王立アカデミア魔法院のキャンパスもある中央広場を中心に、同心円状に区画されているという。外周壁は最外縁になるが、それでも西門の辺りは建物が多い。
辺りを見回す理一郎が、門の向こうに停車している鉄道車両に目を止めた。
見たところ架線はなく、車両に煙突もない。
「珍しい? 路面鉄道だよ。中央広場まであれに乗ってくんだ」とアリア。
「動力は?」
「もちろん魔力だよ」
――魔力……。
その一言で説明した気になっているアリアの隣で、理一郎の頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
だいたい魔力とはなんだ。いったいどんな理と機構が、重い車両を走らせるだけのエネルギーを供給し、車輪を回しているのか。そもそもエネルギー保存則は、この世界でも成り立つのか……。
問いは尽きないが、今は答えを得る手立てがない。
理一郎は、湧き上がる興奮を抑え、ひとまずアリアに従って車両に乗り込んだ。
石畳の通りを行き交う多くの人々、軒を連ねる色とりどりの店、ところどころに現れる緑豊かな公園――。暮らしやすさを感じさせる風景が車窓をゆっくり流れる。建物や服装は元の世界の中世都市に似ているが、人々の往来は多く、現代都市に近い文化度が感じられた。
途中、何本かの水路を橋で越えた。水路は学都の環状交通インフラで、小型船が行き交っていた。
終点の中央駅まで約三十分。降りると、広場にひときわ高くそびえる塔が目を惹いた。学都のシンボル、大時計塔だ。開都と同時に建てられ、以来一秒の狂いもなく時を刻みつづけているという。
理一郎とアリアは、今度は南門線に乗り、三つ先の停留所で降りた。アルタイル邸の最寄り駅だ。中央広場まではそれほど遠くない。天気がよければ散歩がてら歩いても気持ちのいい距離だった。
* * *
その翌日は、アリアの案内で学都冒険者組合に行き、仮登録を済ませた。
すぐにでも王立アカデミアに行ってみたかったが、まずは暮らしの基盤を整えなければならなかったからだ。
ギルドは学都の中心部、中央公園の外周路の一画にある大きな建物で、さまざまな格好の冒険者たちが出入りしていた。
中に入ると、二十代前半の受付嬢が笑顔で迎えてくれた。まとめ髪にメガネ、真面目なお姉さんといった感じの女性だった。
「初めまして。エリーゼです。ご用件は?」
「冒険者登録をしたい」
理一郎が答えると、受付嬢は登録用紙を取り出した。
「はい。ではこちらにお名前と年齢、出身地をご記入ください」
少し躊躇した後、正直に記入した。
「モノノベ・リイチロウ様、十七歳、出身は……」受付嬢は腑に落ちない顔をした。「ニホン? そんな地名は聞いたことがありませんが……」
その時、後ろから声がかかった。
「おやエリーゼ君、ベテラン受付嬢の君でも知らないことがあるのか?」
エリーゼは頭を下げながら、声の主が差し出した手に、理一郎が書いた書類を渡す。
「ふむ、君が例の新人さんだね?」
振り返ると、胸に金色のバッジをつけた男性が立っていた。
元の世界の自分と同年代の中年男だ。全身黒っぽい服装で、黒髪の長髪を無造作に後ろで束ね、無精髭を生やしている。なんとなく〝素浪人〟という言葉が思い浮かぶ。
学都ではかなりの顔役であることを、あらかじめアリアから聞かされていたが、確かにただ者ではない気配を感じた。だが、態度は高圧的ではなく、むしろ親しげだった。
「私はレオン、ここの組合長だ。君の噂は聞いているよ」
レオンは理一郎の肩を叩いた。
「グラスランナーのボスを倒したそうじゃないか。素晴らしい活躍だ」
「俺一人の成果ではない」
「謙遜かい?」
「いや。事実だ」
その言葉にレオンの頬がゆるむ。
「聞いている限りでは、君の能力は本物だ。ところで君の出身地だが……」
そう言いかけて、レオンは自分たちが注目を集めていることに気づいた。
(グラスランナーの特殊個体を足止めしたのは、あいつなのか!?)
