物理学魔法
見張り役の狩人は、まだ十三歳の少年だった。
彼は屋上デッキから一面に広がる草原に目を凝らしていた。
この辺りの草は背が高く、魔物が潜むにはもってこいだ。宿場町の近くだから危険な魔物は定期的に掃討されているはずだが、油断はできない。特に今日は行き倒れを一人見落としてしまった。失策と言われても仕方ない。もう見逃しは許されない。
ふと、草の海に生じた不自然なゆらぎが気になった。
ゆらぎはみるみるうちに草原の奥から街道へと近づいてくる。
「なんだ?」
そうつぶやいた瞬間、草むらから流線型の影が次々に街道に飛び出してきた。
「グラスランナーだ!」
狩人が大声で叫ぶ。
瞬く間に、十数匹の魔物が馬車を取り囲んだ。
大型犬よりも一回り大きい。流線型の体は暗緑色の鱗に覆われ、黄色く鋭い目が不気味に光っている。獲物に確実な死をもたらすための長く鋭い牙と爪が、見るからに凶悪だった。
「顔を出しちゃだめ! 危ないから!」
様子を見るために窓を開けようとした理一郎が、アリアに制止される。
馬車の中は意外にもパニックにはなっていない。
「都市間の移動ではたまにあることだから。この規模の駅馬車は頑丈だし、窓ガラスも強化されているし、中にいればまず安心」
アリアはそう言うが、窓の外には恐ろしい光景が広がっていた。十数頭のグラスランナーが、馬車の周りを走っている。
「たぶん馬を狙ってる」
「なるほど、食料としては人間より価値がある」
「それだけじゃない。馬がいなければ、わたしたちは逃げ切れない。それがわかるだけの知能も持ってるの」
同じように窓から魔物の様子を見ていた水色髪の少女が、すっと立ち上がった。
「上から叩くわよ!」
「え? グラスランナーなんて、ムリムリムリムリムリ……」
紅髪の少女が弱々しく抵抗するも、水色髪の少女に引きずられるように、最後尾にある屋上デッキへの螺旋階段に向かっていく。理一郎の横を通り過ぎざま、水色髪の少女がウインクしていった。黒紫髪の少女が無言で通り過ぎると、マリエルも立ち上がって三人の後に続いた。
「あの子たちは四級冒険者でもあるの。巡回修道女もそうだけど、緊急時に防衛や救護が義務づけられてる」とアリア。
「君は?」
「私は五級だから義務はないけど……」
普通の生活のすぐ隣に、命の危険が当たり前にある。そんな世界なのだと、理一郎は改めて思った。
* * *
護衛の冒険者パーティーは奮戦していた。
屋上デッキで指揮役を務めているのは、漆黒のロングドレスをまとう魔女だった。
彼女は護衛パーティーのリーダーとして、馬を急がせても逃げ切れないと判断し、馬車を止めて応戦することを選んだ。
戦士を右に、武闘家を左に配し、狩人に正面を射させ、自らは風魔法で群れの動きを乱す。
グラスランナーなら、それで十分なはずだった。
だが、今回は様子が違う。まるで操られているかのように統制が取れ、一つの生き物のように連携して攻めてくる。固い鱗に阻まれ、戦士の剣も武闘家の打撃も、なかなか決定打にならない。
そこに魔法少女たちが駆けつけた。
「さぁ、かかっておいで! 水よ、裂け!」
水色髪の少女が手刀を切ると、空中から氷の刃が現れ、魔獣を切り裂いた。癒やし系のイメージとは真逆の、攻撃的な水魔法だ。
紅髪の少女は「ムリムリムリムリ……」と震えていたが、いざ戦いが始まるとその攻撃力は凄まじかった。
「いやーっ! 炎よ、灼き尽くして!」
腕を振り下ろすと、炎が渦を巻いて突進し、グラスランナーを次々と包む。
黒紫髪の少女は、静かに「影よ……呑み込め」と唱えた。草原に黒い霧が立ち込め、そこから現れた影に触れた魔獣が、闇に吸い込まれるように消滅していった。
「あなた!」
黒魔女が水色髪の少女に呼びかける。
「攻撃を任せてもいいかしら?」
「いいよ!」
少女が答えるのを聞いて、黒魔女は支援魔法を自分のパーティーにかけた。
戦士の剣も武闘家の拳も、ようやく魔物に通るようになった。だが、グラスランナーは無限に湧き出るかのように草原から飛び出してくる。やがて一頭が戦士の馬の喉笛を裂き、倒れた戦士が腕を負傷した。
その時、巡回修道女のマリエルが、屋上デッキで祈りを捧げた。
「女神様、どうかご慈悲を! かの者を癒やしたまえ!」
黒い修道服が金色の光に包まれ、その光が戦士に放たれる。すると、腕の傷が見る間に塞がっていった。
「遠隔治癒だ! すごいよ、マリエルさん! 治癒の上級魔法なんだよ!」
アリアが感嘆の声を上げた。
理一郎は、さっきからただただ窓にへばりついて、状況を食い入るように観察していた。
――これが魔法!?
