バルタ定期便と少女アリア
神殿から馬車でほぼ半日、ちょうど日が暮れかける頃。
学都ミレトスに続くバルタ街道の途中で、理一郎は降ろされた。まだ睡眠魔法が解けず、眠ったままだ。
年老いた修道士が、街道脇の大きな木に理一郎を寄りかからせる。
「さすがに気の毒じゃからな」
老修道士は理一郎の周りに、獣除けの結界陣を描いた。
「これで、一晩は安全じゃろう」
翌朝には替わりの監視役が来る。それまでは生きててもらわないと寝覚めが悪くなりそうだった。
「アストレリア様のご加護があらんことを」
そうつぶやいて結界を完成させると、来た道を戻っていった。
すぐに夜が降りてきた。
* * *
翌朝、理一郎は顔に差し込む朝日のまぶしさで目が覚めた。
目は開いたものの、まだ頭がぼんやりとしている。いつ眠りに落ちたのか、どれほど時間が経っているのか、まるで分からなかった。
覚えているのは……助教職を解雇されてキャンパスを歩いていたら、突然光に包まれたことだけ。気がついたら、十七歳の体でここに座っていた。神殿での儀式については、すっぽりと記憶から抜け落ちている。
異世界に来てしまったこと、肉体が若返ったことは、なぜか自然に受け入れていた。
しかし、助教職を解雇されたという記憶には実感が伴わない。
神殿で施された記憶操作の影響だった。
肉体年齢ばかりか、精神年齢まで十七歳に巻き戻ってしまったのだ。
十七歳以降の記憶――今の理一郎にとっては〝未来〟の記憶――は、どこか他人事のように感じられた。
ただ、研究の内容は鮮明に覚えている。物理学の知識は失われていない。
今の理一郎は、四十二歳までの知識と経験と記憶を持った十七歳の少年だった。
――そうだ! 俺は世界理論を完成させなければならない。そのために……学都とやらに行くのだったか……。
傍らには古びた革の肩掛け鞄が置いてあった。
見慣れぬ鞄だが、自分のだという気がする。
中を探ると、研究ノートとノートパソコン、スマホ、それに古びた地図と、この国の身分証らしき物、あまり重くない銭袋、革製の水入れが見つかった。
地図には現在地と目的地である学都ミレトスに印が付けられていた。この街道を東に進めば良いらしい。
とりあえず東に向かってみることにする。
立ち上がって、水を一口含んだ。獣の臭いがした。
* * *
バルタ街道は王国の主要街道の一つだ。
土の道だが、よく整備されていて歩きにくいということはなかった。最初のうちは二十キロ以上も軽くなった肉体のおかげで、どんどん進めそうな気がした。
だが、理一郎の体力は、想像を絶するほどに脆弱だった。
子供の頃から運動とは無縁の生活。いくら細胞が十七歳に若返ろうと、その十七歳当時であってさえ、長距離を歩き通せるような体ではなかった。まして、履いているのは歩行に適さないサンダルだ。足はすぐにマメが潰れて血が滲み、ふくらはぎの筋肉は限界に耐えかねて無様に痙攣を始めた。
やがて革袋の水が尽きると、事態は急速に悪化していく。
容赦なく照りつける異世界の太陽。体温調節機能が破綻し、極度の低血糖による飢餓感が脳の思考を強制的にシャットダウンさせようとしてくる。
(……くそ、脱水症状とハンガーノックの併発か……)
自らの肉体に起きている現象を論理的に分析できても、限界は止められない。
ぐにゃりと視界が歪む。
理一郎はついに足をもつれさせ、街道脇の背の高い草むらの中へ、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。土の匂いを感じたのを最後に、彼の意識は急速に暗闇へと沈んでいった。
イグナティウス大司教の監視者がどこかで見ていたはずだが、何の動きもなかった。
* * *
今度の理一郎は、体をガタゴト揺さぶる不規則な振動で目を覚ました。
駅馬車の中だった。
二人掛けの木製ベンチシートに仰向けになっている。体の下には柔らかい布が敷かれていた。
気分はすっかり良くなっていた。むしろ、爽快といってもいい目覚めだった。
「気がついた?」
理一郎の視界に、少女の顔が飛び込んできた。
今の理一郎と同じ年頃で、目が大きくて可愛らしい。
その瞳の色は、サファイアとアメジストと琥珀が混在していて、見る角度によってだろうか微妙に変化する。何色とも言えない不思議な色が印象的だった。
ショートカットの明るい栗毛が、柔らかくふわふわと揺れている。それが、活発な印象と優しそうな雰囲気を感じさせた。
少女の顔が近すぎて、異性に対する感受性も十七歳に戻っているせいか、胸が妙に騒ぐ。
顔が真っ赤になった。
「あ、ああ……」
照れ隠しに顔をこすりながら、身を起こす。
駅馬車の客室は、小型の乗り合いバスのようだった。座席は進行方向に向かって配置されたベンチシートで、移動中は他の乗客と顔を見合わせることはない。