(ああ、狩人のジルバウが、自分のことのように触れ回っていたよ)
(なんでも風変わりな魔法を使うらしいぜ)
(若いのにやるわねえ。今のうちにツバつけちゃおうかしら)
「ここではなんだな。エリーゼ君、別室にご案内してくれないか」
「はい」
通されたのは来客を迎えるための応接室だった。丁寧に作られた革張りのソファに座ると、レオンが切り出した。
「魔女のサマンサからグラスランナー討伐の報告を受けてね、君に興味を持ったんだよ」
直接話を聞きたいとレオンから促され、理一郎はかいつまんでボス討伐時の状況を話した。
「ありがとう。それにしてもすごい魔法だな。そんな力があるなら飛び級で登録してもいいくらいだ。ただ――」
ギルドマスターは、初めて鋭い目で理一郎を眺めた。
「その時が初めてというのは妙な話だ。君は記憶喪失なんだろ。だとすれば前から使っていたと考えるほうが自然だ。一体どうやってそんな特殊な魔法を身につけたのか、できれば知りたい。君の出身のニホンでは当たり前の魔法なのかい?」
理一郎は一瞬ためらったが、すぐに自分が異世界から来た物理学者であることを打ち明けた。レオンが学都の有力者の一人であれば、隠し事はしないほうが良いと、アリアとも相談していたのだ。
「信じがたいだろうが――」と話しはじめた。「俺は別の世界からここにやってきた。君たちから見れば、俺は〝異世界人〟だ」
レオンと受付嬢は驚いた顔をした。
「異国ではなく、別の世界? そんなものがあるのか?」
理一郎は自分が覚えている限りの経緯を説明した。大学のキャンパスにいたところ突然光に包まれ、気がついたらバルタ街道にいたこと。そして、アリアたちと出会ってここまで来たこと。
レオンは真剣な顔で話を聞いている。理一郎が話し終わると、受付嬢の顔を見た。
「嘘はありません。ヒト族であることも間違いありません」
エリーゼは木札のようなデバイスを見ながら答えた。
「すまんな。真贋判定をさせてもらった。簡易的なものだが、そこそこ実用にはなるんだ。疑うような真似をしたが、最近は学都も少し物騒でね」
レオンが軽く頭を下げる。それからエリーゼに言った。
「この話はエリーゼ君と私の胸だけにしまっておこう。いいね?」
エリーゼがうなずく。
「理一郎君、君の不思議な能力は、元の世界の職業が関係してるんだろうね。それにしても、非常に珍しい。その力は我々の世界にとっても非常に貴重なものになるだろう。不本意かもしれないが、来てくれたことを歓迎するよ」
レオンは少し考え込んだ後、決断した。
「よし、特別に君を五級で仮登録することにしよう」
初心者は六級からのスタートになるので、異例の措置だった。
「まずは教導依頼を受けてもらう。そうだな、三十七番がいいだろう。それを達成できれば、正式な冒険者資格を与える。いいね」
「理解した」理一郎はうなずく。
「学都でなにか困ったことがあれば、相談に乗るよ。いつでも訪ねてくるといい。では、エリーゼ君。後は頼む」
レオンが退出すると、エリーゼがギルドのシステムやクエストの受け方、昇級方法など、一通りてきぱきとレクチャーしてくれた。
レクチャーの中で、特に重要だったのが魔物の脅威度と冒険者ランクの関係だった。
「組合では、魔物と依頼を七段階の脅威度等級で分類しています。七等が最も低く、一等が最も高い。国家的な脅威は、その上の特等です」
エリーゼは慣れた手つきで一枚の表を取り出した。
「冒険者の階級もそれに対応しています。七級なら七等まで、六級なら六等まで。自分の階級を超える依頼は、原則として単独では受けられません」
「自分の階級を超える等級の依頼は受けられないのだな」
「はい。ただし、複数で仲間を組む場合は、統率者の階級を考慮して、都度、組合が判断します」
エリーゼは棚から三十七と書かれた書類袋を取り出した。
「教導依頼とは、組合が出した課題をこなせるかどうか、教官役の有資格冒険者が同行して採点する試験です」
エリーゼは書類袋から地図を出し、机の上に広げる。
「理一郎さんの課題は、常闇の森で薬用キノコを採取することです。簡単そうに聞こえるかもしれませんが、森には危険な魔物も潜んでいます。これを読んで予習しておいてください」
エリーゼから手渡された十枚程度の書類には、現地の様子やキノコの生態と形状、遭遇する可能性の高い魔物などが記されていた。
「あの」アリアが手を上げる。「これは一人で行う課題なんですか?」
「三十七番はそうですね。心配でしょうけど、アリアさんは同行できません」
「わかりました」アリアは残念そうに肩を落とした。
「お渡しした資料に推奨装備も記載していますので、準備がまだでしたら整えておいてください。では一週間後に」
二人はギルドを出ると、その足で路面鉄道を二路線乗り継いで道具屋街に行き、資料を参考にしながら理一郎の装備を調達した。
基本的に理一郎は魔法使いということになるので、本格的な武器はいらない。だが、採取や万が一のための近接装備として、中古の小さなナイフを買った。前の持ち主が何度も研いで愛用したのだろう。刃がややちびてはいるが、束は手になじんで使いやすい。