あり得ない現象が、今、眼前で起きている。
「理解も解釈もできない。だが、実に興味深い謎だ……」
「でも、魔力は無限じゃないの。マリエルさんやみんなの魔力が、どこまで持つかな……」
アリアはじっと考え込む。
「一番の問題は、魔物の素早さよね。あんなに急に方向を変えられるのは、長いかぎ爪で地面をしっかり捕らえているから……。あ、そうか!」
アリアが何か思いついて立ち上がった。
「ここにいてね。出ちゃだめだよ」と言い残し、屋上デッキに向かっていった。
だが理一郎は、外の様子を観察するのに夢中で、アリアの言葉を聞いていなかった。もっと間近で観察したくて、客室から御者席に向かう。
* * *
「聞いて! 魔物の動きを鈍らせる方法があるの!」
アリアは屋上デッキにいるみんなに告げた。
「グラスランナーは湿った地形が苦手なの。わたしが馬車の回りに対魔物の物理結界を張るから、地面にぬかるみをつくれる?」
「もちろんよ、任せなさい!」と水色髪の少女。
「魔女さん、人間だけを通す結界を張るよ」
戦士と武闘家はいざとなれば結界の中に避難できる。魔女と狩人は攻撃に集中できるようになる。
「じゃ、いくよ!」
アリアが両の手のひらを広げて前に突き出した。
「わたしは、拒む!」
アリアの結界が馬車の回りに広がった。
続いて水色髪の少女が手のひらを上に向けて両腕を広げる。
「水よ、地を覆え!」
馬車の周囲の地面から水が湧き出し、瞬く間に一帯が水浸しになった。
効果は絶大だった。
魔獣たちはぬかるみに足を取られ、驚異的な機動力を失った。
全員の奮戦で、さすがのグラスランナーも徐々に数が減っていく。
* * *
客室の外に出ると、辺りは異様な臭いに満ちていた。グラスランナーの臭いだ。
「兄ちゃんも戦えるのか?」
手綱を握ったままの御者に尋ねられたが、理一郎はただ首を横に振り、御者席から飛び降りて結界の境界に近づいた。
結界の外に出て境界に小石を投げてみる。小石は境界面に光の粒子を弾けさせ、固い壁にぶつかったように跳ね返された。角度を変えて何度も繰り返すうちに、小石は境界面に当たる寸前で跳ね返されていることがわかった。
――何らかの斥力が働いている。
少なくとも、石や魔物の体には作用している。未知の相互作用場と考えるべきだろうか。
魔女や少女たちの放つ魔法も食い入るように観察した。
風の刃、紅蓮の火焔、氷の槍、影の消滅……。どれ一つとして、元の世界の物理学では説明できない。
――この世界の理は、元の世界とは違うのか?
