宿場町キルケ
夜、夕食の時間。宿屋の食堂で、理一郎とアリアは向かい合って座っていた。
テーブルにはさまざまな料理が並んでいる。馬車の同乗者たちが、感謝の気持ちで差し入れてくれた皿も多い。
二人では食べきれそうにないので、近くに座っていたマリエルも誘ったが、「祈りを捧げながら静かに食べるのが勤めなのです」とやんわり断られた。
理一郎にとっては、これが異世界で初めての食事になる。元の世界では、長年ろくな食事をとってこなかった。インスタント食品やコンビニ弁当を常食してきた理一郎は、人工的な味にすっかり慣れてしまっている。
だが、肉体年齢が若返ったためだろうか、舌は繊細な味覚を取り戻していた。
異世界の料理が口に合うかも心配だったが、味や風味はまったく問題ない。
香ばしい匂いの串焼き肉、色とりどりの野菜が入ったスープ、見たこともない果物のコンポート。味付けはシンプルだが、スパイスがうまく使われていて、どれも食欲をそそった。アリアが勧めてくれたウサギ肉のパイは確かに美味しかった。
腹が落ち着いてきた頃には、ほとんどの皿が空になっていた。
「たくさん食べたね」
「自分でも驚いている」
――それにしても、誰かと一緒に食べるのはいつ以来だろう……。
そんな感慨に浸っていると、アリアが話題を変えた。
「そういえば、わたしたちって、まだちゃんと自己紹介してなかったね」
アリアは座り直して姿勢を正す。
「いまさらだけど改めまして、わたしの名前はアリア・アルタイルです。王立アカデミアの魔法院高等課程に通う十六歳です。魔法研究科で魔法の研究をしています――」
そこまで話して、アリアは吹き出した。
「これじゃ、異国語の教科書みたい。普通に話すね。前にも言ったけど、失われた古代魔法に興味があって、そのためには古い本も読まなきゃいけないから、古代語も勉強してるんだ」
「君は魔物に関する知識が豊富なのだな。今回の撃退は、君が弱点を的確に提示した結果だと評価できる」
「また、先生みたいな話し方」アリアが吹き出した。「自然から学ぶことは多いって、おじいちゃんがいつも言ってたから、博物学も勉強してるんだ」
「良い教えだ」
「うん。おじいちゃんはね、先代の大賢者だったんだよ。もう亡くなっちゃったけど」
「大賢者?」
「うん。王国で一番優れた魔法使いに与えられる称号で、当代に一人しかいないの。千年前に世界を救ったオスタネスっていう魔法使いの偉業を讃えて作られたんだって」
「ほう」
「アルタイルの家は、古くから続く魔法使いの家系なんだ。お父さんも魔法の研究者なんだけど、三年前に古代遺跡の調査に出かけたまま行方不明になっちゃったの。わたしが古代魔法を研究しているのも、お父さんを探す手がかりになるかもしれないからなんだ」
「父親が三年も行方不明とは大変だな。暮らしに支障はないのか?」
「お母さんが魔道具士で、王都で商会を経営している。だからお金に困ることはない。でも、わたしは学都のおじいちゃんの家に一人暮らしだから、ちょっと寂しい」
なんの屈託もなさそうに見えるアリアだが、楽しいばかりの日々ではなかったようだ。
「次は理一郎くんの番」とアリアがことさら明るく促した。
理一郎は少し考え込んでしまった。これまでのアリアの言葉には、嘘偽りの一片もないように感じる。
――ならば信じてみるか。
自分が異世界人だと明かさないまま彼女と接するのは、フェアではないと思った。
「俺は物部理一郎。物部が名字だ。俺の故郷では、名字が先に来る」
「遠い異国なんだよね。どこにあるの?」
「実は……俺には秘密がある。君には話しておきたいが、他の人には知られたくない」
小声で話すため、テーブルに身を乗り出した。アリアも顔を近づける。近寄るとアリアからいい匂いがした。精神年齢も若返ったせいか、甘酸っぱい気持ちが胸にこみ上げてくる。
「俺の故郷は、この世界には存在しない。俺は……別の世界から来たんだ」
アリアが目を丸くする。
理一郎は、大学のキャンパスを歩いていた時に光に包まれ、気がついたらバルタ街道にいた経緯を説明した。ただ、十七歳であることに心がなじみはじめているせいか、実年齢が四十過ぎだと打ち明けることは、思いつきもしなかった。
「初めて聞く話だよ、異世界転移なんて。でも、理一郎くんが別の世界から来た人だとすると、いろいろ納得できることがあるな。特にあの不思議な魔法、あれは魔力じゃなくてなにか別の力によるものよね」
アリアの目が輝いてきた。魔法研究者としてのスイッチが入ったようだ。
「だって理一郎くんには魔力がないもん。ねえ、あの魔法について、もっと詳しく教えてくれない?」
「今言えることは、あの瞬間、脳の情報処理速度が通常の数十倍にまで加速した。結果として時間分解能が異常に高まり、周囲の動作すべてが極端に遅くなったように見えた」