都市間輸送を担う駅馬車としては大型の部類に入るが、それでも客室は狭い。通路を挟んで左右に二人掛けの席が配置され、それが六列ある。乗客定員二十四人の馬車は、ほぼ満席だった。
少女が隣に座ってきた。
「わたしは、アリア・アルタイル。王立アカデミアの学生なの。アリアでいいよ。君を見つけたの」
アリアは、元の世界の女子高生のような制服を着ている。違っているのはケープを羽織っていること、ショートブーツを履いていることぐらいだろうか。
「見つけた……?」
「君、名前は?」
「物部理一郎。物部が姓、理一郎が名だ」
「へえ、わたしたちと逆なんだね。それに、珍しい名前。異国の人かな?」
理一郎は軽くうなずいた。嘘ではない。
「やっぱそうか。服もちょっと変わってるもんね。でね、君――えっと、理一郎くんって呼んでいい?」
女子から名前呼びされるのは照れくさかった。だが、それがこの世界の当たり前なのかもしれないと考え、うなずいた。
「草むらの中で倒れてた理一郎くんを、わたしが見つけたの。草が邪魔で誰も見つけられなかったんだよ。この馬車の護衛の狩人にも見つけられなかったんだからね」
アリアはちょっと得意そうだ。
「危ないところだったんだよ」
彼女がたまたま屋上デッキで風を浴びていた時、不自然に折れている草むらに気づいたのがきっかけだったと言う。
「理解した。感謝する」
理一郎の話し方がぎこちない。もともと他人と話すのは苦手だし、ましてや同年代の女子と面と向かって話した経験など、少なくとも十七の頃にはほとんどなかったからだ。
「全然動かないから怖かったけど、近づいてみたら息をしてたので安心したんだ。たぶん日射病ね。すごく熱があったの。巡回修道女のマリエルさんが、治癒魔法で治してくれたのよ」
アリアが指さした先、通路を挟んだ隣の座席に、真っ黒な修道服姿の少女が座っていた。
少しふくよかで、胸の膨らみが目立つが、太っているというほどではない。フードで顔が隠れているせいもあり、理一郎の視線はどうしても胸元に吸い寄せられてしまう。そこから視線をそらしながら、礼を言った。
「ありがとう、助かった」
マリエルは目を合わせず小さくうなずくだけだった。あまり話をしたくない様子だ。
その時、突然、がらがら声で話し掛けられた。
「お嬢ちゃんに見つけてもらって良かったな!」
スキンヘッドでひげ面の武闘家が、にやりと笑いながら書類をひらひらさせていた。上半身は裸だ。護衛の一人で、御者から書類を届けるように頼まれたという。
「兄ちゃん、拾われたのがバルタ街道で良かったぞ。街道法の指定街道だからな。行き倒れの保護に公費が下りるんだ」
「そうなのか……」
「王都と学都を結ぶ大動脈だからな。安全に往来できるよう管理されてるのさ。だが、裏を返せば、他の道はそうもいかんてことよ」
武闘家は書類を差し出した。
「御者からだ。署名しといてくれ」
渡された書類の一行目には、『行旅病人救護届』と大きく書いてあった。
アリアが説明した。
「それがあれば、ミレトスまでの旅費がただになるんだよ。書く物は持ってる?」
鞄の中に筆記具はなかったことを思い出し、首を振る。
「じゃ、これを使って」
アリアが万年筆を差し出す。受け取ると、ずっしりと重かった。無骨だがしっかりした造りで、かなり使い込んでいる。歳に似合わない渋いデザインだ。
理一郎がそう思ったのを知ってか知らずか、「おじいちゃんの形見なの」とアリアが言い添える。
埋めなければならないのは氏名、年齢、身分、職業、現住所、旅の目的と行き先。だが、名前と、身分証明書に記されていた自由市民という身分しか書けなかった。
手が止まったのを見て、アリアが書類をのぞき込む。
「どうしたの? わからないところがあった?」
理一郎が事情を説明する。アリアをどこまで信用していいかわからなかったので、異世界から来たことは伏せ、記憶をなくしたこと、そして理由はわからないが学都ミレトスに向かおうとしていたことを話した。
他の乗客を意識して、声は自然と小さくなった。ちゃんと聴き取ろうと、アリアが顔を寄せてくる。いい匂いが鼻をくすぐる。こんな距離で女子と話したことがなく、頬が熱くなるのを感じた。
「記憶喪失……?」
理一郎はアリアの声音に自分への気遣いを感じた。
「身分証かなにかある?」
書類を渡すと、アリアは大きな目を見開いて、じっくり観察した。
「王国の自由市民証と移動許可証ね。……でも変だな、職業も住所も書いてない。公印の波動は王国内務省のものに間違いないのに……」
アリアが書類を返す。
「本物なんだけど、一時的なものなのかな……。もっと一般的な身分証を手に入れたほうがいいと思う」
「取得可能なのか?」
「ミレトスでどこかの学校に入るか――」