防具はローブやマントが基本装備だが、どれも大げさすぎて理一郎の好みではなかった。そこで魔道具屋に行き、着ていた白衣に防御効果と防汚効果を付与してもらった。かなりの金額が必要だったが、理一郎は満足だった。ブーツと手袋は新調した。
* * *
三日目はアリアに付き合ってもらい、魔法演習場で物理学魔法を検証した。
動く人工標的を訓練相手に選んだが、最初のうちはまったく魔法が発動しなかった。だが、アリアの二つのアドバイスがコツを掴むきっかけとなった。
一つは「魔法はイメージだから、あの的を理一郎くんの命を狙うグラスランナーだと思ってみて」というもの。
もう一つは「わたしたちは杖を振ったり、詠唱したり、魔法名を唱えたりして魔法発動のきっかけにするの」というもの。
理一郎は動きを止めたいと強く願うとともに、メガネのフレームを指で押し上げることを発動のルーティンとした。すると、何度か繰り返すうちに、それをきっかけに脳の情報処理能力が上がるようになった。
アスリートがピークパフォーマンスを発揮する状態を、「ゾーンに入る」と表現することがある。その状態に似ている。
だが、時間分解能は上がるものの、体が素早く動くわけではなかった。運動も試みたが、筋肉も腱も、そんな急激な動きに耐えられるようにはできていない。意識だけが先走り、体は常識的な速度でしか動かなかった。ただ、訓練の余地はあるように思えた。
ゾーンに入ると、状況解決に最適な方程式が視野に浮かび、改変したいパラメーターが明滅する。それを書き換えれば魔法が発動する。発動を確実にするため、グラスランナーの時に無意識に口走った言葉、「その理に、従え」と唱えることをトリガーとした。
そうして練習を重ねるうちに、やがてメガネのフレームに触れるだけでゾーンに入れるようになった。「特訓の成果だよ。やったね」と、アリアが褒めてくれた。
グラスランナー戦の時のように、疲れ果てて泥のようになってしまうこともなくなった。ただ、甘い物が無性に食べたくなるのは変わらなかった。
アリアにとって不思議だったのは、理一郎から魔力の気配がまったく感じられないことだった。
「普通の魔法使いなら、発動の瞬間に魔力の流れが見えるんだけど……」
「俺には魔力がないそうだ。代わりに脳がひどくグルコースを消費する」
アリアは首をかしげた。魔力なしに魔法を行使するなど、この世界の常識から外れたことだった。
理一郎は氷砂糖を噛み砕きながら考えた。
魔力がないのに魔法が使える。ならば、自分は何を使って世界に干渉しているのか。
――脳だろうか。
方程式を理解し、展開し、世界に当てはめる。そのプロセスそのもので、世界に干渉しているのかもしれない。
――理を操る力。いわば〝理力〟とでも呼ぶべきものか。
だが、今はまだ仮説にすぎない。まだまだこの能力に対する理解を深める必要があった。
* * *
四日目からはアリアが昼間は学校なので、彼女の教科書や賢者の蔵書で、この世界についての知識を吸収した。こちらの文字で書かれているが、すらすら読めるのが不思議だった。
初級科学の教科書によれば、天文地理学的に元の世界と違うのは、大陸の形と衛星の数ぐらいだった。惑星の大きさは地球と同じ、一日や一年の長さも同じ、星座の形も同じ、基本的な物理定数も単位系も変わっていなかった。実証されてはいなかったが、おそらくここでも光速度は秒速三十万キロだろう。
そのほかにも社会や経済、歴史など、こっちで暮らしていく上で困らない程度の一般常識は覚えた。魔法書の類いも読んでみたが、こちらはさっぱり理解できなかった。
* * *
先代大賢者が遺したこの屋敷は、歴史的文化財のような趣がある。庭はこぢんまりとしているが手入れが行き届き、暮らしてきた人々の品格すら感じさせた。理一郎の部屋の壁一面には本棚がしつらえられ、古い書物や巻物が幾重にも積み重なっている。夜、その背表紙を眺めていると、知識の迷宮に迷い込んだような心地がした。
本に囲まれたこの屋敷が、いつしか自分の居場所のように感じられてきた。
新しい生活への期待と不安が入り交じる中、アリアの存在は大きな支えになっていた。
一つ屋根で暮らす日々にも、少しずつ慣れていった。
アリアはとても勉強熱心だった。夜遅く調理場で、魔法書から目を離さず夜食をとるアリアに出くわすこともあった。
料理は手際が良く、家庭料理としてなかなかのレベルだったのも意外だった。
料理の手伝いや食事の時に交わす他愛のないやり取りは、心の澱を少しずつ濾し取っていった。
他人を信頼しきってしまうことにはまだ躊躇がある。
だが、アリアには安心を感じさせる何かがあった。
そして、教導クエスト。
理一郎は、久々に待ち遠しいという感覚を思い出した。
まだフラッシュアイデアでしかない〝理力〟という仮説。
――常闇の森で、その正体に近づけるかもしれない。