理一郎の説明を、アリアはきょとんとした顔で聞いている。
「その引き延ばされた主観的時間の中で、魔物の挙動が運動方程式として明示的に可視化された」
アリアは目をつぶり、首をかしげて人差し指を額に当てた。
「奇妙なことに、その方程式のパラメーターに干渉することができた。速度をゼロに書き換えると運動が静止し、さらに加速度をゼロにすることで、新たな運動を封じ込めた」
「パラメーター?」
「こっちの世界にはない言葉なのか? 数式の中に現れる値のことだ」
「数学はあまり得意じゃないんだ」
アリアは目を閉じたまま、あきらめ顔を天井に向ける。どうやら理解することを放棄したようだ。
「おそらく対象の状態を記述する方程式のパラメーターを変更することで、対象の状態を改変できるのだろう。通常状態に戻ると、意識が薄れ、甘い物が欲しくてたまらなくなった。脳が極度の燃料不足になっていたようだ」
理一郎の言葉がそこで終わったのを見て、アリアが肩をすくめた。
「理一郎くんが言ってること、一つもわからない。でも、物理学の知識を利用する魔法だから。〝物理学魔法〟なのね」
「その解釈には同意だ。ただ、魔力を介さない点において、厳密に魔法と定義できるか否かは検討の余地があるだろう」
「面白い! どの系統にも属さない、正体不明の魔法のような現象。ちょっと古代魔法に似てるかも。研究してみたい!」
「俺自身もだ。ほかになにが可能か実験したい。君たちが使っている魔法も研究したい。例えば君の結界魔法だ。あの障壁を構成しているのは物質なのか力場なのか」
「どっちかは知らない。とにかくすべてを拒絶する壁を展開するの。あの時は人間ならではの波動を発する対象だけを通す構成にしたんだ」
「波動?」
「人間も含めて生物は、みんな体から微弱だけど特有の信号を出してるんだよ。だから選別できるの。けっこう高度な魔法なんだよ」
理一郎は考える。オーラとは生体光子、あるいは生体由来の微弱な電磁的信号に類するものだろうか。だが、そんな微弱な信号をどうやって観測しフィルタリングしているのか。そもそも一体この世界のどんな理が、魔法と呼ばれる不可思議な現象を可能にしているのか――。
「研究すべきテーマだ……」
つい口からこぼれでた独り言だったが、アリアは聴き取った。
「だったら、絶対アカデミアに来るべきよ」
「ああ。だが、現状最大の課題は、学都でどう生計を立てるかだ」
「理一郎くんは魔法が使えるから、冒険者になって依頼をこなすのが、一番てっとり早くてたくさんもらえるんじゃないかな。研究の時間もとれると思うよ」
――冒険者か。
物理学魔法でできることは未知数だが、きっと戦う力になるだろう。この世界ならではの職業だから、元の世界とのさまざまな違いを直接観察する機会も多いはずだ。
「冒険者という立場は悪くない選択に思える」
「でしょ? 学都に着いたら、冒険者組合に登録しないとだね」
稼ぎについてはなんとか道筋が見えた。となれば、次は住居だ。
「学都には安アパートや下宿も多いのだろうか?」
「そうね。学生専用のアパートや下宿もあって、そういう所だとかなり安いけど、理一郎くんは学生じゃないしなぁ……。今回の討伐報酬がもらえるとはいえ、問題はお金よね……」
「討伐報酬?」
「ああ、理一郎くんはグラスランナー退治を手伝ったでしょ。そうした場合は、組合から報奨金が出るの。護衛隊の長が――今回なら黒魔女さんね――貢献度を判断して、それに応じた金額がもらえるよ」
冒険者資格を持つ護衛パーティーと少女三人組は、御者も交えて別室で報奨金をどう分配するか協議しているらしい。
「それは助かる」
「グラスランナーは脅威度等級四の魔獣なんだけど、あの特殊個体は三相当だから、報奨金も上がると思う。でも、ずっと暮らしていけるほどじゃないんだよね……。それに理一郎くんって、後ろ盾になってくれる人はいないんだよね……」
アリアは下を向いて少し考え込む。
やがて決意を固め、理一郎の顔をまっすぐに見た。
「……あのね、理一郎くんがよかったらの話だけどね、行く当てがないなら、わたしの所に来てくれない?」
「え?」
「下宿してくれないかなってこと。おじいちゃんの家、わたし一人だと広すぎて。間借りしてくれる人を探そうと思ってたところなんだ」
「それはありがたい提案だ。だが、俺は男性だ。社会的・倫理的に問題はないのか?」
「大丈夫。わたしは防護魔法が得意だって言ったでしょ。それに理一郎くんは、変なことする気なんてないでしょ?」
「もちろんだ」
「なら問題ないわ」
「であれば、ありがたく受けさせていただこう」
「よかった! 家賃は、生計が立つまで保留にしておいてあげるね」