「教育課程は修了している」
「そうなの? 同い年ぐらいなのに? わたしは十六だけど、理一郎くんは?」
「十七」
たぶん、という言葉は呑み込んだ。
「飛び級? すごいね。じゃあ、ミレトスで冒険者組合に登録するのがいいかも」
「冒険者?」
「あれ、そういう知識も忘れちゃったの? 依頼を受けて魔物を退治したり、遺跡を調査したり、駅馬車や商隊を護衛したり、いろいろする職業じゃない」
「理解した。この世界には魔物が存在するのか」
「うん。この駅馬車にも、冒険者の護衛が四人ついてるよ」
――魔法があるのなら、魔物がいてもおかしくはないのだろう。
「ずいぶん物騒なのだな」
「大丈夫だよ、バルタ街道は定期的に駆除されてて比較的安全だから。でね、わたしは王立アカデミア魔法院の高等課程の生徒なの」
「魔法院? 魔法の学校か?」
「うん。アカデミアの中で一番規模が大きいの。魔法の系統ごとにたくさんの科が分かれてるんだ。あそこの子たちも魔法院の生徒だよ」
前のほうに、三人の少女が座っている。みんなアリアと似た制服を着て、それぞれ水色、紅、黒紫と、アニメのキャラクターのような髪色をしている。
少女たちは時々こっちを振り返っていたが、積極的に話し掛けてはこなかった。水色髪の少女は、理一郎と目が合うと笑顔で手を振ってきた。
――ここでは魔法は特別なことではないのか。
理一郎は少し前のめりになりながら、アリアに訊く。
「君は魔法を行使できるのか?」
「うん」
「では定義上、君は『魔法使い』ということになるのか?」
「そうね。でも正確には『魔女』かな。まだ見習いだから『魔法少女』ってとこだけど」
「両者の定義上の差は?」
「もう。理一郎くんの言葉はわかりにくいってば。もっと普通に話して」
「すまん。努力する」
「女性の魔法使いの中で、お呪いができて、ホウキで飛べるのが魔女」
――飛べる? ホウキで? どんな理が、それを可能にしている?
「それは興味深い。どうやって飛ぶのか、ぜひ見せてほしいものだ」
「理一郎くんは見たことないの?」
「俺の世界……いや国では、魔女はお伽話に出てくる存在だった」
「へえ、そんな所があるんだね。ずいぶん、遠くから来たのかな」
理一郎はその問いには答えず、さらに質問を続けた。
「それで、呪いと魔法には定義上の……いや、それらは異なる現象なのか?」
「うん。うまく説明できないけど、呪いは祈りに近いかな。神様の力を借りるの。魔女によって得意分野があるんだ」
「ほう。君はどんな呪いを?」
「それは……」
アリアは少し考え込み、やがて顔を赤らめながら答えた。
「……やっぱり、秘密」
「そうか……だが、この世界には魔法が確かに実在しているのだな」
「え? この世界?」
理一郎はあわてて訂正した。
「この地理的領域という意味だ」
「そうなんだ。理一郎くんの言葉は難しいな、もう少し易しく話してくれると助かる」
「すまん、慣れてなくて。それで、君はどんな魔法を使える?」
「わたしは防護系。結界とか保護とか、そういう系統」
「それは興味深い。ぜひ観察してみたい」
「観察されるのは、ちょっと……」
アリアは理一郎の熱心さに少し驚き、身を引く。
「ああ、すまない。知的好奇心から、つい」
馬車に揺られながら、理一郎はさらにこの世界についての一般常識をアリアから教わった。
アリアは面倒見よく、彼女にしてみれば言わずもがなの問いにも、一つひとつ丁寧に答えた。
小一時間ほど質問を繰り返すと、この世界をおおまかに把握することができた。後は実際に自分の目や耳で確かめるしかない。
「ありがとう。君の説明は要領を得て実にわかりやすい。頭の良い子だ」
率直に感想を言うと、「そんなことないよ」とアリアは照れた。
「理一郎くんの話し方もだいぶわかりやすくなったよ。でも、口調がなんだかオジサンっぽいときがあるね」
「そうなのか?」
「ほら、それも」
そう言って笑いながら、アリアは外を見た。だいぶ日が傾いている。
「そろそろキルケだよ。駅馬車の停留所で、宿場町があるの。ウサギ肉のパイが名物なんだ」
そう言われて、とても空腹であることに、ふいに気づいた。考えてみれば、大学をクビになった日の朝飯以来、何も食べていない。
この世界でどう暮らしていくのか、まだ目処すら立っていない。アリアから説明された貨幣価値によれば、持っていた銭袋の中身は、単身者の一カ月分の生活費程度だ。すぐに底をついてしまうだろう。
考えなければならないことは山ほどあるが、今はとにかく心身ともにゆっくり休みたかった。
そう思った時、馬車が突然加速した。
乗客たちの体が背もたれに押し付けられ、あちこちで驚きの声が上がる。
外から馬のいななきと、護衛の冒険者たちのあわてる声が聞こえてきた。
「グラスランナーだ! 数が多いぞ!」