理一郎は物理学者としての自分の足元が揺らぐような感覚に陥った。
同時に、この世界の不思議な理を追究することに、強く惹かれた。
* * *
グラスランナーが残り二匹ほどになり、討伐も時間の問題と思われた時――。
突如、巨大な影が草原から街道に飛び出してきた。
「気をつけて! 新手だ! でかい!」狩人の少年が叫ぶ。
成獣のヒグマぐらいだろうか。他の個体よりも、ひときわ大きい。群れを率いる特殊個体だった。
特殊個体は、生き残った通常個体を邪魔だと言わんばかりに爪で弾き飛ばすと、一声吠え、湿った地形の不利をものともせず、巨体に似合わぬ俊敏さで左右に跳躍しながら向かってきた。
少女たちの魔法も、強靭な鱗に阻まれて効果がない。正面に躍り出た戦士は剣を弾かれ腕を折られ、武闘家は鋭い爪で脚を裂かれた。
二人を弾き飛ばすと、特殊個体は一直線に馬車に向かってきた。
マリエルの遠隔治癒で回復した戦士と武闘家が後を追う。
狩人が矢を放つが、すべて撥ねられた。
アリアが黒魔女に伝える。
「特殊個体だろうけど弱点は同じはず。喉とお腹には鱗がないの。そこを狙えば――」
「なら、ひっくり返してみましょうか」
黒魔女が特殊個体の足元につむじ風を巻き起こす。だが、巨躯を持ち上げるには魔力が足りなかった。
* * *
理一郎は結界の観察に夢中で、特殊個体の出現にまったく気づいていなかった。
だが、巨大な魔物はすぐそこにまで迫っていた。
「理一郎くん! 危ない!」
アリアにそう叫ばれて、間一髪、結界の中になんとか転がり込む。
同時に特殊個体が目の前で結界に激突し、まぶしいほど境界面を煌めかせ、跳ね返された。だが魔物はダメージを感じていないようだ。後に下がって助走距離を取ると、また突進してくる。それを何度も繰り返した。
「理一郎くん! 逃げて! 結界が保ちそうもないの!」
結界を維持するためには魔力を消費し続けなければならない。加えられた衝撃の大きさに応じて結界は損耗し、修復にも追加の魔力を必要とする。
アリアは必死に結界の強度を維持しようと頑張るが、もう魔力が尽きかけていた。
「もうだめ! 次の一撃で破られちゃう!」
アリアが叫ぶ。
「逃げて!」
だが、理一郎は動けない。情けないことに腰が抜けてしまったのだ。
特殊個体がぐんぐん迫ってくる。
このままでは、あの禍々しいかぎ爪で引き裂かれるか、凶悪な牙に噛みちぎられるか、どちらにしてもデッドエンドだ。
特殊個体は、結界を破るための最後の一撃を加えようと、数メートル手前で跳躍した。
まさに絶体絶命――。
――止まれ! 止まってくれ!
心の底から強く願ったその時、理一郎の中で何かが目覚めた。
まるでスイッチが入ったかのように、突然、脳の処理速度が急上昇した。
凄まじい速さで情報が処理され、時間分解能が飛躍的に高まる。
宙を跳ぶ特殊個体がスローモーションのように見える。
さらに、その放物運動を構成する要素――初速度、角度、質量などのすべてを、数値として把握できた。
理一郎は状況を冷静に分析する。
――魔物は放物運動の頂点付近にいる。ということは、垂直方向の速度はほぼゼロ。空気抵抗を無視すれば、水平方向は等速直線運動と見なせる。
すると、そこに一つの数式がオーバーラップした。
x(t)=x₀+vt
等速直線運動の式だ。
式においてx(t)は時刻tにおける位置、x0は初期位置、vは速度、vtは時刻tまでに進む距離を表す。視界の中では、vが明滅していた。
――そのパラメーターを操作できる!
まったく非科学的かつ非論理的なことだが、理一郎はそう直観した。
躊躇している時間はない。理一郎は頭の中でvの値をゼロに書き換える。
ほぼ同時に、無意識に言葉がこぼれた。
「その理に、従え!」
次の瞬間、現実が書き換わった。
驚くべきことに、特殊個体はジャンプした姿勢のまま宙に静止したのだ。
特殊個体は突然の急停止の衝撃で全身にダメージを受け、悲鳴のような咆哮を上げつつ、その場で落下する。
――動きを封じなければ!