「それは受け入れられない。手持ちはあるし、報奨金も入るのだろう。払わせてほしい。そうでないと、気持ちの据わりが悪い」
「わかった。じゃあ、家賃はこれでどう?」
アリアが提示した金額は、元の世界の格安アパート程度だった。たぶん相場よりかなり安いのだろう。
「俺は助かるが、アリアはそれでいいのか?」
「余ってる部屋を貸すんだから十分だよ」
アリアはさらさらとペンを走らせ、賃貸契約書をその場で作った。偽造や改ざんの不可能な魔法紙で、互いのサインがあれば正式な契約書として認められる。二人のサインが一瞬光り、契約が成立した。
「これでわたしが大家さんね。それと、落ち着いたら、わたしの指導教官を紹介しようか? おじいちゃんとも仲が良かった人で、ものすごく物知りなの」
以前の自分なら、見知らぬ他人と積極的に関わる気持ちにはならなかった。だが、その態度は改めねばならないのだろう。研究を失ってしまったのは、つまるところ人とのコミュニケーションを疎んだ結果だ。
「ぜひお願いしたい」
「理一郎くんに会ったら、先生どんな顔をするかな。あんまり感情を表さない人だから、楽しみ」
理一郎がふと視線を感じて目を向けると、マリエルがあわてて目を伏せた。
* * *
テーブルの上の料理が片付けられた頃、討伐報酬の協議を終えた魔法少女三人組と護衛パーティーが食堂に入ってきた。
「こんばんは!」
水色髪の少女が明るく挨拶する。
「私は、リヴィア。十六歳。王立アカデミア魔法院の魔女科よ。水属性魔法が得意なの」
紅髪の少女はリヴィアの後から、顔だけのぞかせて小声で言う。
「ア、アーシャです。リヴィアと同じで魔女科、十六歳。火属性魔法を使います」
黒紫髪の少女は、誰にも気づかれずにいつの間にか理一郎の隣にしれっと座っていた。
「ミラ、魔女科、十五歳、闇魔法使い」
ミラは無表情に自己紹介しながら、少しずつ理一郎のほうににじり寄る。
「闇魔法か……あれは不可思議な現象だった。魔物を消失させたあの影、あれは一体、何で構成されている? そして、あの消滅効果の原理は? 物質消去に至る機構がまったく想像できない」
「知りたい?」と言いながらさらに近づき、理一郎の耳元に「教えてあげてもいい」とささやく。
リヴィアがあわててミラを引き離した。
「あなた、いい加減にしなさい! ずるいじゃない! あ、違うんだよ、そういうんじゃなくて――」
三人とも自分に興味を持っていることは理一郎にもわかった。だが女子から好意的に話し掛けられた経験のない理一郎には、どう対応すればいいのかわからない。そして、笑顔だが目がまったく笑っていないアリアも気になった。
「とにかく、またねっ! 機会があったら一緒に依頼を受けよう!」
リヴィアは顔を真っ赤にして言い残すと、ミラを連れて別のテーブルに向かった。アーシャがあわてて二人の後を追う。
入れ替わるように護衛の冒険者たちがやってきた。戦士、武闘家、狩人は、それぞれねぎらいや賞賛の言葉をかけていった。
彼らのリーダーの黒魔女は、三十代前半で少し化粧が濃い。漆黒のロングドレスの深いスリットから、白い脚をなまめかしくのぞかせて、理一郎の横で立ち止まった。さらに大きく開いた胸元が見えるよう前かがみになり、鼻にかかった声で礼を言った。
「本当に助かったわ。ねえ、一緒に組まないこと? うちの一員になってくれれば、うんと可愛がってあげるわよ?」
白く細い指が、理一郎の肩に軽く触れた。
「誘いはありがたいが、まだ冒険者登録もしていない」
「青田買いしたいところだけど、そちらのお嬢さんが怖い顔で睨んでいるから、今はやめておくわね」
黒魔女は去り際にアリアにウインクした。
「モテモテだね、理一郎くん」
棘のある口調でアリアが言う。
「そう解釈すべきなのか? からかわれているとしか思えなかったが」
「あの魔女さん、いじわる! わたしは好きじゃない」
そんなやり取りをしているうちに、大きなあくびが出た。
疲れているし、腹もいっぱいだ。
今夜はぐっすり寝られそうな気がした。
* * *
翌朝、理一郎はずいぶん久しぶりに、すっきりした朝を迎えた。
夕べの食事のおかげか、全身に活力が満ちているのを感じる。
若返ったおかげで歯痛も腰痛もない。
視界もシャープだったが、メガネがないとなんだか落ち着かないので、〝伊達メガネ〟としてかけることにした。
朝食をとった後、アリアと駅馬車に乗り込んだ。
「日が暮れる前には着くよ」
アリアの声がはずんでいる。
窓の外には、雲一つない青空が広がっている。
馬車は学都ミレトス――この異世界で、理一郎が世界の理を再び追い求める場所――に向けて走り出した。
人類が積み上げてきた物理学のすべてを〝魔法〟に書き換える――そんな能力を得た物理学者の新たな探究の日々が、始まろうとしていた。