そう考えると、今度は別の方程式が視野に浮かんだ。
F=ma
ニュートンの第二法則、物体に働く合計の力Fは質量mと加速度aの積に等しいことを表す、古典力学の基礎方程式だ。
今度は加速度aが明滅している。これをゼロにすれば、新たな加速を封じられる。すでにゼロに書き換えた速度と組み合わせれば、静止状態を固定できるはずだ。
理一郎はパラメーターを書き換え、再び叫んだ。
「その理に、従え!」
すると特殊固体は完全に動けなくなった。もがくが、脚や顔は動くものの、前にも後にも進めない。
周囲から驚愕の声が上がった。
これをチャンスと見た魔女が武闘家に指示を飛ばし、攻撃力アップのバフをかけた。
「今よ! なんとかして転がしなさい!」
「おうよ!」
武闘家が、特殊個体の胴体に強力な跳び蹴りを入れた。
魔物は水しぶきを上げて横倒しになる。
喉も腹もむき出しになった。
「とどめを!」と魔女が戦士にも攻撃力アップのバフをかけた。
戦士は特殊個体の喉元に剣を突き立てると、一気に切り裂く。
「どいて!」
水色髪の少女が戦士を下がらせ、数本の氷の槍を腹部に深々と突き刺した。
特殊個体は断末魔の咆哮を上げると四肢を激しく痙攣させ、それきり動かなくなった。
* * *
まだ尻もちをついている理一郎のもとに、みんなが集まってきた。
真っ先に駆け寄ってきたのはアリアだった。怖いぐらい真剣な顔をしている。
すでに脳の情報処理速度は元に戻っている。だが、体に力が入らない。頭も、三日間の徹夜明けの時のように、まったく回らない。脳が極限まで稼働したため、体内のグルコースが急激に消費され、いわゆる〝ハンガーノック〟に近い状態になっていたのだ。
「大丈夫? 頭を打ったりしたの?」
アリアの問いかけも聞こえていない。
水色髪の少女が理一郎の肩を両手で揺すりながら訊く。
「キミ、すごいじゃない! 一体なにしたの?」
体を揺すられて、意識レベルが少し上がった。
ふいに頭の中に一つの言葉が浮かんだ。
「……物理学魔法」
「聞いたことのない系統ね。どんな魔法なの?」
「方程式が浮かんで、パラメーターを操作したら、現象を改変できた――」
頭に浮かんだことをそのまま口走った。自分でもまったく理解できないことだった。
アリアは水色髪少女を押しのけると、座り込んだままの理一郎の手を取って立ち上がらせた。
「けがはなさそうだけど……。マリエルさん、念のため診てもらえない?」
マリエルはうなずくと、右手を広げて理一郎に向け、身体の状態を走査する。
「大丈夫です。どこも問題ありません。でもだいぶお疲れのようです」
ようやくアリアが緊張を解いた。改めて理一郎の目を捉えると、ふぅっと息を吐く。それから大きく息を吸い込んで、一気にまくし立てた。
「だめじゃない、馬車の外に出るなんて! むちゃにもほどがあるよ! なにかあったらどうするつもりなの!」
あまりの剣幕に、ただ「悪かった」と謝るしかなかった。
「もう、びっくりしちゃったんだからね。ほんとに無事でよかった……」
感情を爆発させて気が抜けたのか、今度はアリアの膝が抜けそうになる。マリエルがアリアを支えた。
「まあまあお嬢ちゃん、そんなに怒りなさんな」とスキンヘッドの武闘家。「結果的に、兄ちゃんのおかげで、あのでかいのを倒せたんだ」
「お兄さんの魔法もすごかったけど――」
黒魔女がロングドレスの裾を軽く払うようにして言う。
「お嬢さんの作戦も良かったわよ。ボスが出てこなければ、あれで終わってたはずだわ」
理一郎は武闘家に肩を貸してもらい、席に戻った。
座ると、さっきの現象をぼんやり反芻する。
――あれは本当にあったことなのだろうか。
試しに今周りを見回しても、方程式は浮かんでこない。一体どんな条件で発動するのか。どんな理があれを可能にしているのか。この世界で新たに目覚めた力に驚きつつも、この異世界の理をもっと知りたいと思った。
同時に、無性に甘い物が欲しくなった。
「糖分を摂りたい。なにか持ってないか?」
隣に座ったアリアに尋ねると、小さな氷砂糖を渡された。
噛み砕くと、脳を痺れさせるような甘さが口の中に広がっていく。
目をつぶると、まぶたの裏にさっき視えた数式の残像がよみがえる。
あの光る文字は、何だったのか。どんな条件で、何が引き金で現れるのか――。
わからない。だが、ひとつだけ確かなことがある。
あれは、この世界の理そのものに触れる力だ。
その確信を抱いて、理一郎は深い眠りに落ちていった。




